毎夜、池袋界隈に住んでいる画家たちを集めて人気が高かった、池袋駅西口の豊島師範学校Click!の焼け跡バラックで営業していた酒場「炎」Click!は、再開発のため東京都からの立ち退き命令を受けて、突然閉店を余儀なくされた。その後、経営者の“チャコちゃん”こと北村久子は、上野へともどってしばらく休養をしていたようだ。昼間は、浅尾佛雲堂の「プール・ヴ―モデル紹介所」Click!のディレクション業務をつとめ、夕方から池袋の酒場「炎」に勤務していたわけだから、かなり疲労がたまっていたのだろう。
 北村久子は、昼間のモデル紹介所の仕事が終わると、洋画家・原精一の夫人の弟子になって蝋纈染めを習いはじめている。もともと、編み物などの手芸が好きだったらしい彼女は、のちに太平洋画会工芸染織部の会友になって作品をつくりつづけることになる。池袋の酒場「炎」が閉じたた直後の様子を、1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記・戦後篇-』より引用してみよう。
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 原<精一>さんの恋女房であった奥さんは蝋纈染めを得意として美しい壁掛けや衣装などを作っていた。さて、池袋の空き地の飲み屋街で開いていた「炎」の店も立ち退きで止むを得ず閉店した北村久子(プール・ヴ―モデル紹介所事務担当)さん、元来手工芸が好きで、仕事の合い間を見ては、編物等に余念がなかったが、フトしたことから原夫人の蝋纈染め衣装を見て心引かれ弟子入りした。毎晩のように原さんの所へ勉強に行った。生来器用な北村さんは僅かの間にその技法を体得し、後年には太平洋画会工芸染織部の会友になったほどであった。赤羽で作品展を開いた時はほとんど赤札がつき、そのうちの衣装の一点は伊藤清永さんの手元へ行っているはずである。(< >内引用者註)
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 だが、無類の酒好きであり芸術(家)好きの彼女は、しばらくするとやはり池袋で閉じてしまった酒場「炎」を継続して営業したくなったようだ。
 北村久子は、プール・ヴーモデル紹介所の仕事をこなしながら、新たに「炎」を開店できる物件を探しはじめた。やがて上野松坂屋Click!の向かい、上野広小路に面した風月堂の裏手に、閉店したスタンドバーの空き店舗を見つけている。小さい溝(どぶ)沿いにあったスタンドバー跡は、池袋西口に建っていた「炎」と、たいしてちがわないほど狭いスペースだったらしい。彼女は、ここで酒場「炎」を再開している。
 再スタートした第2次「炎」は、今度は上野界隈から桜木町、谷中一帯にアトリエをかまえる酒好きの画家たちを集めて繁盛した。店のオリジナル「カルバドス」も池袋時代と同様、相変わらずメニューに加えられたのだろう。浅尾丁策は「炎」のリスタート祝いに、大きな骨董品のパレットへ「炎」と書いた看板を贈っている。



 だが、今度は「炎」の仕事が池袋以上に多忙をきわめ、昼間のモデル紹介所の仕事に少しずつ支障をきたすようになっていった。おそらく池袋西口と、東京藝大の地元であり数多くの美術団体がひしめく上野とでは、来店する客の数も大きくちがっていたのだろう。彼女は昼も夜も通して働いているので、朝が起きられずモデル紹介所へは頻繁に遅刻するようになり、また夕方は店の仕込みや準備から早退することが多くなった。困った浅尾丁策は、彼女にアシスタントを付けて多忙なモデル紹介業務をしのいだ。
 池袋時代と変わらず、北村久子がケンカっ早(ぱや)いのも同じだった。気に入らない客がくると、柔道初段の彼女は「表へ出ろ!」といって取っ組み合いのケンカとなり、翌朝、全身傷だらけでモデル紹介所へ出勤することもあったようだ。長時間ジッとしていなければならない、元モデルとはとても思えない気短かな気性だが、その様子を同書から再び引用してみよう。
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 ある朝手足あちこちに包帯を巻いて出勤してきたのでビックリして、どうしたのか、と聞いてみた。昨夜酒くせの悪いお客さんが来て些細な事から喧嘩になり口論の末表へ出ろということになり、取っ組み合いになり二人でそばの溝へ墜落しかくの通りの有り様とのこと。総じてバーのマダムは飲むふりをして客扱いをするのが鉄則になっているが、酒好きの彼女は自分が先に酔っぱらってしまうので時々このような失敗を繰り返している。女傑(?)気質は困ったものであった。
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 その後、酒場「炎」は上野御徒町で1年ほど営業をつづけたあと、すぐに鶯谷駅の西側へと移転している。このころから妹との共同経営になったらしく、仕事が楽しいのか午後4時にプール・ヴーモデル紹介所を退社すると、嬉々として鶯谷へ出勤していた。
 このサイトでも、柳瀬正夢Click!との関係で登場している岩波書店の小林勇Click!は、北村久子とは古くからの知り合いだったらしく、神田駅裏の建物にかなり広いスペースがあるので、美術関係者のクラブ経営を計画していた。小林勇は、そのゼネラルマネージャーとして北村久子に白羽の矢を立てている。酒場「炎」とは異なり、今度は岩波書店が肝煎りの大がかりな美術関連のクラブなので、プール・ヴ―モデル紹介所の業務との“二足の草鞋”は無理だった。
 モデル紹介所を辞め、おそらく鶯谷の「炎」は妹にまかせて、北村久子は神田に開店した岩波書店の「美術家クラブ」へ全力投球することになる。だが、小さな酒場「炎」とは異なり、大きなクラブの経営は生やさしいものではなかったようだ。もともと、美術や文学の関係者、あるいは出版人など金銭感覚がアバウトな相手の社交場的なクラブなので、飲食費の立て替えや焦げつきが徐々に増えていき、数年後には経営にいき詰まってしまったらしい。わずか数年で、岩波書店は「美術家クラブ」を閉店している。




 閉店の直後、浅尾佛雲堂を訪れた北村久子は、よほど仕事がたいへんだったのか、酒場の経営はもうこりごりだと訴え、モデル紹介所を経営したいと浅尾丁策に依頼している。やがて、浅尾佛雲堂の全面バックアップで紹介所の認可をとり、彼女は北村モデル紹介所を開業することになるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大雪が降った翌日、全面氷結した不忍池(蓮池)。
◆写真中上:上は、上野精養軒から不忍池を眺める。中は、北村久子が上野桜木町から上野御徒町の「炎」へ通うたびに眺めていた上野東照宮の唐門と寛永寺五重塔。下は、やたらと人に寄ってくる不忍池のキンクロハジロ。
◆写真中下:東京国立科学博物館(上)と旧・岩崎邸のバルコニー(中)。上野山から谷中にかけては、あまり空襲被害を受けておらず古い建築が数多く残っている。下は、やはり人に馴れている不忍池では定番のユリカモメ。
◆写真下:上は、浅尾丁策が心中火災Click!現場へ駈けつけた谷中の天王寺五重塔の残骸。中は、1960年代に撮影された上野広小路を走る都電上野線。下は、上野界隈の美味いもんで広小路の洋食「黒船亭」(上)と、鶯谷「炎」時代には北村久子も通ったと思われる根岸のうなぎ「根ぎし宮川」(下)。