このような文章を書いていると、どうしても欲しい資料が見つからないことがままある。その反対に、いともたやすく立てつづけに欲しい資料が、まとめて手に入ることもある。今回は、後者の典型的なケースだ。以前、下落合で転居を繰り返す松居松翁Click!の記事でも少し取りあげた、牧野虎雄Click!のアトリエについての資料だ。
 1936年(昭和11)まで長崎村(町)荒井1721番地(現・目白4丁目)にアトリエをかまえ、のちに下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)へ転居してくる牧野虎雄Click!は、自身のアトリエをモチーフにいくつかの作品を残している。以前、牧野が自宅と庭を描いた1922年(大正11)の『早春』をモノクロ画像でご紹介Click!しているが、カラー画像がどうしても見つからなかった。
 ところが、古書店で絵葉書になっている同作を見つけるのとほぼ同時に、その3年前に描かれ、やはり記念絵葉書になって残されていた『庭』も見つけることができ、ようやくカラーの画面を見ることができた。さらに、牧野虎雄が下落合540番地の大久保作次郎邸Click!の庭で制作した、1922年(大正11)の『百日紅の下』の絵葉書も、ほどなく実物を手に入れることができた。
 牧野虎雄が自邸を描いた『庭』は、1919年(大正8)の夏に制作され、第1回帝展に出品されている。また、『早春』は1922年(大正11)の1月ごろに描かれたのだろう、同年3月10日から7月20日まで上野で開催された、平和記念東京博覧会の美術館へ出品されたものだ。さらに、『百日紅の下』は1922年(大正11)の夏に大久保作次郎邸の庭で制作され、秋の第4回帝展に出品されている。いずれも神田美土代町1丁目44番地にあった美術工藝会によって記念絵葉書がつくられ、今日まで伝わったというわけだ。
 まず、もっとも早い時期の長崎村荒井1721番地をとらえた『庭』(冒頭写真)を観ると、なにやら庭にこんもりした土盛りがしてあり、その周辺にはヒマワリや白ユリの花が咲いているのが見てとれる。この土盛りは、牧野自身が庭づくりのために造作したものか、家を建てる前からそこに存在していたものか、それとも敷地の西側へ南北道路を拓くための工事用土砂なのかは不明だ。周囲の情景との比較からすると、直径10mほどはありそうな盛り土なのがわかる。
 背景の、木々が繁る奥に人家は見あたらず、住宅地というよりは雑木林の中にアトリエを建てているような風情だ。牧野のアトリエは洋風住宅であり、トタンを貼った屋根の下の外壁は下見板張りで、まるで昔の小学校のようにグリーンのペンキで塗られていたのがわかる。手前には、頭をかいて「ど~もスイマセン」といっているような、白い浴衣を着た女性の上半身が描かれており、セミ時雨がやかましい盛夏の庭先で唯一、動きのあるモチーフだ。こういうところが、牧野の独特なユーモアセンスなのだろう。



 『庭』の夏景色から一転し、3年後の冬枯れが残る『早春』には、葉を落とした木々の向こう側に、新たに建てられたとみられる住宅らしいフォルムが描かれている。樹間に2~3棟が確認できるので、わずか3年の間に長崎村荒井界隈は、急速に宅地造成が行なわれているのがわかる。変わらないのは、牧野邸のすぐ左奥に見えている、アカマツのような姿の常緑樹だが、同じような樹影を残しつつも3年後にはやや成長しているのが見てとれる。庭のこんもりとした土盛りは消滅し、雨漏りでもして屋根を修繕しているのか鬼瓦状の突起が消え、屋根の印象が少し変わっている。ケヤキと思われる木々の葉が落ち、ヒヨドリの鋭い声が聞こえそうな寒々とした風景だ。
 『庭』と『早春』の2作とも、光線の射し方で自宅の南側から北東を向いて描いているとみられる。現在では、庭の左手に“>”字型にクラックのある道路が北へとつづいているけれど、1921年(大正10)現在の地図では雑木林の中をゆるやかにカーブする小道の描写はあるものの、ハッキリとした道路のかたちには描かれていない。1919年(大正8)夏の『庭』は、その小道が盛り土の手前左手に通う自宅を南側から描いたもので、1922年(大正11)冬の『早春』は、北側に住宅が建ちはじめたため、かなり明確に道路ができかかっている時期に描かれたものだと想定できるだろう。『早春』のほうが、自邸にかなり寄って描かれているため画面が狭い。
 1921年(大正10)作成の1/10,000地形図を参照すると、長崎村荒井1721番地の位置に牧野邸と思われる家屋が、1軒ポツンと採取されている。また、東側には大久保作次郎アトリエも見つけることができる。ふたりは帝展の常連でありお互いが親しく、大久保作次郎が1916年(大正7)ごろ下落合540番地にアトリエを建てているので、おそらく牧野虎雄もほぼ同じ時期に近くへ引っ越してきているのだろう。牧野アトリエから、東へ直線で200mほどのところに、目白通りの北側へ張りだした下落合の大久保アトリエがあった。



 1922年(大正11)の夏、牧野虎雄は大久保作次郎邸の庭へ出かけ、第4回帝展用の作品を制作している。それが、同年制作の『百日紅の下』Click!だ。大久保作次郎の弟子とみられる女性が、サルスベリのもとで大久保邸の庭をスケッチしている様子を、かたわらで牧野虎雄が重ねてスケッチしている…という面白い情景だ。陽射しを除けるため、女性の頭上にひろげられた2本の雨傘が面白くて、牧野はモチーフに選んだのかもしれない。
 ピンクのワインピースに白いエプロンをした女性は、50号ほどの大きなキャンバスに向かっている。それを描く牧野虎雄もまた、同じぐらいの大きなキャンパスへ描いており、その様子は同年に発行された『主婦之友』の写真で知ることができる。牧野は、おそらく麻のスーツにシャッポ―をかぶったハイカラないでたちだが、1922年(大正11)の当時、ワンピース(しかもピンク)を着た女性は非常にめずらしかっただろう。この姿で目白通りを歩いたら、おそらく道ゆく人が次々と振り返ったにちがいない。
 紅いサルスベリの花が咲き、イーゼルを立てている女性画家の向こう側は鶏舎となっており、数多くの白色レグホンが飼われている様子が見える。鳥が好きな大久保作次郎の庭らしい風情なのだが、セミの声に混じってコケ~コッコッコというニワトリの声Click!が、制作の間じゅう耳について離れなかっただろう。のちの1931年(昭和6)に、牧野虎雄はやはり帝展出品の作品づくりに大久保邸を訪れ、庭で飼われていたシラキジClick!をモチーフに、巨大なキャンバスへ取り組む写真が残されている。



 1922年(大正11)制作の『早春』が出品された平和記念東京博覧会には、文化村のモデルハウス14棟Click!が出展されている。同じ年、初の本格的な文化住宅街である下落合の目白文化村Click!と近衛町Click!、そして東急洗足駅の洗足田園都市Click!が販売を開始し、それら洋風建築の壁面を飾る洋画のニーズが、一気に高まりを見せていた時代だった。

◆写真上:1919年(大正8)秋の第1回帝展に出品された、牧野虎雄の『庭』。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)春の平和記念東京博覧会へ出品された牧野虎雄『早春』。中は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図にみる牧野邸。下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる牧野邸と描画ポイント。
◆写真中下:上は、長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)の、牧野虎雄アトリエ跡の現状。中は、1922年(大正11)の第4回帝展に出品された牧野虎雄『百日紅の下』。下は、「主婦之友」に掲載された大久保邸の庭で『百日紅の下』を制作する牧野虎雄。
◆写真下:上は、下落合540番地の大久保作次郎アトリエ跡。中は、1922年(大正11)の平和記念東京博覧会場に建設された「美術館」。下は、同博覧会へ出展された文化村住宅14棟の一部。いずれも、大木栄助・編『平和記念東京博覧会写真帖』(1922年)より。