新宿区エリアに残る、江戸川乱歩Click!の足跡を調べていると目がまわってくる。大正期から1933年(昭和8)までの代表作は、ほとんどがこのエリアで書かれているせいか、居住地の周辺が作品の舞台に登場することもまれではない。以前、怪人二十面相の諏訪町にあったとみられるアジトClick!をご紹介したが、きょうは作者の乱歩自身が新宿エリアを転々としていた軌跡を追いかけてみたい。
 まず、夏目坂Click!沿いの牛込区喜久井町に家を借りたのは、いまだ早大の学生時代のことだ。1913年(大正2)3月から翌1914年(大正3)4月まで、江戸川乱歩こと平井太郎はこの家から早大へ通っている。ほんの5ヶ月ほど、小石川区西江戸川町(現・文京区水道1丁目)に家を借りたあと、1914年(大正3)8月ごろから同年暮れまで、戸塚町下戸塚308~621番地の早大運動場(のち早大野球場Click!)近くの家に住み、同年の暮れから翌1915年(大正4)2~3月ごろまで、再び喜久井町にもどって家族で家を借りた。
 同じく1915年(大正4)の2~3月から4月ぐらいまでの数ヶ月、神楽坂も近い赤城下町で暮らしたあと、平井家は丸ノ内の三菱ビル地下室で半年ほど暮らしている。同年10月ごろから翌1916年(大正5)1月にかけ、牛込区新小川町に短期間住んでいるが所在地がハッキリしない。1916年(大正5)1月から、おそらく近所の家を借りて同年7月まで新小川町3丁目19番地に住んでいる。この地番は、神田川の大曲を早稲田方面へ少しすぎたところにある、現在のNPO自立生活サポートセンターのあたりだ。
 同年の夏から1921年(大正10)にかけ、乱歩は大阪、東京、朝鮮、鳥羽(三重県)などを転々とするが、1921年(大正10)5月には牛込区早稲田鶴巻町38番地にもどってきている。現在の鶴巻南公園の北側にある、マンション「サンフラワー早稲田」のあるあたりで、ここに翌1922年(大正11)2月まで住んでいる。このあと、神田錦町や大阪を再び転々としたあと、1926年(大正15)1月から翌1927年(昭和2)3月まで、牛込区筑土八幡町32番地に転居してきた。現在の牛込消防署の北側にある、崖地の絶壁上に建っていた家だ。そして、同年3月から翌1928年(昭和3)3月にかけ、戸塚町下戸塚62番地の「筑陽館」に住んでいる。早大正門のすぐ近くで、現在の川田米店があるあたりの地番だ。
 

 つづいて1928年(昭和3)3月にほんの一時期、戸塚町の諏訪115番地、すなわち早稲田通りから少し南へと入った路地の突き当り、現在の名画座・早稲田松竹の南西側に住んでいたが、同年4月には戸塚町源兵衛179番地の「緑館」、すなわちこちらでも何度かご紹介している小字バッケ下Click!の地名が昭和初期まで残っていたエリアへ、企業の合宿所を丸ごと買い取って引っ越した。早稲田通りから北へ少し入った源兵衛179番地(現・西早稲田3丁目)は、ちょうど源兵衛郵便局の真北に隣接する区画で、乱歩はそこに1933年(昭和8)まで「緑館」と名づけた下宿屋を経営しながら住むことになる。もっとも、「緑館」は1931年(昭和6)に、下宿屋を廃業してしまうが……。下落合の氷川明神社前から移転した、現在の蕎麦・浅野屋Click!があるあたりだ。
 このあと、芝区車町から麻布区のホテル住まいを経て、翌1934年(昭和9)7月に豊島区池袋3丁目1626番地(現・西池袋3丁目)の自宅(現・立教大学旧江戸川乱歩邸)を取得し、1965年(昭和40)に死去するまでそこに住んでいる。こうして見てくると、新宿区エリアに限った引っ越しだけで11ヶ所、その生涯には40ヶ所ほどの転居を繰り返している。1934年(昭和9)に、池袋3丁目の自宅を取得したのがちょうど乱歩40歳なので、平均すると生まれてから40歳まで1年に1回は引っ越しをしていた勘定になる。
 さて、新宿エリアの転居先をみると、住所が北側に偏っているのがわかる。すなわち、戸塚町や牛込区北部の住居がほとんどで、同エリアの南側には住んでいない。これは、通っていた学校が早稲田大学だったせいもあり、その周辺に学生時代から馴染みが深かったからなのだろう。中でも、牛込区喜久井町や戸塚町諏訪は、陸軍の戸山ヶ原(旧・尾張徳川家下屋敷)に隣接しており、乱歩の作品にはしばしば登場する物語の舞台だ。以前、記事でご紹介した怪人二十面相のアジトも諏訪界隈だったらしく、大久保射撃場が望見できるエリアだった。

 また、1926年(大正15)1月から11月まで雑誌「苦楽」(プラトン社)に連載された『闇に蠢く』にも、洋画家・野崎三郎のアトリエが戸山ヶ原Click!に建っていたことになっている。1969年(昭和44)に講談社から出版された『江戸川乱歩全集』第1巻(屋根裏の散歩者)所収の、『闇に蠢く』から引用してみよう。
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 お蝶がはじめて三郎のアトリエに現れてから、数週間は夢の間に過ぎて行った。彼女ははじめのあいだは、本所の方にあるという彼女の家庭から、戸山ヶ原の三郎のアトリエまで、毎日通勤していたけれど、いつのまにか、家へ帰ることをよして、三郎の家に寝泊りするようになっていた。「うちで心配しやしないか」と聞くと「構わないわ」彼女は投げ出すように答えるのが常であった。
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 戸山ヶ原Click!は、ほぼ全域が陸軍の敷地なので、その中にアトリエを建てて住むことなどできないはずだが、大正期から昭和初期にかけ戸山ヶ原は射撃訓練Click!がない限り、比較的自由に近隣の人々が散策を楽しみ、近所の子どもたちは格好の遊び場にしていた。付近に住む画家たちは、スケッチブックを片手に戸山ヶ原へ入りこみ、映画制作会社による撮影ロケが行われ、夏目漱石Click!をはじめ付近に住む作家たちの散歩コースになっていた。だから、「戸山ヶ原に家がある」といっても、それほど不自然さを感じなかった時代なのだろう。
 『春に蠢く』に登場する野崎三郎のアトリエは、おそらく戸山ヶ原に面した戸塚町諏訪か西原(現・高田馬場1丁目~西早稲田2丁目)、あるいは山手線の線路をまたぎ、西側の着弾地Click!に隣接する戸塚町上戸塚(現・高田馬場4丁目)あたりを想定していると思われる。ちなみに、佐伯祐三Click!も戸山ヶ原Click!に接したエリアに家を借りて、1920年(大正9)初夏ごろ一時的にそこへ住んでいる。ものたがひさんClick!の考察によれば、山手線西側の着弾地に隣接した上戸塚の南側(現・高田馬場4丁目)あたりだったようだ。
 

 佐伯祐三は、変人だったが変態ではなかった。「食人鬼(カニバリスト)」になり果てる洋画家・野崎三郎はまちがいなく変態なのだが、彼に限らず江戸川乱歩の作品に登場する人物の多くは、なんらかの異常性向を備えているかパラノイア的な傾向が強い。陸軍の乾いた射撃訓練の音を聞きながら、陰鬱な表情を浮かべつつ、ときに淫靡な笑いで口もとをゆがめる「緑館」の主人が書いていたのは『陰獣』をはじめ、『芋虫』、『押絵と旅する男』、『蟲』、『蜘蛛男』、『吸血鬼』、『盲獣』などだった。

◆写真上:夏草が繁った戸山ヶ原で、旧・細菌研究室/防疫研究室Click!の敷地跡。
◆写真中上:上左は、戸塚町源兵衛179番地で乱歩が経営していた「緑館」のポスター。上右は、1957年(昭和32)5月に撮影された池袋3丁目1626番地(現・西池袋3)の自宅書斎で執筆中の江戸川乱歩。下は、池袋の江戸川乱歩(平井太郎)邸に残る表札。
◆写真中下:1939年(昭和14)に、池袋3丁目の自宅土蔵で撮影された江戸川乱歩。背後には、乱歩が好きだった村山槐多の『二少年図』が見えている。
◆写真下:上左は、戸塚町諏訪115番地の旧居跡で現在の早稲田松竹裏あたり。上右は、戸塚町源兵衛179番地の「緑館」が建っていたあたりの現状。手前に見えている蕎麦屋が、下落合の氷川明神社前から移転した浅野屋。下は、1969年(昭和44)の『江戸川乱歩全集』第1巻(講談社)に掲載された挿画で横尾忠則『闇に蠢く』。