江戸期の寛政年間に、金子直德Click!が記録した『和佳場の小図絵』(『若葉の梢』Click!)には、目白崖線のあちこちから貝殻が発見された様子が記録されている。たいがい井戸を掘ったり、屋敷を建てるために斜面を切り崩したりすると出現するのだが、金子はそれを目白や落合の谷間が江戸湾の入江だったころの、昔日の名残りだと的確にいい当てている。だが、彼はそれを鎌倉時代から平安時代ごろのことと解釈していたようだ。
 貝殻の発見と同時に、付近には舟をつないだ樹木のいい伝え、つまり舟着き場などの伝承、や、井戸を掘っていて出現した舟の部材などをもとに、少なくとも目白崖線の下に拡がる谷間が海だったのは、寛政年間からさかのぼって700~1000年前ごろのことだろうと推定していた。たとえば、下高田村(現・高田1丁目)にあった水戸徳川家の分家である松平大炊頭の屋敷で井戸を掘ったところ、厚さ3尺余(90cm以上)の貝殻の層に突き当たったことが記録されている。松平大炊頭屋敷は、現在の日本女子大学付属豊明小学校の西隣りにあたる位置だ。金子直德の『和佳場の小図絵』から、原文をそのまま引用してみよう。
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 御屋敷にて寛政九年の秋、御中奥に御膳水の井を掘せられしが四丈四五尺下より種々貝類夥敷出けり、凡三尺餘も貝斗の処有しと。されば此辺も古来海にて、七百年以前か千年も前に埋まりて岡と成けん。大塚安藤様御屋敷にて近来井を掘、大舟の楫を丸に掘出せし事ありと。
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 また、下戸塚村(現・早稲田界隈)にも舟着き場の伝承が残っていたのを、金子は毘沙門山の毘沙門堂の事蹟とともに収録している。「船つなぎ松」の伝承があったのは、水稲荷社のあった前方後円墳・富塚古墳Click!(100m前後)の隣り、宝泉寺と法輪寺の間にあった毘沙門山の山腹だったようだ。旧・水稲荷や富塚古墳は現在、早稲田大学の9号館下となっているが、同古墳の羨道や玄室の構築に使われた房州石Click!は、甘泉園西側の現・水稲荷社本殿裏に保存されている。再び、金子直德の『和佳場の小図絵』から引用してみよう。
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 船つなぎの松は山の中ほどにありしが、今は枯ぬ。大猷院殿此古松何程に成やと御尋ありしに、別当凡千年にも及べきにやと申上げれば、千とせの松と御褒美下されける。船をつなぎし事は、此寺の垣外田面が皆入海にて、金川の落入所なれば、街道芝の辺より霞ヶ関に登り、本氷川より番町を横切、牛込酒井修理太輔の御下屋敷にかゝり、御庭に三かかえ斗成山桜の大樹を今に沓掛桜と云、今にあり。此下通小笹坂と云処に、楠不伝が伐れしと云処、六部の形の石塔あり。其泉水の下を船渡場と云り。是より船にて入江と川の落合を此毘沙門山に着舟せしとぞ。先に又述べし。
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 1854年(嘉永7)に作成された尾張屋清七版の『牛込市谷大久保絵図』には、富塚古墳(高田富士Click!)の南側に「船つなぎ松」らしい大木が描かれている。この老松は、かなり以前に枯れてしまったようで、明治以降は名残りの老松が2代目「船つなぎ松」として残っていたらしいが、『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会)の編者である海老沢了之介によれば、昭和初期の宅地開発で毘沙門山そのものが丸ごと崩されて整地され、樹木もすべて伐採されてしまったようだ。富塚古墳に隣接していた毘沙門山もまた、古墳期の前方後円墳あるいは円墳だった可能性がある。


 金子直德は、地面から発掘される貝殻がよほど面白かったものか、出現場所をけっこう小マメに書きとめている。次の記述も、やはり井戸を掘っていて貝殻の分厚い層を掘りあててしまったケーススタディだ。同書の現代語訳版である『新編若葉の梢』(1958年)より、関口新町(関口水道町)の記述から引用してみよう。
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 貝殻の出土 この辺より東はどこでも六尺ばかり掘れば、牡蠣・蛤などの古い貝殻が出る。厚さが二尺または三尺位の所もある。だから古代は入海であったことが明らかであるとは、芳心院領名主六兵衛と横山孫太郎との話である。
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 さて、金子直德はこれら貝殻の地層を、下高田村と下戸塚村にはさまれた谷間を流れる神田上水(現・神田川)一帯が、海の入江だったころ自然に堆積された貝殻だと考えていたようだ。はっきり貝殻だと認識されているので、関東ロームのさらに下に堆積している「東京層」と呼ばれる粘土層から見つかる貝殻の形象化石Click!でないことは明らかだ。貝の形象化石が、「凡三尺餘」(1m近く)の貝殻の層を形成することはありえないので、もっと新しい時代の痕跡だろう。
 すなわち、『和佳場の小図絵』の随所に見える貝殻層の発掘は、縄文時代の貝塚遺跡を発掘してしまった可能性が高い。いまから約6,000年前の縄文前期に起きた、いわゆる縄文海進期(後氷期海進)の時代に人々が入江で採取した貝殻を棄てた貝塚だ。事実、目白崖線沿いには縄文遺跡が随所に展開しており、下落合では目白学園遺跡Click!がもっとも大規模で有名だが、高田側でも学習院の斜面から縄文遺跡Click!が発掘されている。高田とは神田川をはさんで反対の下戸塚側(高田馬場側)、すなわち新宿区側のみでみても縄文遺跡の発掘数は60ヶ所を超える多さだ。
 
 
 だが、学術調査が入り「遺跡」と規定された場所ばかりでなく、目白崖線の斜面はあちこちが「埋蔵文化財包蔵地」に指定されている。先年、タヌキの森Click!へ違法建築のマンションを建てる際も、基礎工事の前に敷地の事前発掘調査が行われたが、縄文式土器や弥生式土器の破片がいくつか見つかっている。おそらく、縄文海進時の入江沿いには、縄文人たちの大規模な村が崖線沿いに展開しており、入江で豊富だった貝類を採集して食糧にしていたのだろう。その際に形成された貝塚が、『和佳場の小図絵』の随所に見える貝殻層の正体である可能性が高い。
 また、金子直德が鎌倉時代ごろまで海の入江だったと錯覚している、舟着き場の伝承や舟の部材出土は、いわゆる奥東京湾の名残りとして不忍池Click!やお玉が池Click!と同様にとり残されていた湖水の痕跡、目白崖線沿いに白鳥池Click!が存在していた時代の名残りではないだろうか。白鳥池は、江戸時代にはすでに姿を消しており、現在の大曲あたりから早稲田田圃界隈にかけて湿地帯が拡がり、その真ん中を平川(のち神田上水および江戸川=現・神田川)が流れていた。おそらく伝承から推測すると、白鳥池は鎌倉時代から室町時代にかけて徐々に縮小し、最終的に室町後期には消滅していると思われる。
 金子直德は「千年前」まで視界に入れているが、白鳥池の西端は現在の早稲田あたりまで達していたかもしれず、それが徐々に室町期にかけて後退、あるいは付近の土砂で干拓され、農地化が進捗したようにも想定できる。
 
 
 寛政年間に『和佳場の小図絵』を著した金子直德は、6,000年前の縄文海進期に由来する縄文遺跡の貝塚と、室町期までは存在していたと思われる広大な白鳥池の事蹟とを習合させ、下高田村と下戸塚村の間を流れる神田上水(現・神田川)一帯の谷間を、700~1000年前には貝が豊富に採れる、江戸湾からつづく入江だったと解釈していた気配が濃厚だ。

◆写真上:関東ローム層の途中から出現した、いまから6,000年ほど前の縄文期貝塚層。王子崖線のもので、やはり1m前後の貝殻の堆積が見られる。
◆写真中上:上は、典型的な関東ローム層の赤土。下は、1854年(嘉永7)作成の尾張屋清七版『牛込市谷大久保絵図』にみる2代目と思われる「船つなぎ松」。
◆写真中下:上左は、本堂裏の毘沙門山に「船つなぎ松」があった龍泉院(龍泉寺)。上右は、学習院の崖地。下は、下落合(左)と高田(右)の急斜面。
◆写真下:2005年(平成17)に行われたタヌキの森の工事前試掘調査で、試掘の様子(上左)と縄文土器片の出土状況(上右)、縄文土器の破片(下左)と出土した土器片群(下右)。いずれも、「東京都下落合4丁目768-3,775-20試掘調査/埋蔵文化財試掘調査業務報告書」(2005年9月)より。