これまで、さまざまな記事に1945年(昭和20)から1947年(昭和22)ぐらいにかけての、米軍が撮影した空襲直前・直後の偵察写真、または戦後になって爆撃効果測定用に撮影された空中写真を頻繁に参照してきた。関東大震災Click!の直後、焦土を観察してまわった大正期の鳥居龍蔵Click!をまねて、東京市街エリアの焼け跡にいまだ発見されていない古墳の痕跡(フォルム)を探したり、実際に爆撃を受けて炎上した空襲被害の実態を確認したり、当時の住宅街の様子を鳥瞰したり、さらには戦中・戦後の陸軍施設を観察したりするのが目的だった。また、それらの写真を引用して書いた記事は、かなりの点数にのぼる。
 それらの写真はおもに東京地方が中心だったが、記事のテーマや物語、事件などの展開や必要に応じて、日本各地の空中写真を探して参照している。もちろん、観察するのは東京以外の都市部や町村が、すなわち日本列島の各地=陸上が多いのだけれど、ときどき海上に目を移すと、そこにも戦争の生々しい痕跡やツメ跡が色濃く残されているのが発見できる。これまで、ここで取り上げてきたのは旧・陸軍の諸施設や、空襲による焼け跡写真など陸上が圧倒的に多いが、それらの空中写真に撮られた海上における旧・海軍の“惨状”も、たまにはご紹介したい。
 1945年(昭和20)の当時、東南アジアからの船舶による石油輸送の海上ルートは米軍によって寸断され、もはや日本に石油はほとんど入ってこなくなっていた。前年の8月には、軍需省が「物的国力の崩壊」をすでに政府へ報告しているようなありさまだった。艦艇は重油を燃料として航行するが、日本の重油備蓄はすでに底を尽きかけていた。実質、1945年(昭和20)4月7日に発動された「天一号作戦」(第2艦隊による「沖縄特攻」)が、呉海軍工廠の周辺に備蓄されていた重油により、残存艦隊がまともに行動できた最後の大量消費ということになる。
 ちょっと余談だけれど、この作戦の旗艦だった戦艦「大和」Click!は、「特攻作戦」だったので沖縄までの片道燃料しか給油されなかった……というのが通説になっている。だが、戦後まもなくのインタビューに答えている呉工廠の給油要員は、沖縄と本土を2往復できるぐらいの重油(埋蔵油)を給油したと、ハッキリ証言している資料を読んだことがある。また、実際に片道燃料分の重油だったら、沈没時にあれほど乗組員たちが海上に漂う分厚い重油の層に苦しめられず、もう少し生存者も多かったのではないか……という非常に重要な証言だ。
 給油の担当責任者は、戦艦「大和」は“不沈艦”であり撃沈されずに柱島泊地へもどれるのではないか……という、“神話”を信じ期待して通常の給油を指示したか、あるいは「大和」に乗り組んだ指揮官たちと同様に、航空機による援護もなく作戦とも呼べない愚劣な「特攻作戦」に強い反発をおぼえ、「片道燃料」という作戦要項を無視して燃料タンクを満たした可能性がある。しかし、なぜか給油現場のこの証言はその後まったく取りあげられず、「片道燃料」で沖縄へ向かった第2艦隊の悲壮感と悲劇性だけが、ことさら強調されるようになった。いまになって、ずいぶん前に読んだ呉海軍工廠で給油任務に就いていた人々の証言が、どこの資料に掲載されていたものか記録していないのが残念だ。


 さて、敗戦後に撮影された横須賀海軍工廠Click!跡の空中写真(冒頭写真)には、日本の無条件降伏文書の調印式が行なわれた戦艦「ミズーリ」と入れ代わるように、東京湾(横須賀港)へ入港した戦艦「アイオワ」の姿がとらえられている。(①) そのアイオワのすぐ北側には、出港準備と機関整備が行なわれているとみられる、白い排煙を吐く旧・海軍の戦艦「長門」(②)の姿が見える。敗戦の間際に横須賀港Click!に係留され、もはや航行する燃料がないため「移動砲台」とされて、敗戦時に唯一海上に浮かんでいた最後の戦艦だ。このあと、1946年(昭和21)7月に行なわれた、ビキニ環礁の水爆実験Click!で標的艦にされて沈没している。
 視点を東京湾から瀬戸内海に移してみると、呉海軍工廠や江田島周辺の海域には、1945年(昭和20)の本土空襲で撃沈された、旧・海軍のさまざまな艦艇を発見することができる。やはり目につくのは、戦艦「長門」と同様に「移動砲台」にされていた数隻の大型艦だ。そのほとんどが、米軍により繰り返された激しい攻撃によって大破・沈没し、浅瀬に着底している様子が記録されている。



 まず、呉海軍工廠のガントリークレーンが建ち並ぶ巨大な船渠(ドック)をのぞいてみると、いちばん右手のドックでは練習艦「磐手」(旧・装甲巡洋艦)とみられる旧式艦が解体されている様子が見える。(③) その左手に見えている屋根つきの巨大なドックが、戦艦「大和」が建造された船台だ。ドック後尾に見える大屋根は、第1号艦(「大和」の計画仮艦名)の建造時、艦の規模を遮蔽して秘匿するために設置されている。また、異なるタイムスタンプの空中写真で同ドックを観察すると、航空母艦らしい艦が解体中であるのが見てとれる。(④) この艦は、付近の海域で撃沈され、大きく傾斜して着底していた空母「天城」かもしれない。(⑤)



 呉港の周辺を眺めてみると、武装解除されスクラップ化されるのを待つ駆逐艦や海防艦など小型艦船の姿が目につく。(⑥⑦) また③が撮影される少し前、呉港には練習艦「磐手」が係留されている様子もとらえられている。艦上を仔細に観察すると、主砲塔がすべて取り払われ、対空用の12.7cm高角砲や25mm機銃座が設置されている様子がうかがえる。おそらく、空襲に備えて練習艦から防空艦へ改装されていたものだろう。(⑧)




 目を江田島の周辺海域へ移すと、三子島の海岸には戦艦「伊勢」が大破・着底している。(⑨) また、近くには同型艦の戦艦「日向」も、同様に撃沈され着底しているのが見える。(⑩⑪) 両艦とも艦尾に飛行甲板を備えた、「航空戦艦」という独特な艦影をしており、いくら飛行甲板などを樹木で覆い迷彩をほどこしたとしても、燃料がなく動けない艦船は米軍の攻撃機には格好の標的になっていただろう。さらに、同じく戦艦「榛名」も無惨な姿をさらして、海岸近くに沈没・着底しているのが見てとれる。(⑫)



 いずれの艦も、あらかじめ海岸線近くに係留されているのは、沈没しても艦全体が水没せず艦底が海底に着底するだけで、その後も砲台として使用できるかもしれないという、淡い期待があったからだとみられる。だが、米軍の空襲は激しく、艦上の兵器や設備はほとんどが破壊され、空襲が終ると使いものにならなかったケースが多かった。(⑬戦艦「榛名」の空襲) 「榛名」は、4番砲塔を残してすでに解体がかなり進んでおり、このあと浮揚作業ののちに解体・スクラップ化された。このほかにも、付近の海岸線には重巡「利根」(⑭)や軽巡「大淀」(⑮)、傾斜して着底している駆逐艦(⑯)など数多くの残骸が、無惨な姿をそのままさらしているのが見てとれる。



 めずらしいのは、米軍のB29偵察機が1945年(昭和20)4月6日に柱島泊地の上空から撮影した、「天一号作戦」が発令される前日の戦艦「大和」の姿だ。(⑰) 左舷に見える船は最後の物資補給船か、あるいは可燃物を陸揚げするために接舷された運搬船だろう。翌日の午後2時20分すぎに、同艦はのべ400機近くの米軍機による攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。
 また、戦争による直接の破壊跡ではないが柱島の南、福良島の西2kmほどのところにある海域から、油が漏れだして帯状の形跡を引いているのが、戦後の空中写真からもはっきりと確認できる。(⑱) この位置には、1943年(昭和18)6月8日に謎の爆沈事故を起こした、戦艦「陸奥」が沈んでいるはずだ。燃料不足から、翌1944年(昭和19)には海底の「陸奥」のタンクから600tほどの重油が回収されたが、大半は「陸奥」が引き揚げられる1970年代まで、ときおり漏れでるままに放置されていた。

◆写真:1945年(昭和20)から1948年(昭和23)ごろまで、米軍機によって撮影された日本沿岸の偵察用、攻撃時、爆撃効果測定用の各種空中写真。