1921年(大正10)に住宅改良会Click!から発行された『住宅』1月号には、本郷区駒込千駄木林町21番地にあった中條百合子(のち宮本百合子)Click!の新婚家庭を見学する訪問記が掲載されている。新婚家庭といっても、この地番にあった家は中條百合子の実家であり、両親の反対を押し切って米国で結婚した古代東洋語を研究する荒木茂は、日本に帰ると百合子の実家へ身を寄せている。
 『住宅』の契約記者と思われる吉川俊子は、おそらく前年1920年(大正9)の暮れに中條邸を取材していると思われるが、中條百合子が荒木と結婚してから1年と2ヶ月、百合子が帰国してから丸1年、荒木が米国での研究生活を切り上げて帰国してから8ヶ月……という状況だった。その様子を、同誌1月号の吉川俊子「応接間に於ける名流婦人」から引用してみよう。
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 千駄木の静かな邸町をゆくと交番の六角のポリスボツクスと向ひ合つて小さな門があります。巧みに飛ばした石を伝つて二十間も行つた処に物語めいた古雅な玄関があります。大きな踏石に登つて案内を乞ふと青銅の燈籠が隅の方に古びた色を浮ばせて一層此の玄関を舞台化してゐます。可愛い少年に導びかれて十二畳位の洋式応接間にはいるとアカデミツクな装ひに整へられて、南の窓から光線がはいるだけで室内はやゝ暗く、それが又一層此の部屋の空気を荘重なものにしてゐます。西側の壁にストーブ、淡紫の瓦斯の焔が美しく立ちのぼつてゐる。それと向ひ合せて大きな本棚が据えられ金文字の背を並べて建築の書物がずらりと並び、中央に円卓子があつた。三四脚のあたゝかさうな腕椅子がそれを囲んでゐます。壁には種々な古画が掛けられ部屋の隅々には小さな置物が沢山飾られて、扉は北側の中央と、東側の本棚の傍とにあります。待つ間もなく荒木滋氏(ママ)の夫人で閨秀作家の百合子夫人がにこにこと扉の間から美しいお顔をおみせになりました。
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 すでに、中條百合子は日本女子大学へ入学(1学期で中退)する前後から「天才女流作家」として高名であり、夫の荒木茂は名前の字をまちがえられるほど影が薄い存在だった。百合子と荒木は、お互いに「グランパ」「ベイビー」と呼び合い仲睦まじく暮らしていたが、当初から結婚には大反対だった百合子の両親は、そんなふたりを苦々しく眺めていたのだろう。
 少しでも荒木にハクをつけようと、百合子の父親であり建築家の中條精一郎は、彼を女子学習院や日本大学、慶應大学の教師の仕事を世話しているが、おそらく内向的で頼りない性格の地味な娘婿に、うんざりしていたのではないだろうか。ときに、両親は荒木のいる前でこれみよがしに、百合子へ「この結婚は失敗だった」といわんばかりの言葉を投げつけている。
 さて、そんなピリピリした生活を送るなかで、『住宅』の記者を迎えた中條百合子は「まあま、お待せいたしました。お寒いのにようこそ」と、できるだけ明るくふるまおうとしている。記者との会話は、すぐに小説のことに向けられ、自分の作品についてずいぶん悪口をいわれているけれど、「そんなことは一々気にしてはゐられませんわね」、褒められても貶されても自分の道を歩いていくだけだ……と、気の強い性格を見せている。もちろん、この言葉の裏側には、作品を語るついでに両親と自分たち夫婦との確執についても重ねていたのだろう。つづけて、同誌から引用してみよう。
 
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 「私なんか、ほんとに呑気な境遇に居りますので書うと思へばいくらでも障げられずに書くことができますの。燃え立つやうに書きたくなつてペンをとることがありますけれど、でも時々は自分ながら不思議な程自信がなくなつて情ないことがあります。どうか私自信をいつでも失はないやうになりたいと思つてゐますの、いまも長篇を創作中ですけれど、でも書き上げない中に吹聴することはやめますわ」とヘヤネツトをかけてきれいに上げられた髪をかしがせてほゝい(ママ)むのでした。それから雑談に移るとたいへんに肥つてゐられるのを気にして「どうかして躰を痛めずに痩せる工夫はないでしうか(ママ)」と仰るのもお愛嬌でした。夫君の滋氏(ママ)が慶應大学と日本大学にお出になるやうになつてからもずつと父君精一郎氏のお邸に同居されてゐるのださうで夫人は未だ母君のストリングオブエプロン(前掛の組と云ふのはアメリカで甘えつ子の意味に使はれてゐる)ださうです。/おいとまして扉を押すと此の洋室と向ひ合つて明るく広い日本間の応接室が玄関の四畳から直ぐつゞいてゐました。
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 中條百合子は、当時の女性としてもかなり小柄だと思われるのだが、米国へ留学したころからメタボ気味だったようで、それを気にしてかダイエットを試みていた様子がわかる。のちに、モスクワ留学中に胆石の大病をしたにもかかわらず、60kgを下らない百合子を風呂へ入れるのに、介護する湯浅芳子Click!はたいへんな思いをしている。
 ここで百合子が話している創作中の「長篇」が、どのような作品だったのかは不明だ。1921年(大正10)から関東大震災Click!のあとまで、中條百合子は目を惹く長編を発表していない。執筆の途中で、頓挫してしまった作品だろうか。いずれにしても、彼女にとって実家における荒木茂との新婚生活は、結果的にめぼしい作品を産みだせない、非生産的で不作の時代だった。
 中條百合子の実家である駒込千駄木林町21番地の家は、玄関の近くにそれぞれ洋間と日本間の応接室を備えた、かなり大きな和洋折衷の屋敷だったことがわかる。記者は、「少年」に案内されて応接室へ通されているが、この「少年」も玄関近くのベルの音が聞こえるあたりに部屋をあてがわれた、書生のひとりだったと思われる。記事の冒頭で、「六角のポリスボツクスと向ひ合つて」とあるので、中條邸の向かいである駒込千駄木林町34番地ないしは35番地には、請願交番Click!を設置する必要がある“有名人”が住んでいたのだろう。また、ごく近所には高村光雲Click!のアトリエがあった。
 
 
 この取材ののち、中條百合子は夫・荒木茂の存在へ疑問を抱きはじめる。その様子を、1990年(平成2)に文藝春秋から出版された、沢部仁美『百合子、ダスヴィダーニヤ』から引用してみよう。
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 だが両親との関係に進展はなかった。自分たちのいないすきに大事な娘を奪った婿が両親は許せなかった。内向的で人づきあいの苦手な荒木を、陰気で不器用な男だと両親は嫌い、露骨に軽蔑した。母は百合子が荒木といっしょになってから、以前のように勉強をしなくなったことも不満だった。百合子自身も日記の中で、「お前は、彼の中に在る何を愛したのか、彼の中に共鳴する感傷と情欲と結婚したのか」と自問している。新婚間もない百合子が母の前で放心したような表情を見せるとき、母のいらだちは募った。この結婚は失敗だと言いつづける母と、舅姑に拒まれた居心地の悪さにますます自分の殻に閉じこもる夫。その間で百合子は悶々とし、半年後には駒込片町に別居し、翌年には青山北町(現在の港区北青山)に移り住むのである。/しかし、こうして両親との対立にいちおうの決着をつけたものの、夫婦だけで面と向かう生活が始まると、今度は夫との葛藤が始まった。
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 考えてみれば、この『住宅』の取材は百合子の父親であり、建築家の中條精一郎がセッティングしたのではないかと思われるフシがある。なぜなら、百合子の記事「応接間に於ける名流婦人」は、同誌のP24~25に見開きで掲載されているのだが、その次のページ(P26~27)をめくると、つづいて執筆者が不詳なロシア文学に描かれた住宅建築や別荘建築についてのエッセイが載っている。ロシアの住宅建築については、ドストエフスキー『虐げられし人々』に登場するアパートメントが、別荘建築についてはプーシキン『初恋』からピックアップされた建物が紹介されている。
 これは、もちろんロシア文学から強い影響を受けていた中條百合子を意識した企画であり、特にドストエフスキーの『貧しき人びと』からじかに着想を得た、彼女の4年前のデビュー作である『貧しき人々の群』(1917年)を念頭に、あえて今度は『虐げられし人々』(現題『虐げられた人びと』)を取りあげていると思われるからだ。そして、この建築エッセイを執筆しているのは、自分や妻の反対を押し切って気に入らぬ男と結婚し、百合子の実家へ寄宿するような情けない婿とのママゴト生活を危惧して、娘の創作意欲をかきたてようとした父親・中條精一郎の仕事ではなかっただろうか。
 

 中條百合子は関東大震災後、荒木茂との関係をさっぱり清算したあと、1924年(大正13)4月に野上弥生子の家で湯浅芳子と出会っている。そして、モスクワ滞在を含めた彼女との蜜月時代を経験し、やがては宮本賢治と結婚して落合第二小学校(現・落合第五小学校Click!の敷地)そばの、上落合2丁目740番地へ引っ越してくるのは13年ほどのちのことになる。百合子は、思想的な変転やめまぐるしく推移する生活の中で、落合地域の周辺を転々としているのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:落合第二小学校(現・落合第五小学校)脇の坂を南へ上った、突き当たり右手の茶色い建物が上落合2丁目740番地の宮本百合子旧居跡。右手に見える白いフェンスは、現在の落合第五小学校(当時は落合第二小学校)の敷地で、「チーチーパッパ」がうるさくて仕事にならないと、獄中の宮本賢治あての手紙でこぼしている。
◆写真中上:左は、明治末の地図にみる本郷区駒込林町21番地の中條邸。右は、1917年(大正6)にベストセラーとなった中條百合子『貧しき人々の群』(玄文社)の出だし。
◆写真中下:いずれも1921年(大正10)発行の『住宅』1月号(住宅改良会)で、表紙(上左)と中條百合子を訪ねた吉川俊子「応接間に於ける名流婦人」(上右)、ドストエフスキーの『虐げられし人々(虐げられた人びと)』を取り上げた「文学に現れたる住宅」(下左)、表4に掲載された東京電気(現・東芝)の照明器具の媒体広告(下右)。
◆写真下:上左は、米国への留学直前に『婦人画報』のカメラマンが撮影した中條百合子。上右は、宮本百合子時代に撮られたポートレート。下は、1931年(昭和6)に高田町巣鴨代地3553番地(翌年に目白町3丁目3553番地)の家で撮られた中條百合子(左)と湯浅芳子。キャプションとして「目白上り屋敷3553番地」と書かれている資料がほとんどだが、近くの省線・目白駅と武蔵野鉄道・上屋敷駅の駅名をつなげただけで、そのような住所は存在しない。おそらく、湯浅芳子が写真の裏面に記したメモ書きだろう。いまの街並みでいうと、「太古八」Click!のある小道を100mほど北へ入った左手の一画にあたる。百合子は目白駅周辺が気に入ったものか、1937年(昭和12)にも目白町3丁目3570番地に住んでおり、上戸塚の窪川稲子(佐多稲子)Click!や藤川栄子Click!と頻繁に往来している。