父親の仕事の関係で相模湾の中央、いわゆる「湘南」Click!の平塚に住んでいた子どものころ、庭が広かったのを憶えている。ただ、子どもの記憶なので、大人になってから改めて眺めたら決して広くはなく、きっと箱庭のようにかなり狭く感じるのだろう。確か、住所は虹ヶ浜というところだった。
 当時はあちこちで見られた、板を組み合わせて白ペンキを塗った垣根の向こうは、一面にクロマツの防風・防砂林が拡がっていた。その松林を貫くように、舗装されていないユーホー道路(遊歩道路=国道134号線)が通り、ときおり散歩をする人の下駄の音や、往来する馬車あるいはボンネットバスの音が静寂を破り響いていた。舗装されていたのは、馬入川(相模川)の湘南大橋から東側までだった。白い垣根に沿ってマサキの生け垣がつづき、松林と垣根を隔てるマサキの手前が、わが家の南側に拡がる庭だった。相模湾の渚から、おそらく100m前後しか離れてはおらず、波の砕ける音がしじゅう響き、台風でもくれば潮風がきつくて窓や鎧戸が潮で真っ白になった。
 そんな環境の中、地面はやや塩分を含んだ砂地なので、庭に植えられる樹木や草花も限られていた。でも、親父はよほど海に面した庭付きのテラスハウスがうれしかったのだろう、しょっちゅう庭に出ては、いまでいうガーデニングにいそしんでいた。おそらく、生涯で初めて広めな庭付きの家に住んだのではないだろうか。東日本橋のすずらん通りClick!にあった家は、もちろん広い庭などあるはずもなかった。テラスハウスにもともと付属していたのは、コンクリートのテラス前に造られた四角形の芝庭で、その外側のエリアは自由に造園ができるよう、手が加えられずに地面がむき出しになっていた。
 親父は残されたエリアへ、酒屋から手に入れた大量のサイダー瓶を逆さまにして埋め、割った竹を半円形に刺して区切り、その中へさまざまな樹木や草花を植えた。クロマツ林と庭とを区切る正面には、白くて小さな木戸をはさみ夏ミカンとマテバシイ、それにサンゴジュの木々が植えられた。夏ミカンの樹下には、油糟を水で溶いてためておく肥料甕が埋められていた。その手前には、フヨウやバラ、ユリ、ダリヤ、カンナ、ハマヒルガオなどが咲いていたのを憶えている。庭の中央には、それぞれチューリップやヒヤシンス、クロッカス、イチゴ、ダッチアイリス、ラッパズイセン、サルビアなどがかたまって咲き、台所へのドアがある庭の左手にはマツバボタンや、どこからか株分けしてもらった大きなハマユウの一群が細長い葉を拡げていた。
 ほかにも、わたしが知らない花々が四季を通じて咲いていたように思うのだが、なにもせず勝手に種子が飛んできて花を咲かせていたのが、夕方から夜になると黄色いフワフワした大きな花を咲かせるオオマツヨイグサだった。庭先で花火をやると、必ずオオマツヨイグサとハマユウには、親指ほどの胴体のスズメガやオオスカシバが何匹も集まって飛んできたのを憶えている。夏になると、前の松林は大きな毛虫だらけだったので、きっとそれが成長したのだろう。庭に出ると、風呂上りでもすぐに潮風で肌がべたつく海辺の家へ、なぜ親父は住む気になったのだろうか?


 親父の勤務先は横浜Click!だったので、その近くでも故郷の東京でもよかったはずなのだが、なぜか相模湾の海辺に家を探して住んでいる。これは、わたしの想像なのだが、小津安二郎Click!の映画によく出演している原節子Click!が好きだった親父は、作品にときどき登場する相模湾の情景が気に入って、海岸の家を探していたのではないだろうか。そして、わたしを連れては映画に登場する鎌倉や大磯をよく散歩している。大磯へはブラブラと歩いて行けたが、鎌倉へは砂塵をまきあげながらユーホー道路を走るボンネットバスで海沿いを走り、当時は数十分で腰越から七里ヶ浜へと出ることができた。
 でも、小津映画の情景が気に入ったのなら、別にもっと横浜に近い鎌倉の由比ヶ浜でも材木座海岸でも、また藤沢の片瀬海岸でも鵠沼海岸でもいいはずなのだが、なぜか親父は平塚海岸を選んでいる。その理由に思い当ったのは、わたしが子どもたちを連れて毎夏大磯へ出かけるようになった、ずいぶんあとのことだった。大磯の大内館を定宿にしていたわたしは、主人から「きょうは須賀の花火大会だから、懐かしいでしょ。屋上から観ますか?」と声をかけられたときだ。
 須賀の花火大会(正式には須賀納涼花火大会)とは、馬入川(相模川)Click!河口にある須賀港の付近で毎年開催される規模の大きな花火大会だった。大磯からは遠く、花火は鉢植えの花ぐらいのサイズにしか見えなかったが、平塚のわが家の庭先からは腹に響く打ち上げ音とともに、花火がすぐ近くで開花したのを思いだしたのだ。親父は、芝庭に籐椅子を持ちだしては、うちわ片手によく花火を嬉しそうに眺めていた。「これなんだ」と、わたしは思い当たった。親父がことさら平塚の海辺が気に入ったのは、この花火大会があったからなのだ。昭和30年代には、いまだ江ノ島の花火大会は存在していなかったように思う。
 
 親父はもの心つくころから、実家の目の前で打ち上げられる花火大会を見なれて育っている。江戸東京の夏の風物詩だった、1733年(享保18)からつづく隅田川の大橋(両国橋)のたもとで打ち上げられた「両国花火大会」Click!だ。明治維新と戦時中に何度か中断しただけで、日本ではもっとも歴史の長い花火大会なのだが、親父はもの心つくころから毎夏それを見ながら育った。だから、同じ海辺であっても、横浜でも鎌倉でも、藤沢でも茅ヶ崎でもなく平塚海岸の家だったのだ。
 須賀の花火大会は毎年、暗くなった7時ぐらいにはじまり9時ぐらいには終わっていた。いまとは異なり、それほど複雑なしかけや色彩はなかったし、人手で点火するので打ち上げの間隔が間遠いからじれったかったけれど、それでも太平洋の潮騒を聞きながら庭先で花火大会を観賞できるのは、いまから思えば贅沢な時間だった。海辺の時間はゆったりと流れ、軒下に吊るされた江戸風鈴とセミの声がどこからか聞こえて、台風でもやってこない限りはのんびりした生活だったように思う。
 わたしが小学生のとき、たった一度だけ津波警報が出て虹ヶ浜一帯が緊急の避難態勢に入ったことがあった。チリ沖の地震による津波だったと思うのだが、わたしは勉強道具をランドセルに詰めるだけ詰め、夜中の0時ごろまで2階で待機していたのを憶えている。市役所の広報車が、ひっきりなしにまわってきたが、結局は波の高さが数十センチほどのたいした津波ではなく、深夜に警報は解除された。自宅はコンクリート仕様だったけれど、2階家なので関東大震災Click!並みに10m前後の津波がきたら、とても無事では済まなかったろう。隣りの大磯とはちがい、平塚はその名のとおり山が近くになく、相模平野がどこまでもつづいている平坦な地域だから、大津波がきたら高台へ逃げようがないのだ。

 湘南を離れてこちらにもどってくるとき、親父はハマユウ1株と夏ミカンの木だけ持って、再び新しい庭に植えていた。砂地ではなく、関東ロームに植えられたハマユウは元気に花を咲かせていたが、海辺に植わっていたころよりは勢いがなかった。逆に、砂地で育った1.5mほどの夏ミカンの木は、わずか数年でみるみる成長し、2階の屋根を超えるまでになった。大きな黄色い実をいくつもつけたのだが、果実を味わってみても、もはや海の匂いはしなくなっていた。

◆写真上:現在でも湘南海岸のあちこちに残る、旧・東海道の松並木にかかる満月。
◆写真中上:上は、1947年(昭和22)制作の小津安二郎『長屋紳士録』に登場する茅ヶ崎海岸から眺めた江ノ島と三浦半島。下は、1949年(昭和24)制作の小津安二郎『晩春』に登場する平塚海岸。背景には湘南平と高麗山の一部が見えており、クルマもめったに通らないユーホー道路(国道134号線)をサイクリングしているのは原節子と宇佐美淳。
◆写真中下:左は、庭にたくさん植えられていたハマユウの花。右は、現在でもつづいている「須賀納涼花火大会」改め「湘南ひらつか花火大会」の様子。
◆写真下:芝庭の一隅で撮影された1歳半ごろのわたしで、いまだ親父の庭づくりはほとんど進んでいない。海沿いのクロマツ林は背が低く、松林の向こう側には未舗装のユーホー道路と、三浦半島と伊豆半島を両脇に一望できる湘南海岸が拡がっている。