いつも、拙記事をお読みいただきありがとうございます。気づかないうちに、のべ1,100万人の訪問者数を超えていました。ほどなく、東京都の人口を超えそうなのにビックリしています。

  ★
 先日、NHKから突然電話をいただいた。最初は、なぜわたしの電話番号を知っているのか不可解だったが、何年か前に妙正寺川の記事のことでお問い合わせをいただいたのを思いだした。また、そのときのO記者とは偶然、近衛町Click!の「花想容」Click!でお会いして、ご挨拶をしたこともあった。その際、落合地域の問い合わせ先のひとりとして、NHKの報道取材DBにでも登録されたものだろうか。
 今回のお問い合わせは、NHKの「ニュースウォッチ9」Click!(月~金曜/午後9時~)の報道局K記者からで、演出家で劇団四季の創立メンバーである浅利慶太の実家は下落合のどこ?……というものだった。「う~~ん、突然そんなこといわれても」と、一瞬ボンヤリしてしまった。中村彝アトリエClick!の近くに、同じく演出家で俳優の蜷川幸雄が住んでいたのは、以前に近所の方からうかがって知っていたが、さて、舞台監督の浅利慶太邸はどこにあったのだろうと首を傾げたとき、わたしの記事を見て電話しているのだとK記者はいう。(爆!)
 そのとき、わたしのもの憶えの悪いアタマでも、ようやく思いだすことができた。以前、下落合に多い医院や薬局をテーマに記事Click!を書いたとき、コメント欄へトロさんこと池田瀞七さんから貴重なコメントをいただいていた。それは、開通したばかりの改正道路(山手通り)Click!から、戦前は「翠ヶ丘」、さらに改正道路工事が近づき地面がむき出しの原っぱだらけになるころからは、「赤土山」と呼ばれていたらしい丘陵へ通う急階段を上ると、浅利慶太邸や津軽邸Click!があったという記述だ。ちょうど、六天坂Click!から見晴坂にかけての、眺めのいい丘上に展開する住宅街だ。わたしの大好きな、スパニッシュ風の中谷邸Click!のある近所でもある。
 さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」と、1947年(昭和22)に米軍が撮影した空中写真、それに当時から変わらない印象深いと思われる中谷邸の写真を送ると、K記者は浅利監督といっしょに下落合3丁目(現・中落合1丁目)を訪れ、実家跡や付近を散策されている。そのときの様子は、9月7日(月)放送「ニュースウォッチ9」で観たのだが、浅利邸の所在地は旧・下落合3丁目1738番地に建っていた。ちょうど、六天坂を上りきった中谷邸の奥、戦前は津軽邸(旧・ギル邸Click!)の広大な敷地に隣接したすぐ北側の一画だ。


 戦時中は、自邸のすぐ前、下落合3丁目1741番地の空き地に防空壕が掘られ、1945年(昭和20)4月13日Click!と5月25日Click!の二度にわたる夜間の山手空襲Click!は、落合第一国民学校(小学校)Click!へと通う当時12歳の浅利少年にとっては、戦争の原体験となったのだろう。番組では、馴染みのある六天坂上の風景が映り、わたしは「下落合の自邸跡を特定できてよかった」と安堵したとたん、もうひとつ非常に重要なテーマをすっかり失念していたのに気がついた。
 創立した劇団四季を、昨年(2014年)に去った今年82歳になる浅利監督は、今年に入って「ミュージカル李香蘭2015」Click!の演出を手がけている。何度も舞台で上演された作品だが、特に今年は戦争を知らない現代を生きる若い世代に、戦争の悲惨さを少しでも実感してもらうため、特に思いをこめて演出しているという。戦後70年、「あの戦争を忘れた世代は危険だ」という浅利監督は、戦争を経験した世代としてその惨憺たる様子を伝える反戦の舞台へ、可能な限り挑みつづけるという。
 さて、舞台のヒロインである当の「李香蘭」(山口淑子)Click!は、浅利邸から南南西へわずか100mほどのところ、目白文化村Click!の第二文化村からつづく振り子坂Click!を下り、丘下の中ノ道(現・中井通り)へと出る途中、下落合3丁目1725番地(現・中落合3丁目)の家に住んでいた。浅利邸からは、当時は工事中の改正道路(山手通り)の広い空き地を利用して向かえば、歩いて1分以内にたどり着けたかもしれない。
 おそらくマスコミに公開している「公邸」ではなく、彼女の実質的な自宅ないしは家族の実家、あるいはプライベートな別邸だったのだろう、付近に住む人々が戦前、散歩する山口淑子(李香蘭)を頻繁に見かけていた。1938年(昭和13)の「火保図」を参照すると、確かに目撃されたその場所には山口邸が採取されている。

 
 ひょっとすると落合第一国民学校(小学校)へ通っていた浅利少年も、付近の丘を散策する美しい「李香蘭」こと山口淑子を目撃しているのかもしれない。1945年(昭和20)4月2日、第1次山手空襲(4月13日夜半)の11日前に、偵察機のB29が撮影した空中写真を確認すると、屋敷林に囲まれた西洋館らしい山口邸の屋根を確認することができる。だが、戦後の1947年(昭和22)に撮影された爆撃効果測定用の空中写真では、北に隣接する敷地とともに住宅の屋根を確認できないので、おそらく二度にわたる大規模な山手空襲のどちらかで焼失しているのだろう。
 また、浅利慶太邸は1941年(昭和16)に陸軍航空隊が撮影した空中写真には見えないので、おそらく同年から物資が極端に欠乏する以前の1943年(昭和18)の2年間のどこかで、建設されていると思われる。
 今年の9月7日は、昨年に死去した山口淑子の一周忌に当たっていた。「ミュージカル李香蘭2015」は、8月31日から9月12日にかけ、彼女の命日をはさみながら港区海岸1丁目の自由劇場で上演され、チケットは事前に完売するほどの大人気だったらしい。これからも、戦争の悲惨さや怖しさ、虚しさを伝える舞台を、ぜひ浅利監督には演出・上演しつづけてほしいと思う。
 

 余談だけれど、新宿中村屋Click!と中村彝をはじめとする中村屋サロンに集った人々の物語を描く、劇団民藝の舞台「大正の肖像画」Click!が10月20日~11月1日にわたって紀伊国屋サザンシアターで上演される。彝をはじめ、中原悌二郎Click!やエロシェンコClick!、相馬俊子Click!、岡崎キイClick!、神近市子Click!ら、下落合ではお馴染みの人々も多く登場するのだが、近くにお住まいで知人の民藝女優・白石珠江さんは誰の役かと思ったら、ヒロインの相馬黒光Click!だそうだ。w 白石さんには、ぜひ三田佳子とは異なる「オンちゃん」こと佐伯米子Click!を、いつか演じていただきたいのだけれど……。

◆写真上:下落合3丁目1738番地にあった、浅利慶太邸跡(左手)の現状。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)の「火保図」(左が北)にみる浅利邸と山口邸の位置関係。まだ浅利邸は建設前だが、山口淑子邸はすでに採取されている。下は、1941年(昭和16)に陸軍が撮影した斜めフカンからの下落合3丁目界隈。改正道路(山手通り)工事が間近なため赤土がむき出しの空き地や丘の斜面が目立つ。
◆写真中下:上は、第1次山手空襲の11日前に撮影された浅利邸と山口邸。下左は、「李香蘭」を演じる山口淑子。下右は、「ミュージカル李香蘭2015」のポスター。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる浅利邸(左)と、空襲で焼失したとみられる山口邸跡(右)。下は、振り子坂に面した山口邸跡(左手)の現状。