1933年(昭和8)12月10日、関屋敏子はパリの舞台で創作オペラ『お夏狂乱』を発表したとされている。西鶴や近松の『姿姫路清十郎物語』で、すでに芝居や浄瑠璃ではポピュラーな演目だった同作を、オペラ仕様にして作詞したのは詩人・川路柳虹、作曲したの関屋敏子自身だった。もし、同日にオリジナルオペラ『お夏狂乱』がパリで実際に発表されていたとすれば、日本の本格的な創作オペラの海外初上演となるだろう。
 だが、当日のパリ新聞社が主催した「グランド・コンサート・シンフォニック」のプログラムに、歌曲『お夏狂乱』(オペラ『お夏狂乱』の一部)はあっても、オペラ上演の記載がないことを澤地久枝Click!が指摘している。プログラムの第1部では、モーツァルトの交響曲とバッハのカンタータ、そのあとに当時はイタリアを中心にヨーロッパではプリマドンナ(コロラトゥーラ・ソプラノ)として活躍し、すでに高名だった関屋敏子(マドモアゼル・トシコ・セキヤ)が、日本民謡の『秋田おばこ』とオリジナル歌曲『お夏狂乱』を歌っている。だが、創作オペラ『お夏狂乱』が舞台で上演された形跡はない。
 翌1934年(昭和9)に、関屋敏子は二度めの訪欧から日本へともどっているが、同年6月には歌舞伎座の舞台で「新作大歌劇」と銘打たれたオペラ『お夏狂乱』が上演されている。これが、オペラ『お夏狂乱』の全幕を通した初演ではないだろうか。ヨーロッパから帰国した関屋敏子は、「日本の鶯(ウグイス)」「国宝的歌手」としてまたたく間に人気が沸騰した。つづけて1935年(昭和10)11月には、安倍晴明Click!が登場するやはり歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』をベースにしたオペラ『二人葛の葉』を、藤原義江らとともに初演している。『二人葛の葉』もまた、作詞は川路柳虹で作曲は関屋敏子だった。本作は、1936年(昭和11)にビクターレコードへ吹きこまれ、「葛の葉」役を歌う関屋のソプラノを耳にすることができる。
 さて、関屋敏子は新作オペラを作曲するにあたり、何度か落合地域にも足を運んでいるとみられる。なぜなら、作詞を担当していた詩人・川路柳虹の自宅が、インドへのガンダーラ遊学や、パリへ東洋美術史を学ぶために留学したほんの一時期を除き、大正期から太平洋戦争の末期でそろそろ空襲Click!が予想されるようになった1944年(昭和19)まで、ずっと一貫して上落合にあったからだ。1944年(昭和19)10月に、56歳を迎えた川路柳虹は家族を連れて千葉県市原郡南総町へと疎開している。翌1945年(昭和20)の山手空襲Click!で、上落合の自邸は全焼して蔵書のいっさいを失っている。
 川路柳虹の曾祖父は徳川幕府の外国奉行・川路聖謨で、代々が旗本の家柄だった。京都美術工芸学校から東京美術学校の日本画科へ進んだあと、おかしなことに二科展へ“洋画”を出品して入選し洋画家をめざしていたのだが、のちに自信作のひとつが二科で落選したのをきっかけに、あっさりと画家を廃業してしまった。このあたり、一度ヘソを曲げると二度と容易にはふり返らない、いかにも頑固な江戸東京人の血筋らしい。
 画家への道をあっさり棄てた彼は、すでに東京美校時代から『早稲田文学』や『文章世界』などへ発表していた、詩作の道へ注力することになる。そして、明治以来の古くさい新体詩の世界へ、彼は文字どおり今日までつづく革命的な表現“口語自由詩形”の作品『新詩四章』を、早くも1907年(明治40)に発表している。そして、1910年(明治43年)に、処女詩集『路傍の花』を刊行した川路は、詩壇の台風の目のような存在になっていく。
 
 
 大正期に、上落合の川路邸へ足しげく通っていた村野四郎の文章を、1969年(昭和44)に新潮社から出版された『日本詩人全集』12巻より引用してみよう。
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 私が、落合の川路邸に出入りしていた若い頃、一冊の薄い詩集をしめして、「これは素敵に面白い本だ。きっと君のためになるから読んでみたまえ」といって手渡してくれたが、それが西脇順三郎がロンドンで出した英詩集“Spectrum”であった。大正の末の頃のことであって、当時わが国詩壇の大家のうちで、このモダニズムの作品を理解し、その新しい詩的思考の方向を予測しえた詩人が果して何人あったであろうか。柳虹は芸術院賞を受賞した翌年死亡したが、死去の年まで机上に天眼鏡をおいて、ミショー、クノー、ポンジュなどフランス前衛詩人たちの原書に読みふけっていた。
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 1913年(大正2年)に東京美術学校を卒業すると、川路柳虹は翌年、さっそく東雲堂より象徴詩的な第2詩集『かなたの空』を出版している。
 1921年(大正10)になると、川路柳虹は室生犀星、萩原朔太郎Click!、千家元麿Click!、百田宗治、白鳥省吾、福士幸次郎らとともに「日本詩人」(新潮社)を刊行。このころから、彼のもとへは若い詩人や詩人志望の学生たちが集まりはじめている。その中には「日本未来派宣言」の平戸廉吉や、プロレタリア詩派の前衛詩人・萩原恭次郎Click!もいた。萩原恭次郎の場合は、1925年(大正14)から川路邸にほど近い目白文化村Click!の第一文化村内にあった、下落合1379番地のテニスコート内クラブハウスClick!へと引っ越してきている。この小さなクラブハウスでは、のちに秋山清Click!が母親とともに暮らすことになる。
 川路柳虹が上落合へとやってきたのは、1918年(大正7)とかなり早い。当初は、上落合581番地に邸をかまえているが、1927年(昭和2)からインドのガンダーラ地方への美術遊学、そしてパリへの留学で5年後に帰国している。1932年(昭和7)からは、上落合2丁目569番地に住んでいるが、もとの住居からわずか東へ20mしか離れていない、路地をはさんだ向かい合わせの隣家だった。早稲田通りにもほど近い上落合エリアの風情が、川路はよほど気に入っていたらしい。
 
 
 1921年(大正10)に玄文社から出版された川路柳虹『曙の声』には、上落合581番地のわが家の庭を眺めた詩「庭」が収録されている。一部を引用してみよう。
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 ここはもの音のきこえない片隅/ここは日光のしづかな庭、/八ツ手はその葉を青々と伸し/楓は今年も涼しい蔭をつくる。/私におとづれる夏は、/この小さな蔭に置く籐椅子と、/運ばれる卓の上の紅茶と、/妻と、子供と、書籍と、絵と、/ゆるやかな日曜の休息と、/まづしい乍ら落ちつける/安らかな自分の部屋。
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 『曙の声』が出版された1921年(大正10)当時の上落合は、一部で郊外住宅地が形成されはじめてはいたが、ほとんどがいまだ田畑のままだった。ちょうど、川路柳虹の作品が収められた『日本詩人全集』12巻の表紙にある、田園風景のような風情だった。関屋敏子が訪れたとみられる1935年(昭和10)前後には、上落合地域はとうに耕地整理が終わり、ほとんどの田畑は消滅して新興住宅地としての街並みが形成されていただろう。
 上落合581番地(1918~1927年居住)と、隣接した上落合(2丁目)569番地(1932~1944年居住)にあった川路柳虹邸の周囲には、軒並み詩人や作家たちが暮らしていた。詩人では今野大力(上落合504)、野川隆(同630)、安藤一郎(同602)、壺井繁治Click!(同549)、詩人で画家の柳瀬正夢Click!(同602)、小説家では吉川英治Click!(同553)、壺井栄Click!(同549)、今野賢三(同502)、細野孝二郎(同596)、上野壮夫(同599)、小坂たき子(同599)、大江賢次(同732)、評論家では神近市子Click!(同506)と、川路邸を四方から囲むように人々が往来している。
 日本ならではの国産オペラを協作した川路柳虹が、千葉県の南総町へ疎開した約1ヶ月後、関屋敏子は声の衰えが主因とも鬱病が原因ともいわれているが、1944年(昭和19)11月に睡眠薬を大量に服用して37歳で自殺している。ヨーロッパで通用した、日本の数少ないオペラ歌手だった関屋敏子は、三浦環や原信子とは異なり、しだいに世間から忘れられた存在になっていった。川路は、疎開先での不自由な生活を送りながら、彼女の突然の死を新聞で知ったのだろう。



 大正期の「日本詩人」(新潮社)では、川路柳虹といっしょだった千家元麿も落合にいた。千家は目白学園の北側、オリエンタル写真工業Click!の第1工場の東並び、落合町葛ヶ谷(現・西落合)640番地へ住んでいる。千家元麿が登場すると、すぐにも岸田劉生Click!や武者小路実篤Click!などとのエピソードが思い浮かぶけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大正期から戦時中にかけての川路柳虹邸の跡で、左手が上落合581番地で行き止まりの路地をはさみ右手が上落合569番地の現状。
◆写真中上:上は、ヨーロッパの舞台でオーケストラをバックに歌う関屋敏子。下左は、1927年(昭和2)に撮影されたオペラ衣装の関屋敏子。下右は、1934年(昭和9)に撮影された絶頂期の関屋敏子。10年後に自殺するとは、誰も想像できなかったろう。
◆写真中下:上左は、1927年(昭和2)にモンテカルロで撮影された川路柳虹。上右は、1958年(昭和33)に撮影された川路柳虹。下は、東雲堂から1910年(明治43)に出版された川路柳虹『路傍の花』(左)と、1913年(大正2)出版の『かなたの空』(右)の各内扉。
◆写真下:上は、上落合569番地の川路柳虹邸付近から妙正寺川への北向き斜面が下っている。中は、1929年(昭和4)の「落合町市街図」にみる川路柳虹邸と周辺。下は、1969年(昭和44)に新潮社による『日本詩人全集』12巻表紙の加山又造による装画。