明治時代に、神田上水Click!(現・神田川)で釣りをしていて捕まった男の記録が残っている。1876年(明治9)7月11日の新聞記事なので、おそらく前日の出来事だろう。関口台町で釣りをしていた男が、水道番に現行犯で検挙され罰金刑に処せられている。おそらく大洗堰Click!の上流か、あるいは大洗堰手前から分岐した小日向までつづく開渠Click!で釣りをしていて見つかったのだろう。また、1877年(明治10)7月2日には、上流の中野村を流れる神田上水で泳いでいた子どもがふたり捕まり、同じく罰金を払わされている。これらは一例にすぎず、当時は神田上水流域のあちこちで同様の事件が発生していたのだろう。
 1899年(明治32)に淀橋浄水場Click!が竣工し、2年後の1901年(明治34)まで神田上水は東京市街地へ水道管Click!で生活水を供給する上水道として使われており、江戸期の御留川Click!のままだったのだ。だから、神田上水でゴミを棄てたり釣りをすることはもちろん、水泳も全面的に禁止されていたのは江戸期とまったく変わらなかった。流域のあちこちにあった水道番屋(警備所)が、明治期にもそのまま機能していた様子がうかがえる。
 旧・神田上水沿いや、大洗堰(現・大滝橋あたり)から下流の江戸川Click!沿いに住んだ人々の証言を掘り起こしていると、明治末から昭和初期にかけて、水泳を含む川遊びが盛んだったことがわかる。子どもたちは、流れがよどんで少し深くなった淵で泳ぎを楽しみ、大人たちは川に舟を浮かべては花見や夕涼み、月見Click!、雪見、ホタル狩りClick!をしたり、アユやフナ、タナゴ、コイ、ヨシノボリ、ウナギなど釣っては楽しんでいた。
 1993年(平成5)8月から1994年(平成6)5月にかけ、朝日新聞東京版にはルポ「神田川」が120回にわたって連載されている。当時は、1970年代から80年代にかけて汚染のピークだった神田川(旧・神田上水と江戸川を1966年に名称統一)の状況を引きずっており、神田川の水質は現状からは想像できないほど、いまだにひどい状態だった。川に近づくだけで、まるでドブ(下水)のような生臭い悪臭が鼻をついた時代だ。当時の水質について、ルポ「神田川」で証言しているダイワ工業の平根健という方の文章から引用してみよう。
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 [落合処理場] アンモニア性の窒素(八・〇-一一・六ppm)とリンは高すぎて魚の住める環境ではなく、ヘドロの大量発生を促す水質でもある。/[高戸橋] 落合処理場の影響を受けてアンモニア性の窒素が最大八・六ppmと魚の住めない状態。総窒素も高すぎ、藻類の異常発生を促している。その結果、海水の遡上する飯田橋付近ではヘドロとして滞留し、一部はスカム(浮上汚泥)として悪臭を放っている。(中略) [提言] 落合処理場からの放流水は、中、下流の水量の九割をも占めるため、神田川に清流を取り戻すためには、その処理水の改善が第一とせねばならない。ここの処理水は、窒素やリンを取り除く処理がないために、下流部で大量のヘドロの生成原因となっており、排水出口としての東京湾の水質も、富栄養化によって、ますます悪化することが懸念される。
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 記事中にもあるとおり、東京都水道局が建設した落合下水処理場(現・落合水再生センター)の処理水が、神田川の水質を大きく左右していたわけだが、下水道を普及させ生活排水の流入を完全に食いとめるのも、大きな課題だっただろう。当時、目標とされていたのは、せめて「鯉が棲める水質」だった。
 浄水の過程で薬物を添加せず、生物が棲息できる水質改善技術はここ数十年で飛躍的に向上し、落合水再処理センターから排出される水は「金魚が棲める水質」にまで改善されたと聞いている。その成果は、アユの遡上やギンヤンマなどトンボのヤゴ復活となって如実に表れている。文中にある高戸橋は、アユの棲息が多く確認されている場所だ。水質が格段に清浄化したことで、染め物の水洗いClick!や子どもたちの川遊びClick!が一部で復活していることは、以前の記事でもご紹介している。
 ルポ「神田川」には、川沿いで子ども時代をすごした人たちが、1990年代初頭の神田川を訪れてガッカリする様子や、子どものころ清廉な神田川で遊んだ思い出を回想する記事が数多く掲載されている。下落合の南側、上戸塚(現・高田馬場3丁目)に住み静岡県伊東市へと転居した、平野吉三郎(74)という方の思い出を少し長いが引用してみよう。
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 五十年ぶりに懐かしの故郷、高田馬場駅に降り立った。幼い頃、兄や友達と兵隊ごっこをして遊んだ山や川、戸塚ヶ原(ママ:戸山ヶ原)練兵場は昔日の面影なく、住宅やビルの密集で変わり果てていた。/神田川。きれいな川だった。私の母校、戸塚第三小学校の校歌に「神田の流れ、水清らかに、富士は野末に真白くそびゆ」という一節があったが、この歌の通りの川だった。川底もほとんどが石。宮田橋の上流の浅瀬には馬の蹄のような模様があり、あれは昔、太田道灌が水馬をした時のものだ、と古老が教えてくれた。真偽はともかく、そのくらい、川底がはっきり見えた。/昭和初期ころには、鯉がたくさんおり、父がリーダーとなって、町内のおじさんたち十数人と漁もした。みんな越中ふんどし一本となって胸の辺りまでくる水に入り、岸から岸へと大きな網を張る。当時で川幅四メートルから五メートル。(中略) 四、五〇センチの真鯉、緋鯉がざくざく捕まり、網の中で勢いよく跳ね上がる。私たち子供は、水泳の飛び込み台にしていた大きな岩の上から眺めて、ワァーワァー拍手喝さいを送ったものだ。(カッコ内引用者註)
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 昔もいまも、40~50cmぐらいのコイが悠然と泳いでいるのは、神田川の変らない風情のようだ。また、子どもたちが「飛び込み台」にしていた大岩が、昭和初期まで下落合と上戸塚の流域に残っていた様子がうかがえる。この岩が、江戸期に「一枚岩」Click!と呼ばれた大岩の残滓なのかもしれない。
 また、下落合氷川明神社Click!の近くで大正末に生れ、記事の当時は練馬区に住んでいた高田源一郎(67)という方の証言を聞いてみよう。もちろん、当時の神田川は現在の流れではなく、氷川社の南東で大きく北へとカーブしていた、整流化工事以前の風情だったのだろう。田島橋Click!も現在地ではなく、10mほど下流に架かっていた時代だ。
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 JR高田馬場駅に近い、氷川神社の前辺りで大正十五年に生まれ、四十年近く住みました。すぐそばを流れていた神田川は、子供のころ、現在のような護岸構造もなく、両側は土手で、どんよりとした流れの川でした。増水による被害が多く、私が四歳の時に死んだ父も、消防の組頭として治水に尽力した、とよく母に聞かされました。/小学生のころ、母と一緒に橋の上を通りかかった時、川の中で働いている染物職人を見て、母が言った言葉が忘れられません。それは「こんな川でも、染め物の水洗いには、大変、よく合う水なんだよ。人間だって何か一つ、取り柄があれば世間様に通用する。学校の成績だって一つでも得意なものがあればいい」/それまで暗い印象で、ややもすると嫌いな川でしたが、この言葉で、子供心に何か愛着がわくような気がしたのを覚えています。
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 さて、そろそろ神田川で泳ぐことはできないだろうか? それには、いまの晴天時のふくらはぎまでの水深では足りず、また流れの速さ=水圧では子どもが流されかねないので危険だろう。ある程度の水深が必要なのと、流れを緩める、あるいはよどませる仕組みが不可欠なのだが、その方法はすでに戦前に確立されている。隅田川をはじめ、全国各地の河川に設置された水練場Click!の構造だ。川岸に水を引きこむ囲いを造り、流れの影響を直接受けないようにして1~1.5mほどの水深を確保する、おもに夏季だけの臨時施設だ。



 戦前の水練場は網や浮き、杭、板などを使い川岸に囲いを造っただけで、生簀状のかなり原始的な構造だったようだが、現在ならもっと効率的に安全な機材で工夫ができる。川の増水時でも、容易に流されない基礎造りを含め、都会の子どもたちが楽しめる親水施設はかなり魅力的だろう。せっかく川のそばで生まれ育っても、一度も泳いだことがない子どもの寂しい記憶を、これから少しは減らせるのではないだろうか。文字どおり「神田川で産湯をつかい」が、単なる夢物語ではない時代になってきたように思うのだ。

◆写真上:わたしの学生時代に比べ、信じられないほど清浄化された神田川。
◆写真中上:上は、昭和初期に早稲田界隈で撮影された旧・神田上水(神田川)で水遊びを楽しむ子どもたち。下は、落合水再生センターの神田川排水口。
◆写真中下:上は、明治末に撮影された江戸川(現・神田川)の大曲付近で、花見用に臨時の桟敷席が川へ張りだして設置されている。中は、神田川両岸に植えられたサクラ並木の開花期には世界じゅうから花見客が訪れる。下は、神田川の川底に露出するシルト(東京層)Click!にとまるシラサギで、このところ野鳥の数や種類が飛躍的に増えている。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)撮影の神田川支流の妙正寺川で行われていた染め物の水洗い。中は、千代田城の外濠を兼ねた神田川の中央線・御茶ノ水駅下の流れ。下は、渇水時でも流れが急な山手線・神田川鉄橋Click!の真下。この付近の流れは危険で、子ども用の“水練場”の設置には向かないだろう。