戦後しばらくして、読売新聞に掲載された安藤鶴夫Click!の「小唄学校」というエッセイがもとで、入学したさに杉並区和田堀界隈を探しまわった人たちがいたらしい。小唄に三味Click!なら、江戸東京の旧市街地=(城)下町Click!だろうと誰しもが思うので、なぜそれが杉並区にあるのか不思議に感じた読者も少なからずいたようだ。
 洋画家で医師の宮田重雄は「小唄楽校」と呼び、新派Click!の伊志井寛は「小唄楽交」、林房雄Click!は「古唄楽校」、木村荘八Click!は「小唄ガッコ―」と書く、所在の知れない「和田堀小唄学校」は、以下のような教授や学生(楽生)たちで構成されていた。
 -校長(香蝶)…木村荘八
 -給食課…木村荘八夫人
 -徒監…伊志井寛
 -校医・録音班…宮田重雄
 -人事課…安藤鶴夫
 -楽生総代…伊志井寛夫人
 -楽生(入学順)…水谷清、宮田重雄夫人、大澤善治、杵屋三輝、荒木氏、大草夫人、
   花柳梅静、濱田百合子、牛尾青年、水谷八重子(虫子)Click!、島田正吾Click!夫人、
   辰巳柳太郎Click!夫人、林弘高夫人、河盛好蔵夫人、安田金太郎、高橋直治
 -顧問…喜多村緑郎Click!、下谷福の家福子(石井ふく子)
 -常任教授(師範)…田村万津江
 -教授顧問…田村小伊都、田村千恵
 なんだか、歯切れのいい江戸東京方言Click!が、あちこちから聞こえてきそうな錚々たるメンバーだけれど、「楽生」の中に大阪人と思われる人々が、何人か混じっているのが興味深い。吉本興業社長の林弘高やフランス文学者の河盛好蔵などの、それぞれ夫人たちが楽生として浚いに参加している。
 東京で集まりがあり、その流れた酒の席で「どうですか、ちょいと小唄のひとつふたつ、頼みますよ」といわれるケースが多かったのだろう。おそらく江戸東京とは異なり、大阪には細竿で「線道をつける」Click!というような下町の習慣がなかったのではないだろうか。そこで恥をかかないためにも、小唄と三味の双方を習いに通っていたと思われるのだ。また、新派と新国劇の関係者が、仲よく小唄を浚っているのも面白い。
 さて、この「小唄学校」は杉並区和田本町832番地に実在していた。新宿から都電杉並線に乗り、「西町」か「天神前」の電停で下りて南へ500mほどのところ、畑や雑木林が残る道を5分ほど歩くと、女子美術短期大学を右手に見ながらアトリエ付きの瀟洒な住宅にたどり着く。その建物が「和田堀小唄楽校」の「校舎」なのだが、なんのことはない木村荘八の自邸+アトリエ(通称:和田堀軒)だった。どうやら、東京の市街地が戦争で焼け野原になってしまったため、空襲の被害を受けなかった木村荘八邸が「小唄楽校」の校舎に選ばれたらしい。
 

 少し前、おもに洋画家で構成された「池袋シンフォニー」Click!の記事を書いたけれど、あちらがヨーロッパの洋楽だったのに対し、こちらは和楽(俗楽)の、しかも東京地方に限定された江戸小唄の集まりだった。1952年(昭和27)の春に「和田堀小唄楽校」は開校しているが、木村荘八と小唄とのつながりを、1953年(昭和28)に東峰書房から出版された、木村荘八『東京今昔帖』所収の「和田堀楽校の記」から引用してみよう。
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 一体、どうしてかういふコト(楽校開設)が起つたかといふと――/今から二年程前のことになりますが、久保田万太郎さん(傘雨子)がAKの俗曲司会に当られた時に、かねての約に依つて、伊志井夫人ノブ子が三味線を弾くことゝなり、その組合せ番組の「唄ひ手」を俄かに元の古巣の下谷へ駈けつけて、物色したところ、当時、福子も、つや菊も、大事をとつて、出ません。それで誰か唄ひ手は無いかと鳩首協議した結果が、白羽の矢をいきなり何も知らぬ小生へ持つて来て、それがしかも押しつまつた十二月三十日の強談です。下谷組の談合が正月のAKの俗曲の時間へ、小生に唄で出てくれ、といふのでした。「唄」は元々私は下谷の人達に恩と縁があります。福子は稍先輩として、ノブ達はどうかすると後輩かも知れず、私は昔本郷にゐた頃、当時の妻子(つまこ)、里次なぞと同輩の、古くはおいねさん、久しくお俊さん、お八重さん達「大先輩」について、度々歌を教はつたものでした。(中略) 「おさらひ」へはあつちこつち出ましたし、芸妓の踊りの会へ手伝ひに出かけて、チビの小唄振りの地を何番も引受けて、唄つたこともあります。皆「森木」といふ名でやりました。本郷森川町の木村といふ意味。
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 AKは、NHKラジオの東京JOAKのことだ。「ノブ」は小唄の師匠で伊志井寛夫人の三升延、「福子」は養女になったTVプロデューサー・石井ふく子のことだろう。
 うちの親父も、おそらく何人かの女お師匠さん(おしょさん)に付いて、実家が数百メートルしか離れていない、日本橋吉川町1番地(現・東日本橋)生まれの木村荘八Click!と、まったく同じような通い稽古をしていると思われるのだが、わたしは昭和30年代の生まれなので、三味は手もとにあったがすでに「線道」とはまったく縁がない。
 和田堀小唄楽校には、「校長訓示」が9つに「徒監訓示」が2つほど存在しているのだけれど、面白いので機会があればまたご紹介したい。「大正以降の小唄は正科に認めない」と第1条で宣言しているように、ここでいう「小唄」とは日本橋や柳橋Click!あたりで三味片手に口ずさまれていた江戸東京風の小唄であって、どうやら明治以降に役人や政治家たちが贔屓にしていた新橋や赤坂の花柳界を外しているらしい点にも、大阪人を含めた彼ら町人文化の意気地が薄っすら見てとれるのだ。
 以前に住んでいた、聖母坂Click!にあるマンションの隣りの建物には、常磐津のお師匠さんとみられるいい喉をした女性が暮らしていた。ときどきお浚いの三味と唄声が聞こえていたのだが、おそらく小唄もさすがに上手だったろう。思い返せば芸のないわたしは、戸をたたいて弟子入りし、習っておけばよかったとつくづく思う。
 「池袋シンフォニー」と「和田堀小唄楽校」、どちらかに通っていいといわれれば、昔なら迷いなく佐伯祐三Click!や小泉清、里見勝蔵Click!らに会える洋楽の「池袋シンフォニー」を訪ねてみたいと思っただろうが、この歳になるとちょっと迷う。岸田劉生Click!が生きていたら、おそらく「名誉校長」あるいは「理事長」としてふんぞり返っていたかもしれない、「和田堀小唄楽校」をのぞいてみたい気がするのだ。


 和田堀小唄楽校が、はたしていつまで開校していたのかは不明だが、1956年(昭和31)に木村荘八はNHKの邦楽部委員に就任しているので、おそらく2年後に木村が死去する、1958年(昭和33)ごろまでつづいていたのだろう。この「小唄楽校」へ通っていた「楽生」たちの感想が、どこかの随筆に残されていやしないだろうか。

◆写真上:いまだに生け垣が多く残る、落ち着いた杉並区内の街並み。
◆写真中上:上左は、1953年(昭和28)に出版された矢鱈縞の装丁が美しい木村荘八『東京今昔帖』(東峰書房)。上右は、1947年(昭和22)の1/10,000地形図にみる「和田堀小唄楽校」があった杉並区和田本町832番地界隈。下は、1948年(昭和23)の空中写真にみる同じく杉並区和田本町832番地界隈。
◆写真中下:左は、木村荘八が描く「田村の大しょさん」こと多村派家元の田村てる。右は、1918年(大正7)に描かれた木村荘八『自画像』
◆写真下:上は、1952年(昭和27)制作の木村荘八『窓外風景』。下は、「和田堀小唄楽校」があった杉並区和田本町832番地界隈の現状。