さて、1967年(昭和42)に入ると落合地域の各地では、十三間通り(新目白通り)の建設工事Click!のスピードがかなりアップしている。だが、第一文化村側と第二文化村側を結ぶ、歩道橋の設置計画はこじれにこじれていた。双方の住民は、当初の要望どおり目白文化村の北側、升豊酒店(現・セブンイレブンあたり)の十字路(通学路)に歩道橋が設置されるものとばかり思っていた。ところが、実際に工事がスタートしたのは、そこから50mほど南東側の下落合みどり幼稚園(下落合教会)の真ん前、つまり目白文化村Click!に隣接した位置だった。
 これは、落合中学校や同校PTA、落合第一小学校なども含め、工事がスタートした地点の周辺住民にも寝耳に水だったらしく、猛烈な反対運動が起きている。周辺の反対住民の中には、工事は「体を張って妨害」するという人々まで現れた。そもそもボタンのかけちがいは、東京都が地元の住民たちにまったく周知せず、勝手に歩道橋の位置を変更したことにあるようで、都側は苦しまぎれに町会には照会して「了解をとっている」と弁明したが、町会側は工事を進めるという話を「関知していない」と、地元住民と東京都の対立にまでこじれそうな気配になった。
 歩道橋周辺の住民にしてみれば、高い橋の上から家々をのぞかれて防犯上まずいのは当然だが、塀や樹木で家の中が見えないよう遮蔽するためのなんの補償もなく、また商店の看板や店先も橋柱に隠れてしまうため営業に不都合が生じるなど、さまざまな理由を挙げて反対しているが、いちばん腹立たしかったのは工事計画の変更が役人の机上で勝手に決められ、かんじんの地元住民にはまったく説明されていなかった点だろう。
 1967年(昭和42)3月1日の落合新聞には、突然、歩道橋の建設がふってわいた下落合みどり幼稚園(下落合教会)と、目白文化村の住宅街との間になる歩道橋架設の予定現場(写真⑤)が掲載されている。左手に見えている、尖塔のある建物が下落合教会で、その左手には下落合みどり幼稚園がある。歩道橋は下落合教会のあたりから、手前の目白文化村側へと渡される計画に、ある日突然に変更されていた。住所は、下落合4丁目1644番地(現・中落合3丁目)界隈にあたる。
 同号の記事によれば、歩道橋を利用する生徒たちの人数が想定され、往復で算定すると落合第一小学校の生徒100人、落合第二中学校の生徒180人、下落合みどり幼稚園の園児140人、落合第三小学校の生徒50人、目白学園の生徒30人で、1日に計約500人の子どもたちが利用する歩道橋になる予定だった。



 1967年(昭和42)年4月になると、十三間通りは下落合の駅前交番のある133m区間が完成している。ただし、交番裏を通る旧道の雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)を整備したあとに、十三間通りは開通する予定だった。また、当初の計画では4月末までに下落合駅前から山手通りまでの工事を完了したいとしているが、もちろん工事に時間を要する山手通りと十三間通りの立体交差(アンダーパス)は、あとまわしの計画になっている。1967年(昭和42)3月31日の落合新聞には、舗装工事を終えた下落合駅前交番前の十三間道路写真⑥が掲載されている。現在の高木ビルの前あたりから、下落合駅のある方角(東)を撮影したもので、住所は下落合3丁目1122番地(現・中落合2丁目)あたりということになる。
 さて、下落合みどり幼稚園前の歩道橋工事は、どうなっただろうか? 落合新聞の1967年(昭和42)6月25日号には、完成しつつある歩道橋の写真⑦が掲載されている。周辺の住民たちが、どうして歩道橋工事を黙認しているのか、その理由はあえて書かれていない。おそらく、家々を塀や樹木で遮蔽する補償金が支払われたと思うのだが、住民にインタビューしても具体的な話が聞けなかったのか、竹田助雄は記事にしていない。同号から、歩道橋の記事を引用してみよう。
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 中落合四丁目みどり幼稚園裏の歩道橋は、去る五月三十一日橋ゲタの架設をおわり、六月二十日完成の予定で工事を進めた。道路は七月十五日開通予定で、道路開通以前に橋の出来るのはめずらしいケース。放七の交通量は当初一日約一万台と推定されている。/中落合西交番前通りとの交差地点には、多少遠回りをしても命を大切にする努力を払うべきであるという見地から、横断歩道はつけない。
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 記事の中で、「中落合西交番前通りとの交差点」とは、先述した升豊酒店(現・セブンイレブン)前に設置されるはずだった歩道橋の計画位置にあたる中落合四丁目交差点のことだが、現在ではもちろん信号と横断歩道が設置されている。歩行者優先の今日的な視点からは、ちょっと想像しにくい“論理”だが、多少遠まわりをしても命を大切にする努力を払うのは歩行者ではなく、多少信号で待たされたり遠まわりをしても歩行者を優先する努力を払うべきなのは、もちろんクルマのほうだ。
 1967年(昭和42)7月25日、西落合1丁目の目白通りから山手通りまでの650m区間の十三間通りが開通した。(写真⑧) 開通時の交通量は、1日で1万5千台を数えている。夏休み期間中のため、くだんの歩道橋の利用者は毎時30名弱と少ないが、道路をそのまま横断しようとする歩行者があとを絶たなかったようだ。また、さっそく交通事故も4件発生している。
 同年8月10日に発行された落合新聞には、警視庁が撮影した工事中の十三間道路の写真⑨が掲載されている。画面の手前が下落合駅側で、建設中だった中落合マンションが完成している様子がとらえられている。山手通り(環六)との交差点は、画面のやや左上にあたるが、その手前の工事が遅れているのが一目瞭然だ。ここは、六天坂Click!や見晴坂Click!の丘上にあたり、十三間通りの工事でもっとも難航した地点だろう。丘を約30m幅で丸ごと掘削しなければならず、5~8mほどの切り通しを造成して道路を通さなければならなかった。したがって、翠ヶ丘Click!あるいは改正道路Click!(山手通り)工事がスタートしてからは赤土山Click!と呼ばれた麓から山頂までの、大量の土砂を運びださなければならなかったのだ。また、写真では山手通りと十三間通りとの交差点に計画されている、アンダーパス(立体交差)の工事も手つかずなのが見てとれる。



 さて、西落合1丁目の目白通りから聖母坂下の下落合駅前まで、なんとか開通するめどが立った1967年(昭和42)だが、それより東側の山手線までの区画では、相変わらず土地買収が難航していた。山手線の駅が近く、その利便性から土地を手放したくない住民も多かったと思われるが、この区画では十三間通りの計画にひっかかる製造工場の数も多かった。だから、工場を別の場所へ移転するか工場の規模を縮小する間は、生産をストップさせるか減産しなければならず、企業にとっては死活問題となるテーマを抱えていたのだ。おそらく住宅地以上に、補償交渉がスムーズに進展しなかったのだろう。

◆写真上:霞坂と清風園の間に架けられた歩道橋上から、下落合駅方面を眺めたところ。中央の茶色いビルが、道路工事と同時に建設された中落合マンション。
◆写真中上:上は、1967年(昭和42)2月撮影の目白文化村側から眺めた工事中の十三間通り。左手に見える尖塔が、下落合教会と下落合みどり幼稚園。中は、同年3月に撮影された下落合駅前交番へと向かう工事中の十三間通り。下は、上掲写真の現状。
◆写真中下:上は、1967年(昭和42)6月撮影の紛糾した歩道橋の架設工事。中は、現在の歩道橋の様子で左側階段の緑が残るところが下落合教会(下落合みどり幼稚園)。下は、同歩道橋上から西落合方向を撮影したもの。中央に見えている横断歩道の位置が当初の歩道橋架設予定位置で、左手のセブンイレブンが升豊酒店跡。
◆写真下:上は、1967年(昭和42)8月に目白通りから山手通りの交差点までが開通した様子。中は、1967年(昭和42)8月に撮影された工事がつづく山手通り交差点から下落合駅前にかけて。下は、山手通りをくぐる十三間通り(新目白通り)のアンダーパスの現状。