描いた画面は、厳密には下落合ではなく豊島区目白町(旧・高田町字金久保沢)なのだが、画家が下落合1丁目445番地(現・下落合3丁目)に住んでいたので、ごく近所を描いた風景としてとりあえず「下落合を描いた画家」に入れてみた。描かれているのは、この地域に長くお住まいの方なら誰でもすぐにわかる、1962年(昭和37)に大改修を終えたばかりの5代目・目白駅Click!だ。
 翌1963年(昭和38)には新しい跨線橋も竣工するのだが、この目白駅「本屋」の大改修を数えずに、戦前と同じ駅舎だと規定(解釈)すれば、4代目・目白駅ということになる。あと60~70mほど駅から西へ寄れば下落合であり、画家のアトリエはそこにあった。1964年(昭和39)3月12日発行の「落合新聞」Click!(竹田助雄Click!主幹)に掲載されたのは、光風会の伊藤応久が描いた『目白駅』(仮)だ。この5代目・目白駅は、わたしも学生時代からお馴染みの駅舎であり、この前を歩いた回数は数が知れない。また、下落合に住むようになってからは最寄り駅のひとつとして、地下鉄のある高田馬場駅とともにしじゅう利用してきた。
 伊藤応久は、目白駅から直線距離で100mほどのところに住みながら、同駅をほとんど利用しなかったようだ。下落合1丁目445番地の敷地は、金久保沢Click!の東西に窪んだ谷間の北向き斜面にあたり、突きあたりが行き止まりのゆるい坂道を南へやや上がった左寄り(東寄り)に、伊藤はアトリエを建てている。ふだんの移動にはクルマを用いており、山手線はあらかじめ飲んで帰るとき以外は利用しなかったらしい。落合新聞の同号に掲載された、伊藤応久のエッセイから引用してみよう。
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 竹田主幹から目白駅の事を何か書く様にとの事ですが、正直に云って、小生ここ十数年来あまり目白駅を利用していない。悪友にさそわれて銀座方面に飲みに行く夜等は、車の運転を中止して電車を利用する位のもの、駅から三分位の処に住まっていながら駅の事を余り知らなくて甚だ申訳ない次第。/大久保先生や長谷川大兄の作品が出陳されていると聞き先日わざわざ見に行って来ました。/以前は正面玄関にポスター等がはられて、黒ずんだ駅でしたが、それが立派な作品と入替になって文化的な駅になった事は、近くに住む者として大変うれしく思います。/苦言を申すなら、陳列ケースでも有れば、作品のためにも、見る方からしてももっといいと思います。
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 付近に住む画家たちや、絵画好きな人たちの希望が入れられたのかどうか、目白駅へ新たに設置された跨線橋には美術品の展示コーナーが設置されていた。文中の「大久保先生」とは、下落合540番地Click!にアトリエがあった大久保作次郎Click!のことだが、「長谷川大兄」とは近所の徳川義親と親しかった日本画家・長谷川路可のことだろう。



 伊藤応久の描画ポイントは、目白駅近くにお住まいの方ならすぐにおわかりだろう。画家は山手線の内側、目白町2丁目1684番地(現・目白2丁目)にある目白幼稚園の際あたりから、南南西を向いて目白橋と目白駅を描いている。現在の6代目・目白駅(先の数え方をするなら5代目・目白駅)は、駅舎が南へ後退して駅前広場が造られ、また目白橋も歩道が拡幅され大きく意匠変えをしているので、このような風情には見えない。この時期、目白貨物駅Click!はいまだ機能しており、ときおり複々線内側の貨物線を走る貨物列車が停車していたのだろう。
 落合新聞の同号が発行された1964年(昭和39)当時、目白駅にはあちこちに花壇が設けられ、四季を通じて花々が咲き乱れていたようだ。目白駅を花で埋めていたのは、会長を徳川義親Click!がつとめる「目白駅美化同好会」で、徳川家の娘たちや川村学園の生徒たち、近くの町会婦人会、目白幼稚園などがボランティアで参加していた。写真には、目白駅のホーム上に設けられた花壇に水をやる、川村学園の生徒たちの姿がとらえられている。ラッシュアワー時に、ブロックを積んだ四角い花壇がホーム中央につづいていると危険だし、乗車の行列もつくりにくくて邪魔なので、もちろん現在では撤去されている。「目白駅美化同好会」は、いまでも駅周辺で活動をつづけているようだ。


 この当時、毎日新聞社と「日本花いっぱい協会」、「新生活運動協会」などが主催する「花いっぱい運動都市対抗」大会で、目白駅は運輸省から全国一の「綺麗な駅」として表彰されている。また、「週刊現代」が主催する「綺麗な便所」コンペティションでは、原宿駅を抑えて目白駅がNo.1に選ばれている。いまなら「マジですか?」Click!といわれそうなコンペだが、当時は国鉄の各駅間でけんめいに競われていたのだろう。その様子を、同号の記事から抜粋してみよう。
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 愛される目白駅/花と美術の薫りを漂わせて
 目白駅のホームには寒い冬の季節でも可憐な桜草の花が咲き、改札口附近の窓辺では三色すみれやシクラメンが咲き続いた。また渡線橋に飾られた絵画はこの駅をいっそう清潔にしている。人通りの多い駅の廊下に沢山の美術品が飾られるなどは、ほかの駅では到底できぬこころみで、目白駅ならではの風格を漂わせている。
 東京一もう一つ
 「週刊現代」(号数忘却)にこんなことが記載。「便所でいちばんきれいな所を比較すると、原宿、目白ときまっていたものだが、今年も目白駅が一番きれい。原因は客の素質がよいのと、学生が多いからだろう」と。/この駅は平均乗降客一日約九万のうち二万四千が学生。
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 跨線橋に設けられた美術展示場に飾られたのは、初回が根岸清治『黒い壺の幻影』、吉田遠志『くらげ』、西原比呂志『浜』と『浅間山』、吉田ふじを『花』、長谷川路可『女の顔』、つづけて大久保作次郎『谷間』、足立真一郎『槍ヶ岳』、長谷川路可『半島』などの洋画と日本画をとり混ぜた作品群だった。でも、駅の跨線橋に監視員なしで有名な画家たちの絵画を展示したら、あたかもドロボーに盗ってちょうだいといってるようなものだろう。案のじょう、さっそく作品が盗まれているのだが、それはまた、別の物語……。


 当時90,000人を数えた1日の乗降客だが、現在は75,000人(JR東日本2013年)にまで減っている。おそらく、学生や生徒の通学利用が多いため、少子化の影響も少なからずあるのだろう。山手線では、鶯谷駅の48,000人(同年)に次ぐ乗降客の少ない駅となった。また、山手線しか利用できないのも“不便”に感じる要因だろうか。わたしも学生時代から相変わらず、山手線に加え都内を横断して飯田橋や九段下、大手町、日本橋、深川へと抜けられる地下鉄に連結した高田馬場駅まで、つい歩いてしまうのだ。

◆写真上:1964年(昭和39)に落合新聞用に描かれた、伊藤応久『目白駅』(仮)。
◆写真中上:上は、1967年(昭和42)撮影の目白駅舎。中は、1970年(昭和45)前後に撮影された目白駅前。下は、伊藤応久『目白駅』(仮)が描かれた位置から目白駅を望む。実際にはもう少し北側だが、現在はビルが線路際まで迫り描画ポイントには立てない。
◆写真中下:上は、1963年(昭和38)の「住宅明細図」にみる伊藤応久アトリエ。下は、伊藤アトリエ跡の現状で突き当たりのやや左手に建っていた。
◆写真下:上は、目白駅ホームの花壇へ水をやる川村学園の生徒たち。下は、1964年(昭和39)3月12日に発行された落合新聞の目白駅をめぐる記事。