以前の記事で、壺井栄Click!の本名が「坪井栄」で、藤川栄子Click!の本名「坪井栄」と同姓同名だったため急速に親しくなり、窪川稲子(佐多稲子)Click!ら親しい友人を誘い合って、落合地域を散歩していたのだろう……と書いた。ところが、壺井栄の本名は正確には「岩井栄」であり、そもそも彼女の文壇デビュー作の活字から「岩」を「坪」、ないしは「壺」を「坪」と“誤植”していることが判明した。
 この「坪井栄」を、彼女の本名だとする資料もいくつかあるので(わたしは当該の資料を参照したようだ)、この勘ちがいは1938年(昭和13)に発行された「文藝」9月号に、坪井栄(壺井栄)『大根の葉』が発表されてから、かなり長期間つづいていた可能性がありそうだ。『大根の葉』以前にも、彼女は「婦女界」や「進歩」へ習作とされる作品をいくつか書いているが、本格的な小説は「文藝」に掲載された150枚の『大根の葉』が最初だった。そして、デビュー作の作品の作者名から“誤植”が生じた。
 壺井栄(岩井栄)は小豆島の実家で、少女時代から文学青年だった兄・岩井弥三郎の購読する「新小説」や「文芸俱楽部」、「女子文壇」などを読んで育った。東京へやってきて結婚したあと、夫のプロレタリア詩人の壺井繁治が治安維持法違反で豊多摩刑務所に服役中、『プロ文士の妻の手記』という作品を残している。30枚あまりの短い作品だが、婦人雑誌「婦女界」が公募していた生活記録文の懸賞に応募したもので、入選して30円の賞金をもらっている。『プロ文士の妻の手記』は小説(フィクション)ではなく、壺井繁治との生活をほぼそのまま記録した、自伝的ルポルタージュとでもいうべき作品だった。
 彼女が初めて書いた小説は、1934年(昭和9)に坂井徳三らが主催する現代文化社の文芸誌「進歩」第3号に掲載された、ペンネーム小島豊子の短編『長屋スケッチ』だ。この作品はフィクションの体裁をとっているけれど、やはり夫婦の生活上に起きた事実を記録した記録文学のような雰囲気をもつ。結婚後まもなく、世田谷町の太子堂近くに借りた長屋での生活を、周囲の人々の様子とともに記録したものとみられる。壺井繁治が二度めの服役から保釈後、彼の奨めで同作は「進歩」に寄稿されている。だが、「進歩」はマイナーな文芸誌であり、彼女がことさら大きく注目されることはなかった。
 つづいて1935年(昭和10)に、神近市子Click!編集の「婦人文藝」4月号へ、同じく短編『月給日』を発表した。この小説も彼女の実体験をベースにしており、かつて彼女が浅草橋の時計問屋に勤めていたとき、月給日に新宿で買い物をした帰り、新宿駅の切符窓口で月給入りの財布をひったくられた事件がテーマとなっている。『月給日』は、神近市子が編集する文芸誌に掲載されたことで、少なからず文学界から注目された。このころから、壺井栄は毛糸の編み物で家計を助けながら、小説家になる決心を固めていたようだ。


 
 元来ユーモアたっぷりな彼女の性格は、落合地域を中心に宮本百合子Click!や窪川稲子Click!(佐多稲子)たちと面白おかしく世間話を重ねているうちに、「それ、いっそ小説に書いてみれば?」と奨められることが多くなったらしい。特に宮本百合子は、彼女の小説家デビューを強力に支援したようだ。こうして書かれたのが、1938年(昭和13)に発表された『大根の葉』だった。当初は「文藝春秋」に掲載される予定だったが、彼女の担当編集者が急に北支へ転勤になって話が立ち消えになり、つづいて「人民文庫」への発表予定が、ちょうど掲載月に経営が破たんして廃刊となってしまった。
 最後に、宮本百合子が「文藝」の編集者・小川五郎(高杉一郎)に推薦して、ようやく1938年(昭和13)の「文藝」9月号に、壺井栄『大根の葉』は掲載されることになる。なかなか発表できなかった“難産”の状況から、宮本百合子は「大根の葉が、いまに乾菜(ほしな)になってしまう」と冗談めかしていっていたという。ところが、いざ「文藝」に掲載されてみると、とんでもない“誤植”が判明したのだ。かんじんの作者名「壺井栄」が、「坪井栄」になってしまっていた。ここから、ちょっとしたおかしな騒動が起きている。「文藝」9月号が書店に並んだとたん、画家・藤川栄子Click!のもとに祝いの手紙が舞いこみはじめたのだ。
 二科の藤川勇造Click!と結婚する以前、独身時代の坪井栄(藤川栄子)は、早稲田大学の文学部へ聴講生として通うほどの文学好きだった。1930年協会Click!へ出品して画家になる前、彼女はひとりで小説家をめざしていた時期がある。だから、藤川栄子の友人知人たちの何人かは、彼女の作品が「文藝」に採用されたと勘ちがいして、祝いに駆けつける者まで出てきた。そのときの騒動の様子を、1966年(昭和41)に光和堂から出版された壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。


 
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 いよいよ掲載誌が届いて栄が封を切ったところ、重大な誤植があった。作者の「壺井栄」が「坪井栄」になっているのだ。この作品が発表された時、画家の藤川栄子の許へお祝いの手紙が誰かから届いたという話があるが、それは彼女が彫刻家の藤川勇造と結婚するまでは「坪井栄」だったので、てっきり彼女の作品であると思って、お祝いの手紙をくれたらしい。ところで藤川栄子は、栄の少女時代に影響を与えた兄弥三郎の、高松の教師時代の教え子の一人だったということも、一つの因縁話として面白い。
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 この時点で、初めて壺井栄と藤川栄子が知り合い、親しくなったわけではないだろう。それ以前から、早稲田通りをはさんで斜向かいの戸塚町上戸塚593番地に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)Click!と、親しく交流していた同町上戸塚866番地の藤川栄子Click!は、彼女を通じて壺井栄とも知り合っていたと思われる。ふたりとも香川県出身の同郷で、親しくなるのにそれほど時間はかからなかったろう。しかも、藤川栄子が壺井栄の兄の教え子だったことも、ふたりを急速に接近させた要因だったのではないか。
 このあたりの「坪井栄」をめぐるエピソード、すなわち藤川栄子の旧姓だった本名「坪井栄」と、本名で掲載されるはずだった壺井栄の誤植「坪井栄」のユーモラスな混乱がきっかけとなり、壺井栄の旧姓=坪井栄とする勘ちがいが、のちの資料類にまで生じた可能性を否定できない。
 ふたりの親しい交際は、壺井夫妻が上落合549番地から短期間の上高田暮らしをへて、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)へ転居したあとまでつづいた。藤川栄子は、親友の三岸節子Click!のアトリエClick!を訪ねたときなど、同じく鷺宮に転居していた窪川稲子や壺井夫妻を訪問していたとみられる。


 実質の処女作となった壺井栄『大根の葉』は、軍国調の作品があふれていた小説界へ、久しぶりに本格的な味わいの小説が登場したと喜ばれ、多くの読者や批評家から好評で迎えられている。自身の作品が、初めてメジャーな文芸誌に掲載されたとき、おかしな誤植騒ぎはあったものの、壺井栄は夫に「わたし、もうこれで死んでもいいわ」といって喜んだが、彼女が次々と本格的な作品の執筆をスタートさせるのは、1945年(昭和20)の敗戦以降のことだった。

◆写真上:上落合(2丁目)549番地にあった、壺井繁治・壺井栄邸跡あたりの現状。
◆写真中上:上は、1937年(昭和12)ごろを想定した上落合・上戸塚地域に住む親しい女性作家・画家たちの様子。中は、戦後の1955年(昭和30)に撮影された壺井繁治・栄夫妻。下左は、同じく戦後の1946年(昭和21)に出版された壺井栄『大根の葉』(新興出版社版)。下右は、三岸陽子様Click!の夫・向坂隆一郎様Click!が保存していた資料類に残る壺井栄『妻の座』(冬芽書房/1949年)の献呈サイン(提供:山本愛子様Click!)。
◆写真中下:上は、藤川栄子アトリエが建っていたあたりの現状。中は、1933年(昭和8)に建設直後の藤川勇造アトリエ(2年後の勇造没後から藤川栄子アトリエ)。下は、頻繁に訪問しあって仲良しだった藤川栄子(左)と窪川稲子(佐多稲子/右)。
◆写真下:上は、早稲田通りの騒音がうるさかった窪川稲子邸跡。下は、濱田煕Click!が描く1938年(昭和13)ごろを想定した上戸塚の街並み記憶画。窪川鶴次郎・稲子夫妻の借家が、中村兼次郎邸の敷地内に建つ借家だったのがわかる。