少し前の記事で、池袋駅に近い豊島師範学校の焼け跡バラックで、酒場「炎」Click!を経営していた“チャコちゃん”こと、北村久子Click!について書いたことがある。その記事で、東京ではめずらしく戦災に遭わず、製造設備も含め戦後まで焼け残っていた、長崎のクサカベ絵の具工場についてご紹介していた。
 東京美術学校の門前で、画材店「佛雲堂」を経営していた浅尾丁策Click!は、クサカベ絵の具工場が無事なことを伝え聞き、戦後、すぐに取るものもとりあえず油絵の具を仕入れに出かけている。東京市街地にあった絵の具工場や、海外から絵の具を輸入していた画材商社は全滅してしまい、長崎のクサカベ絵の具はほぼ唯一、油絵の具を生産できる工場として貴重な存在になっていた。このクサカベ絵の具工場が長崎地域のどこにあったのかが、記事を書いた当時は不明だったのだが、わざわざ地元の資料を追いかけて調べてくれた、ものたがひさんClick!から工場の所在地をご教示いただいた。
 クサカベ絵の具工場は戦災に遭わず、「豊島区長崎5丁目15番地」で操業していたことが判明した。現在の住所でそのまま規定すれば、西武池袋線の東長崎駅を下車し、北北西へ直線距離で200mほどのところにある一画だ。しかし、まったく統一性がなく、なんら脈絡のない豊島区の町名変更や地番変更には細心の注意が不可欠なのは、以前、造形美術研究所Click!=プロレタリア美術研究所Click!の所在地を探っているときに身にしみているので、今回もほどなく身体じゅうが警戒モードに入った。「長崎5丁目15番地」は、現在の住所位置とはまったく関係のない、かなり離れた別の場所だったのではないだろうか? ……わたしの予感は、的中した。
 戦後すぐのころ、すなわち1945年(昭和20)から1964年(昭和39)まで、「長崎5丁目15番地」は豊島区千早4丁目に接しようとする、千川上水Click!沿いの地番だったのだ。ほどなく、ものたがひさんから1964年(昭和39)に発行された、地番変更の資料をお送りいただいた。いまの住所でいうと、豊島区長崎5丁目32番地=「長崎5丁目15番地」であり、現在の長崎5丁目15番地から北へ250mも離れた町境の位置に当たる。前回も書いたけれど、なぜ豊島区が各時代にわたり、このようなわけのわからない地番変更をするのか何度経験しても、わたしには理解できない。
 

 さて、敗戦直後にクサカベ絵の具を訪ねた浅尾丁策は、敗戦直前に亡くなった創業者・日下部信一に代わり会社の跡を継いだ、まだ20歳そこそこの日下部松助から打ち合わせがてら、かき氷を食べにいこうと近所の店へ誘われている。1996年(平成8)に芸術新聞社から出版された、浅尾丁策『昭和の若き芸術家たち-続金四郎三代記[戦後編]』から、かき氷屋の様子を引用してみよう。
  ▼
 連日三十二、三度の猛暑つづきの一日であったので、松助君は氷を飲みに行こうと言って、すぐ近所の店へ連れていかれた。土間には縁台が並んで、氷と染め抜いた青い旗がダランと下がり時々微風に揺られていた。/ギラついた太陽から逃れるようにして中へ入る。古い家なので庇が長く屋内は薄暗い中で姉妹らしい二人が働いていた。家構えに似合わず両人とも可愛らしい美人揃い。ここの氷あずきはとても美味しいです、と注文してくれた。姉と覚しき女の子が、先刻飲んだばかりなのに、またまた、大丈夫ですかと、ニッコリほほ笑む、私は秘かに、ハハーン、松助君のお目当てはこれだナ、と思ったが、甘んじて山車になった。あずきを食べ終わると、今度はイチゴはどうですと言ってまた頼んだ。何のかんのと私は三杯。松助君は五杯平らげてしまった。この姉妹の兄貴が、現在美術ジャーナル画廊の羽生道昌さんであり、それから間もなく、迎えられて、クサカベ絵の具の営業部に入り、のち営業部長として大いに辣腕を振った。
  ▲


 
 余談だけれど、この年代の人たちがカワイイ女の子を発見すると、すぐに「美人」「美女」と書きたがるのは、どの資料や文章を読んでいても感じる共通項だ。とある下落合の古い資料では、ひとつの章立ての中に10ヶ所以上も「美人」「美女」が出てきて辟易することがあり、この方たちの年代が天地茂の「江戸川乱歩Click!美女シリーズ」の視聴率を支えていたんじゃないかとさえ思えてくる。w
 さて、このかき氷屋さんがあったのは、クサカベ絵の具工場の目の前を流れていた、比較的人通りが多かったとみられる千川上水沿いの表通りだろう。現在は、千川上水がすっかり暗渠化され、道幅も拡幅されて千川通りの下になってしまっている。
 
 
 クサカベ絵の具は、もともと薬剤店から出発している。神田小川町で薬剤店を経営していた日下部信一が、扱う化学薬品や油、色素などから絵の具分野にまで手を拡げたのだが、神田小川町にあった本社の薬剤店は空襲で灰燼に帰した。幸か不幸か、本業ではない焼け残った長崎の絵の具工場が、クサカベのメイン事業へと成長していく。そして戦後の焼け跡で、いち早く貴重な絵の具を画家たちへ供給しはじめたクサカベは、国産絵の具メーカーとして不動の地位を築いていくことになる。

◆写真上:旧・長崎5丁目15番地のクサカベ絵の具工場跡。(撮影:ものたがひさん)
◆写真中上:上左は、1945年(昭和20)の1/10,000地形図にみる長崎5丁目15番地のクサカベ絵の具工場。上右は、1957年(昭和32)の同地図にみるクサカベ絵の具工場。工場の建屋をリニューアルしたのか、建物が大きく描かれている。下は、1964年(昭和39)に実施された豊島区の地番変更。長崎5丁目15番地が、32番地へ変更されている。
◆写真中下:上は、1960年(昭和35)作成の「住宅明細図」にみる「クサカベ油絵具製造KK」。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみるクサカベ絵の具工場。浅尾丁策が目にしたのは、この工場建屋だろう。下左は、1950年(昭和25)に撮影された千川上水で右手が当時の千川通り。下右は、クサカベ油絵の具のバーミリオン(No.166)。
◆写真下:1925年(大正14)から1928年(昭和3)にかけ、美術専門誌に掲載された各種絵の具の媒体広告いろいろ。上は、1925年(大正15)の「木星」(左)と1926年(大正15)の「みづゑ」(右)から。下は、1927~28年(昭和2~3)の「中央美術」から。