現在は、大正期からの地形改造で名前さえ残っていないが、上落合には「鶏鳴坂(とりなきざか)」という坂道があった。上落合村から江戸市街へ向かう街道(現・早稲田通り)へと出る坂道のひとつだったが、この名称は地元の上落合村の村民たちが付けたのではなさそうなのがめずらしい。上落合村から、さらに西側ないしは北側のエリアから街道筋へと向かう人々が、便宜上そう呼んだ坂道のようなのだ。
 「鶏鳴坂」とは、文字どおり坂を上っているとニワトリが鳴くからそう呼ばれていたのだが、地付きの人間が付けたのではない証拠に、当時、たいがいの農家で飼われていたはずのニワトリClick!が鳴く坂は、上落合はもちろん落合地域のあちこちに存在していただろう。それでは、あえて坂の特色や個性を表現すべき坂名としては、あまりに一般的すぎて不適格ということになる。「鶏鳴坂」という名称が意味を持つのは、この坂にさしかかるころ、ちょうどニワトリが鳴きだす時刻になるから、そう呼ばれていたのだ……という伝承が、地元の上落合村にも残っている。
 つまり、上落合の村民ではない別地域の村民が、まだ明けやらぬ朝早くから江戸市街地へと向かうために家を立ち、上落合村から街道筋へ出ようと坂を上るころになると、ちょうどニワトリが鳴きだす刻限(午前4時すぎごろか)と重なったことから「鶏鳴坂」と呼ばれるようになった……という経緯だ。坂名は、おもに地元の村民が付けるのがふつうだけれど、大きな街道に近いエリアの坂道は、その利用者の共通認識、より広いエリア概念の生活習慣的な必要性によって広く呼称されるようになり、それが実際に坂のある地元の村へも還元・浸透していったということだ。
 「鶏鳴坂」について、1983年(昭和58)に発行された上落合郷土史研究会による冊子『昔ばなし』に収められた、「坂」から引用してみよう。
  ▼
 「鶏鳴坂」は、昔は旧八幡通りあたりから右にそれて、今の落二小の正門前に出て、伸びる会の坂の上を早稲田通りとなっていたようです。それは、小滝台の山アシが北の方にのびて来ていて、その山アシに沿うて道があったのでしょう。それを、江戸時代の中頃に山アシを切り開いて切り通しにして道にしたところにして(ママ)、今のように大体真すぐな坂道にしたものと思われます。
  ▲
 著者の視点は北側、すなわち下落合村の方角から見た記述をしているので、旧・月見丘八幡社Click!(村山知義アトリエClick!の斜向かい)から「右にそれ」るは、西側へ折れるという意味であり、「落二小の正門前」の道とは江戸期の上落合村伊勢宮下を東西に通う村道を通るということだ。「伸びる会」とは、「鶏鳴坂」の中腹に面した伸びる会幼稚園のことを指している。したがって、同幼稚園の東側に接した道で、早稲田通りにある地下鉄・東西線の落合駅4番出口へと向かう坂道が、「鶏鳴坂」と呼ばれていたことがわかる。


 江戸郊外の村々の人々が、未明に「鶏鳴坂」を利用した理由は、江戸郊外で採れた近郊野菜Click!を大八車で運び、主要街道を経由して街場の青物市場へ運んで売るためだった。当時の野菜集積場として機能していた青物市場は、甲州街道沿いの内藤新宿(現・四谷4丁目あたり)や、江戸市街へ江戸川Click!(現・神田川)から舩河原橋Click!を経由し、神田川(外濠)をへて水運で野菜を運ぶ江戸川橋の市場が知られている。さらに、より有利な卸値取り引きをするために足をのばし、直接神田の青物市場へと野菜を運んだ農民もいただろう。
 当時の「鶏鳴坂」や街道筋(現・早稲田通り)は、現在とは異なり連続する神田上水(旧・平川)の河岸段丘や、小滝台からつづく丘の中腹を切り拓いて造成されていた。したがって、上落合村から街道筋に出るには、丘を切り崩した切通しの坂を上らねばならず、また神田上水の小滝橋Click!から上落合村方面へと抜けるのも、かなりの勾配がある坂道を上らなければならなかった。この地形の名残りは昭和初期まで色濃く残っており、当時の子どもたちにもハッキリと記憶されている。つづけて、同資料から引用してみよう
  ▼
 私が子供の頃には落合建材屋さんのあたりにまだ、山が残って居りました。昭和の初め頃までは道巾も今の半分位で、勿論、砂利道で、馬力車が音を立てて上って行きました。時々、馬も疲れて荷車がひけなくなり、坂道の真中で横倒しとなってしまうようなこともありました。坂の途中に「源氏」と言う「かばやき屋さん」があり、大雨が降るとうなぎが逃げ出して、この坂道をニョロニョロと下りて来たこともときどきありました。
  ▲
 書かれている「かばやき屋」は現存しており、店舗は早稲田通り沿いの「鶏鳴坂」から上落合銀座商店街Click!へと移転し、「うなぎ・源氏」として営業をつづけている。おそらく、早稲田通りや「鶏鳴坂」が拡幅された戦前に、現在地へと移転しているのだろう。


 いまでこそ、一帯の地形の大規模な改造が進められ、上落合側の丘はほとんどすべてが崩されて、「鶏鳴坂」の傾斜もかなり緩やかなダラダラ坂状となった。また、早稲田通りもより深く掘削されて、小滝橋から上落合側へと抜ける道筋も、それほど上り勾配が急ではなくなっているのだろう。ただ、小滝台(旧・華洲園Click!)側の高台と早稲田通りとの間に、かなり切り立った崖地がそのまま残されているので、昔日の切り通しだった街道の面影を感じとることができる。
 小滝橋から上落合へと抜ける街道筋(現・早稲田通り)は、かなり傾斜のきつい上り坂がつづいたせいか、「立ちん棒」と呼ばれる“押し屋”がいたことも記録されている。同資料の「坂」から、引きつづき引用をしてみよう。
  ▼
 その頃、小滝橋のタモトに「立ちん棒」と呼ばれる人が四・五人いて、荷車や、リヤカーが通ると、後からヨイショヨイショと山手通りの交叉点あたりまで押して、何がしかのお駄賃を貰って居りました。
  ▲
 大八車やリヤカーが通りかかると、「押しましょう、押しましょう」といって数人の男たちが群がり、うしろから無理やり押しはじめる商売は、江戸東京の起伏が多い乃手地域には昔からあった。牛車や馬車を使わず、野菜を山と積み手押しでやってくる近郊農民は、彼らにとってはかっこうの顧客だったろう。市場へ向かう要所の急坂では、農民たちも彼らの人力を当てにしていたのかもしれない。

 
 もともとは切通し状に整備され、上落合の北斜面に通っていた急勾配の坂道が、おもに昭和期に行われた地形の大改造(道路拡幅工事など)で、小滝台からつづく丘陵全体が取り払われ、急傾斜がそれほど目立たなくなると同時に、いつの間にか坂名も廃れてしまい、人の記憶からも忘れ去られたのだろう。

◆写真上:現在の上落合2丁目に通う、勾配が緩やかになったとみられる鶏鳴坂。
◆写真中上:上は、江戸末期の「上落合村絵図」に描かれた鶏鳴坂。下は、1880年(明治13)に作成された1/20,000地形図に描かれた鶏鳴坂。
◆写真中下:上は、『今昔散歩重ね地図』(ジャピール社)の明治地図で地形を3D表示にした鶏鳴坂。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる鶏鳴坂。
◆写真下:上は、早稲田通り側の坂上から眺めた鶏鳴坂。下左は、小滝橋交差点へ向けて上落合側からダラダラ坂がつづく早稲田通りの現状。下右は、現在は早稲田通り沿いから上落合銀座商店街に移転している1928年(昭和3)創業の「うなぎ・源氏」。