昭和初期に、上落合からわざわざ戸山ヶ原Click!まで遊びに出かけていた、子どもたちの証言記録が残っている。上落合と戸山ヶ原は、小滝橋Click!の交差点でかろうじて近接しているので、豊多摩病院が建っていた小滝橋通りから雑木林を抜け、戸山ヶ原の西端斜面を登って入りこんだものだろう。
 証言しているのは上落合に住む、のちに近衛歩兵第一連隊Click!から1944年(昭和19)に陸軍予備士官学校へと進み、戦争末期には陸軍中野学校Click!へ通っていた人物だ。陸軍中野学校といっても、戦争末期には南方の島嶼や日本本土での特殊戦(ゲリラ戦)を展開する軍人の養成学校に変貌しており、ルバング島の小野田寛郎が体験したようなカリキュラム内容に変わっていた。陸軍中野学校が本来めざしていた、軍人色を徹底的に払拭した諜報・謀略要員Click!を養成する、いわば怪しまれないよう“一般教養人”化するための「自由主義」教育は中止され、戦局の悪化からすぐに戦闘に役立つ実践的な演習が行なわれている。著者も、従来の中野学校ではほとんどなかった、戸山ヶ原での校外戦闘訓練に参加していた。
 さて、上落合から戸山ヶ原へ入りこむ子どもたちの様子を、1983年(昭和58)に発行された『昔ばなし』(上落合郷土史研究会)に掲載されている、「戸山ヶ原附近」から引用してみよう。
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 戸山ヶ原は小滝通りに沿うて「ケヤ木」や「ナラ」が繁っていて、木立のダラダラ坂を登ると平坦地となっていて、原っぱである。ケヤ木やナラの木立は、夏はカッコウの休み場であり、店員さんたちは自転車を置いて腰を下して休んでいた。アイスクリーム屋なども屋台を出していた。子どもたちは夏になると早起きしてこの木立にカブト虫などを獲りに行った。
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 小滝橋も近い戸山ヶ原への入り口には、中で遊ぶ子どもたちや散策する人たちを当てこんで、屋台が並んでいた様子がわかる。
 著者は、おもに山手線をはさんだ戸山ヶ原の西側、つまり上戸塚や上落合の側で遊んでいたようだが、ときに日曜日などの休日には山手線の東側に拡がる、より広大な戸山ヶ原へも出かけていたようだ。わざわざ遠くまで遊びにいく目的は、土中に埋もれたままになっている実弾ひろいだった。つづけて、同資料から引用してみよう。


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 新らしい射撃場は日曜日は兵隊さんが実弾射撃に来ないので、私達はこれに侵入し、なかの砂山にかけ上り、砂の中から弾丸をひろったが面白いほどひろえた。ときどき見廻りの人が来るので、これに見つかると追いかけられるが、幸運にも一回も捕らなかった。この「新」「旧」射撃場の前、即ち、明治通りをハサンで今の学習院女子校のところに近衛騎兵連隊(東部第四部隊)があり、正門は穴八幡の方にあった。その右側、今の戸山ハイツは陸軍中央幼年学校と陸軍戸山学校であり、国立医療センターのところが東京第一陸軍病院であった。そのうしろに陸軍々医学校があった。
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 また、雪が降った日などには、山手線の東側、諏訪町のすぐ南側に連続して築かれていた旧・射撃場の防弾土塁や、山手線の線路沿いに築かれたいわゆる「三角山」Click!の土塁で、目白文化村Click!の急斜面を利用した“スキー場”Click!と同様に、近所に住む人々によるソリ遊びやスキーが盛んに行われていたようだ。
 山手線をはさみ東側に拡がる戸山ヶ原は、江戸期にはおもに尾張徳川家Click!の下屋敷Click!の敷地が多かったが、山手線西側の戸山ヶ原は、百人町に住んだ幕府の御家人=百人組鉄砲同心たちの組屋敷による“抱え地”、つまり百人組鉄砲隊Click!の射撃演習場として使用されていた。戸山ヶ原は、よほど射撃訓練Click!に縁がある土地なのだろう。
 上落合の子どもたちは、東側ばかりでなく南側の中野方面にまで遠出の遊びをすることがあったらしく、昭和初期の中野駅周辺の様子も記憶している。特に目立つ無線塔が集中して建てられていた、「中野の電信隊」の様子がことさら印象的だったようだ。当時は、高い建物がほとんどなかったため、中野駅に近い電信隊の無線塔は、上落合からも垣間見えていたのだろう。上落合の南側に住んでいた子どもたちは、下落合側へ出て遊ぶよりも戸山ヶ原や、柏木駅(東中野駅)および中野駅のある中野地域のほうがよほど近く、馴染みが深かったにちがいない。つづけて、「戸山ヶ原附近」から引用してみよう。



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 私達は学校から帰って来ると時々戸山ヶ原に行き兵隊さんの演習を見に行った。歩兵の兵隊さん、騎兵の兵隊さん、それに中野の電信隊の兵隊さんたちが、泥にまみれて一所懸命やっているのを見入っていたものである。ついでに中野駅の前今のサンプラザと区役所のあるところに、昭和の初めまで陸軍電信隊があり、私達はこれを中野の電信隊と呼んでいた。その後、電信隊が陸軍憲兵学校となり終戦を迎えた。そのうしろ、即ち今の警察学校のところに、電信柱が五・六本つなぎ合わせて立っていて無線の塔となっていた。その建物の門柱に「陸軍通信研究所」と看板が出ていた。これは別名を「参謀本部軍事調査部」とか「東部第三十三部隊」と言われていたが、実の名は「陸軍中野学校」である。
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 著者が、実際に陸軍中野学校へ入学するころは、ゲリラ戦闘員の養成学校のような存在になっていたが、開校当初はさまざまなカムフラージュが行われ、敷地内に複数の無線塔を建てたのも研究所に見せかけるためだった。また、著者が通った当時は軍服姿だったろうが、本来のカリキュラムによる教育が行われていたときには軍服は厳禁で、全員が背広の私服で登校しなければならなかった。
 東に隣接する陸軍憲兵学校の出身者は、戦後になっても西隣りが陸軍の特殊な諜報・謀略の専門学校だとは気づかずにいたぐらいだから、徹底的な秘匿とカムフラージュが行われていたのだろう。戦争末期を除き、陸軍中野学校の出身者は、出身大学などの名簿の多くは「行方不明」として記載され、中には作戦任務の関係から戸籍さえ改変・抹消された人物も存在している。



 「戸山ヶ原附近」の著者は陸軍軍人だったため、なにか演習があると実家近くの戸山ヶ原へ頻繁にやってきていた。陸軍のトラックに乗せられた彼は、頻繁に実家の前を通ることがあったらしい。そんなときトラックの上から、あるいは部隊が小休止の合い間に、「家に帰りたいナー」「家の畳の上で寝そべってみたいナー」と思いつづけていた。

◆写真上:小滝橋通りに近い、旧・戸山ヶ原の西端跡の現状。
◆写真中上:上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる上落合から戸山ヶ原への通いコース。下は、1933年(昭和8)撮影の旧・神田上水に架かる小滝橋。
◆写真中下:上は、1931年(昭和6)に撮影された小滝橋通り沿いの東京市立豊多摩病院。中は、山手線の線路沿いにあった防弾土塁(通称:三角山)跡あたりの現状。下は、いまでも雪が降るとあちこちでスキーやソリ遊びができる坂道が多い落合地域。
◆写真下:いずれも1933年(昭和8)の撮影で、上は中野駅前にあった陸軍第1電信連隊(通称:中野電信隊)、中は中野駅舎、下は東中野駅の踏み切り。