今年2015年9月に出版された写真集『新宿区の100年』(郷土出版社)で、わたしはリード18本とキャプション59本を書かせていただいた。10月に入って同書は新聞でも紹介されたので、ご存じの方も多いかもしれない。その中で、3箇所の修正が出てしまったのでご報告したい。制作期間が短く、実質1日だけの校正時間しかいただけなかったので、どうしても仕事の合い間の片手間作業となり、綿密に再検証しての校正できなかったのがとても残念なのだが、もし増刷されるようであればさっそく訂正したい。
 同写真集は、街で暮らす一般市民の視点から地域の歴史を掘り起こし眺めてみる……というコンセプトで編集されており、歴史的に“有名”な写真や人物たちはあまり登場してこない。その企画に共感して、原稿書きをお引き受けすることにした。新宿区に限っていえば、従来の地域資料ではどうしても新宿駅周辺の繁華街(角筈・淀橋地域)が中心となり、また江戸期に旧・内藤新宿のあった四谷地域がクローズアップされることが多い。さらに、外濠沿いの市谷から神楽坂にかけても取り上げられる機会が多く、新宿区の西北部の街並みにはなかなかスポットが当たってこなかった。
 このような傾向は、明治期から市街地化が進んでいた四谷区や牛込区、そして新宿停車場周辺には数多くの物語や事績が蓄積されているので、いた仕方のない事情があるのかもしれない。芝居や新派でも、市谷や四谷が登場することはあっても、新宿区の北側が舞台になることはまれだ。たまに新宿区の西北部が取り上げられるとすれば、ピンポイント的に焦点を当てられた夏目漱石Click!や小泉八雲Click!、佐伯祐三Click!、中村彝Click!、林芙美子Click!など行政による記念館や公園が設置された人物たち、また早稲田大学Click!のような教育機関に集約されるような企画が多かったように思う。当然、これらをテーマとする資料は充実しているけれど、それ以外の地域の「100年史」はかなり手薄とならざるをえないのだろう。
 これでは、あまりにアンバランスなので、わたしは新宿区の西北部の街並み、戸塚・落合地域にこだわって手もとの写真類を整理し、さっそく編集部にお送りした。その中で、採用されたのはお送りした写真の半分ほどなのだが、それでも既存の同種の資料よりは圧倒的に新宿区西北部がクローズアップされていると思う。また、すでに新宿区に十分な資料がある有名な夏目漱石や佐伯祐三、中村彝、林芙美子といった人々はほとんど割愛し、落合地域に限っていえば、三ノ輪通り商店街の古い街並みに重ねて、いま熱心なファンが急増中のより現代的な尾崎翠Click!や、アビラ村Click!の紹介に合わせて金山平三Click!や刑部人Click!、満谷国四郎Click!、林唯一Click!、吉武東里Click!、大熊喜邦Click!などが登場している。
 
 さらに、たとえば落合地域に限れば、大正期における日本初の本格的な「郊外文化住宅街」Click!の形成を近衛町Click!、目白文化村Click!、アビラ村Click!、その他のエリアに分類し、できるだけ多くの近代建築の街並みをご紹介した。近衛町では、酒井邸Click!や藤田邸Click!、杉邸Click!、小林邸Click!、そして近衛文麿邸Click!。目白文化村では、いつも書籍や資料に掲載される「目白文化村」絵はがきClick!ではなく、入手ずみだった「目白文化村の一部」絵はがきClick!の神谷邸Click!、石橋湛山邸Click!、松下邸Click!、末高邸Click!、鈴木邸Click!、中村邸Click!、安食邸Click!(のち会津八一邸Click!)を掲載している。
 アビラ村では島津源吉邸Click!、刑部人邸Click!、林唯一邸Click!、金山平三邸Click!、吉屋信子邸Click!を掲載し、その他の下落合では御留山Click!の巨大な相馬邸Click!、ヴォーリズ設計の目白福音教会のメーヤー館Click!、七曲坂の大島邸Click!、そして遠藤新建築創作所が手がけた現代住宅の嚆矢的な存在である小林邸Click!をご紹介している。また、新宿区(旧・四谷区/牛込区/淀橋区)の80%以上が焦土と化した、戦時下あるいは空襲関連の写真も数多く編集部へお送りし、25ページ以上が戦争とそれによる惨禍のページで構成されている。ただし、「軍都・新宿」の象徴ともいうべき、戸山ヶ原の陸軍施設をあまり紹介できなかったのが心残りだ。
 改めて、同書に用いる貴重なアルバム写真の使用を、こころよくご承諾いただいた落合地域にお住いのみなさま、またかつてお住まいだった方、あるいは落合地域に興味を持たれている方々に心から感謝申し上げたい。
 さて、修正個所は堀尾慶治様Click!よりご提供いただいた写真のキャプション部分だ。まず、83ページの「落合第四小戦勝祈願」のキャプションで、国民学校のスタートが「昭和10年3月より国民学校」となっている。わたしは原稿の年号をすべて西暦で記述しているので、国民学校令(昭和16年勅令第148号)の公布を「1941年3月より国民学校」と書いたはずなのだが、それを編集部で昭和元号に“翻訳”する際に勘ちがいをされたようだ。つづいて、84ページの「落合第四小学校」Click!のキャプションで、わたしは1940~1941年=「昭和15~16年」と書いたが、堀尾様から1940年(昭和15)に規定できるとのご教示をいただいた。



 また、85ページのキャプションだが、これは完全にわたしのミスだ。「落合第四小林間学校」は「小学校の林間学校」が正しく、淀橋区の小学校が合同で主催した林間学校の写真だ。行き先も「御殿場」ではなく「那須高原」で、落四小からの参加は堀尾様ひとりだった。おそらく、わたしが堀尾様に写真を何枚か見せていただいた際の、記録自体がまちがっていた可能性が高い。つつしんで、訂正とお詫びを申し上げたい。同キャプションを書きなおすとすれば、下記のようになる。
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 小学校の林間学校 (昭和10年代)
 太平洋戦争が始まる前、栃木県の那須高原で行われた新宿周辺の小学校による夏休み林間学校。学童疎開の光景とは異なり、生徒たちの表情はみな明るく食事も豊富で多彩だ。当時の小学校で催される遠足や小旅行の行き先には、羽田海岸の穴守稲荷や鎌倉、石神井公園の三宝池、高尾山などが選ばれている。
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 さて、同写真集の執筆をお引き受けする際に、隣接する豊島区をテーマにした『豊島区の100年』を見本としていただいた。その中で、直近で判明した事実に照らし合わせ、訂正が必要と思われるキャプションを見つけたので、とてもおせっかいなのだがついでに指摘させていただきたい。68ページの「目白駅舎」に関するキャプションだが、1941年(昭和16)現在で写っている橋上駅化された目白駅Click!は2代目ではなく、1928年(昭和3)竣工の4代目・目白駅だ。地上駅が日本鉄道時代と鉄道院(省)時代とで2代あり、1922年(大正11)に初代橋上駅(目白橋西詰めの駅前広場がある3代目・目白駅)の次にできた駅になる。また、1962年(昭和37)に実施の目白駅大改修後の同駅を5代目と勘定するなら、2000年(平成12)に竣工した現在の駅舎は3代目ではなく、6代目・目白駅(1962年の大改修を勘定しなければ5代目)ということになる。
 
 『新宿区の100年』は、出版に先駆けて予約を募っていたのだが、高価な写真集なのでそれほど売れはしないのではないかと予想していた。ところが、当初の予約が出版部数を上まわり、急遽初版の発行部数を増やしたのだそうだ。それでも出版社の在庫は払底し、各書店でも売り切れがつづいて、現在では新宿紀伊国屋書店に多少の在庫がある程度になっているという。もし、再版される機会があれば上記の箇所を修正して、より完成度の高い内容にしたい。

◆写真上:朝霞が立ちこめる、ほとんど人のいない早朝の新宿御苑。
◆写真中上:この秋に出版された写真集『新宿区の100年』(郷土出版社)。
◆写真中下:同書P83~85にかけての修正箇所。
◆写真下:2014年8月に出版された『豊島区の100年』(郷土出版社)。