今年の“夏休みの宿題”は、「目白」と「神田久保」に関するテーマだった。
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 目白不動堂(江戸期には新長谷寺の境内に安置)が、刀鍛冶や金工師の崇敬を集めていたのを知ったのは、1935年(昭和10)に出版された『小石川区史』(小石川区役所)からだ。同書に収録された目白不動の写真は、いまだ金乗院へ移転する前の関口は椿山Click!の東側、目白坂Click!の中腹にあったときのものだ。その写真を見ただけで、「ああ、やっぱり」と思ってしまった。(冒頭写真)
 写真を一見しておわかりのように、目白不動堂の右手に瓜型鍔(うりがたつば)を模した、おそらく石製の碑が建立されているのがおわかりだろう。刀剣の鍔は、刀を鍛錬したものと同じ目白=鋼(はがね)で鍛えるのが基本だが、江戸期になると多くの場合、より細工が緻密な金工師の仕事に分業化される。刀と同じ強度の鋼で鍛えるのは、斬りあう相手の刀を受けた際、手前に刃がすべるのを止め、柄(つか)を握った手もとを確実に防御するためだ。粗悪な鉄で製造すれば、鍔が割れたり折れ曲がったりして致命的なダメージをこうむる怖れがあり、戦闘時には役に立たないからだ。
★その後、金乗院境内に現存する鍔塚を近くで観察したところ、茎櫃が小さく小柄櫃に笄櫃を備えた大刀用ないしは太刀用の丸鍔(彫りは雲龍か)だったのが判明Click!した。
 しかし、戦闘がほとんどなくなってしまった江戸期には、刀剣そのものが装飾品あるいは美術工芸品としての価値が高まり、そもそも実用的で質実な刀剣作品は人気がなくなっていく。めったに抜かない(抜けない)刀身はともかく、よりオシャレで凝った、粋なデザインの拵(こしらえ)=刀装具が好まれ、鍔や小柄(こづか)、笄(こうがい)、鐺(こじり)、縁頭(ふちがしら)、目貫(めぬき)、鞘(さや)、はては下緒(したお)や柄巻(つかまき)、刀袋などの染め織りや組紐にいたるまで、精密で美しい細工やデザインをほどこした製品が好まれるようになる。
 それにともない、金工・細工師をはじめ織物師、染物師、漆芸師、木工師、陶芸師、編物師など多彩な分野へ刀装具の需要が拡大していった。刀剣が、日本の伝統工芸における「総合芸術」と称されるゆえんであり、現代の芸術好きな“刀女子”に人気があるのも、そのような工芸美術的な特徴が大きく影響しているからだろう。
 しかし、これらの装飾性や美術性の強い作品は、幕末の動乱期には好まれず、鉄鉱石から大量生産された鋼ではなく、わざわざ砂鉄から鋼を精製する昔ながらの工程(タタラ)を復活させ、新々刀Click!の流行とともに刀鍛冶が装飾性を排した、質実で強靭な鍔の製造までを担当するという、本来の工程が一部で復活している。また、明治以降になると刀剣の需要が激減してしまうため、もともと刀工だった人々も金工細工の分野へ進出したり、また農器具や調理器具の専門鍛冶(通称「野鍛冶」と呼ばれる)へ転向したり、あるいは破壊力や貫通力の高い鋼による銃砲弾の研究、いわゆる玉鋼(たまはがね)の開発のため軍に協力したりする鍛冶たちも現われたりした。
 元・刀鍛冶が金工も手がけるようになったのは、目白=鋼の扱いに習熟していたからであり、また欧米で鍔や小柄、笄などの工芸品が好まれ、外貨獲得のために積極的に輸出されたためだ。江戸末期から明治期にかけ、美術的に重要な刀装具が海外へ数多く流出しているのは、それだけ刀装具の欧米における人気が高かったことを物語っている。



 さて、目白不動へ瓜型鍔の石碑を建立したのは、明治以降の刀鍛冶か金工師かは不明だが、いずれにせよ目白=鋼を鍛えて刀剣あるいは刀装具を製造していた小鍛冶集団だと思われる。換言すれば、目白坂の目白不動においては目白=鋼と、地域名としての「目白」が少なくとも戦前までは直結し、強く意識されていた……ということだ。
 ここでいう「目白(めじろ)」という地名音は、現在のJR目白駅があるエリア、すなわち豊島区高田町のことではなく、江戸初期の神田上水工事Click!で大洗堰Click!と神田上水の取水口が築かれ、以来「関口」あるいは「関口台」と呼ばれるようになってしまった、椿山一帯の本来の傾斜地名または小字(こあざ)だったと思われる小石川区(現・文京区)の「目白」地域のことだ。この地名は、おそらく江戸期ないしは明治初期ごろに西へと拡大され、本来の目白という字名が消えてしまったため、由来を知る地元の有志が少し西側へ“復活”させたものか、「目白台」の地名を生むことになったのだろう。
 わたしが、最初に「目白」地名へ興味Click!をもったのは、目白崖線沿いの古地図を年代を追って調べていくと、あまりにも「金(かね/かな)」のつく字名や事蹟が多かったことからだ。刀剣が好きなわたしは、「目白」が江戸期以前には刀剣を鍛える「鋼」そのものの刀工用語であることを知っていたので、江戸期に後づけでつくられたとみられる多彩な付会を超えて、「目白」の地名考を試みてみたくなった。
 目白不動は、地元の松村氏と旗本の渡部氏が足利に住んでいた僧・沙門某に帰依し、おそらく江戸時代の早い時期に勧請したことが『江戸砂子』にみえている。もちろん、足利から勧請したのは弘法大師のいわれがある“不動尊像”であって目白不動ではない。椿山の山麓=目白地域へ堂を建て、安置されたから「目白」不動尊なのだ。以下、寛政年間(1789~1801年)に書かれた金子直德『和佳場の小図絵』の現代語訳、1958年(昭和33)に出版された海老沢了之介『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)から引用してみよう。
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 目白不動堂(東豊山新長谷寺)は関口にある。近来、竹生島と小池坊の両宿院となる。『江戸砂子』にいう。本尊荒澤不動明王は、弘法大師、唐より帰朝の後、羽州湯殿山に参籠ありし時、大日如来、忽然として不動明王の姿に変現し、瀧の下に現われ給い、大師に告げて曰く、今汝に上火を与うべしとて、利剣をふるえば、霊火さかんに燃え出で、仏身に満てり。大師は面前に出現の像二躰を模刻し、一躰は羽州荒澤に納め、他の一躰は大師自ら護持し給う。其後、野州足利に住せる沙門某これを感得して奉持したが、霊感があるので、関口の住人、松村氏は旗本渡部石見守(三千石)とともにこれに帰依して、土地を寄付し、ついに一宇を開いて、この本尊を遷し安置した。
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 また、1935年(昭和10)に出版された『小石川区史』(小石川区役所)には、明治以降に衰退していく新長谷寺の様子を次のように記している。ただし、無人となった新長谷寺の伽藍は荒廃が進むが、目白不動堂のみはかろうじて往年の体裁を保っていたようだ。それは、目白不動へ相変わらず帰依し、堂のメンテナンスをつづけていた人々がいたことを示唆している。その際、撮影されたのが冒頭の写真ということになる。
 だからこそ、新長谷寺は空襲で焼失するとともにあっさり廃寺となるが、目白不動のみは戦後になって小石川区の目白坂から、豊島区高田の金乗院へと遷座している。昭和初期の目白不動の様子を、『小石川区史』から引用してみよう。
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 又当寺(新長谷寺)の鐘は江戸二ヶ所の時の鐘の一つとして古来より鳴り響いたものである。かゝる由緒ある当寺も幕末頃から次第に衰頽し、観音堂、大門、中門、僧坊、鐘楼等、悉く廃滅に帰し、不動堂のみ僅かに昔時の俤を残したが、明治十八年に至り、釈雲照律師が当山に住し、有部の律院として目白僧園を起してより法燈大いに昂り、再び世に知られるに至つた。然るに律師の入滅後僧園と寺とを分離し、現在も境内は千餘坪あるが。伽藍は僅かに本堂と庫裡とを存するのみとなり、昔時繁栄の俤は全く失はれて了つた。そして唯崖下を洗ふ江戸川の流のみが、依然として昔に変らぬ悠久たる響きを伝へてゐる。
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 さて、目白不動堂があった目白坂の跡地から、あと60~70mほど坂道を上った左手に「幸神社(幸神宮)」がある。幸神社は、全国に展開する社(やしろ)だが、現在では「こう・じんじゃ」あるいは「さち(さいわい)・じんじゃ」などと呼ばれている例が多い。同様に、「古神社」も各地にある社だけれど、これもいつの間にか「こ・じんじゃ」や「ふるい・じんじゃ」などと呼ばれるようになっている。
 だが、この呼び方はまちがいなく誤りであり、「こうじん・しゃ」と読むのが正しいのだろう。ちょうど、いまの若い子たちが、同じ椿山(関口)つづきの麓にある「水神社」を「みず・じんじゃ」と読み、「すいじん・しゃ」とは読めなくなっているのと同じ現象が、明治以降に起きていると思われるからだ。明治政府により社にふられた「神社(ジンジャ)」Click!などという奇妙な呼称が、社本来の読み方まで変えてしまった一例だと思われる。明治政府の「手法」に忠実ならば、「水神社」は「水神神社」、「幸神社」は「幸神神社」と改変されなければ、首尾の一貫性がないことになる。



 なぜなら、これらの社は「庚申」の信仰と深く結びついているケースが多く、後世に習合あるいは混合した「荒神」(火床の神)と「庚申」信仰から、本来の由来がいつの間にか忘れ去られてしまった、典型的な社のひとつと思われるからだ。室町以前の時期、「幸神社」は「荒神社」だった可能性がきわめて高い。大鍛冶(産鉄やタタラ製鉄)には欠かせない鋳成神が、江戸期に入ると本来は朝鮮半島の生産神(秦氏)であり、のちに農業の神へと変節した「稲荷神」へと転化したように、ここでもまた、小鍛冶(刀鍛冶)や野鍛冶の火床(ほと)の神である「荒神」が、江戸期に入ると台所にある竈(かまど)の神や、本来なんの関係もない「庚申」信仰へと変節するケースを見ることができる。
                                   <つづく>

◆写真上:1935年(昭和10)に撮影された、新長谷寺内の目白不動堂。右手には、目白を扱う刀鍛冶ないしは金工師が建立したとみられる瓜型鍔の記念碑がとらえられている。
◆写真中上:上は、目白坂の中腹に建立されていた目白不動跡の現状。中は、1890年(明治23)制作の『東京名所図会』にみる目白不動(新長谷寺)。下は、明治中期に撮影された椿山遠景。右手が護国寺方面であり、小日向崖線から西を向いて撮影されている。
◆写真中下:上は、現在の目白坂。下は、『江戸名所図会』に描かれた目白不動。
◆写真下:上は、1910年(明治43)に作成された1/10,000地形図にみる目白坂周辺。目白坂上に見える「山縣邸」は、山県有朋邸(現・椿山荘)。中は、1936年(昭和11)に撮影された目白不動とその周辺域。下は、目白不動がある江戸川公園上から1930年(昭和5)に撮影された下戸塚(早稲田)方面Click!。