なにか困ったことが起きたとき、あるいは自分だけでは到底解決できない困難な課題を抱えているとき、なんの前ぶれもなく、それを見透かしたかのように突然現れる「救いの神」=人物がいる。仕事でも趣味でも、わたしはそんなありがたい方々に運よくお会いして支えられ、これまでなんとかやってこれたような気がする。太平洋の黒潮が洗う犬吠埼へ、経済的な困窮と避寒のために出かけた壺井繁治Click!の前に、同郷の小豆島からとびきりの「女神」が降臨した。
 詩誌「赤と黒」につづき、1924年(大正13)11月に発刊された詩誌「ダム・ダム」は創刊号を出したとたんに終刊号となってしまい、編集人のひとりだった林政雄が同人費と広告料を持ち逃げして終わった。壺井繁治をはじめ萩原恭次郎Click!、橋爪健、林政雄、岡本潤Click!、小野十三郎Click!、高橋新吉Click!らアナーキズム色の強い同人たちが集まり「ダム・ダム」を刊行したのは、マルキストたちが文芸誌「種蒔く人」につづいて「文芸戦線」を創刊したのに対抗する意味もあったようだ。「文芸戦線」の同人には小牧近江や金子洋文、今野賢三Click!、村松正俊、柳瀬正夢Click!、佐々木孝丸Click!、平林初之輔Click!らが名を連ねていた。
 「文芸戦線」に対抗するどころか、明日からの生活にも困った壺井たちは、銚子出身の警察署長の息子だった飯田徳太郎の提案に一も二もなく飛びついた。飯田徳太郎は、陸軍の甲府連隊へ反戦ビラをまいて検挙され、保釈後に「ダム・ダム」へ参画するようになっていた。飯田のアイデアは、下宿の食事を止められ明日にでも追い出されそうになっていた壺井たちには、バラ色の提案に思えただろう。以下、そのときの様子を1966年(昭和41)に光和堂から出版された、壺井繁治『激流の魚』から引用してみよう。
  ▼
 (前略)「ダム・ダム」が廃刊となり、みんなの気持が支えどころなくバラバラとなっていた時、彼(飯田徳太郎)の口から故郷の銚子へゆかぬかという話が持ち出された。そのころわたしは下宿代が滞り、食事を止められ、何処かへ逃げ出さねばならない状況に追い詰められていた。そういうわたしにとって飯田の話は渡りに舟だった。彼の話によれば、犬吠岬燈台の近くに日昇館という夏向きの貸別荘があり、冬の間は誰も客はなく、非常に安く借りられるから、出来るだけ多勢を誘い、そこで共同生活をしながら原稿を書こうというのだ。そして米や魚や野菜その他の物資は俺の故郷だからなんとか安く調達する、と大変うまい話であった。/この銚子行きに参加したのは、飯田をはじめとして、萩原恭次郎の第一詩集『死刑宣告』に独特なリノリユームの版画を添えた「マヴオ」同人の岡田竜夫、おなじく「マヴオ」同人の矢橋公麿、安田銀行員で、わたしや萩原の下宿によく出入りし、勤めをサボって首になる一歩手前の、肺病で、文学青年の福田寿夫、わたし、それからただ一人の女性平林たい子の六名であった。平林がこの一行に加わったのは岡田の誘いである。(カッコ内引用者註)
  ▲
 実際に利根川の河口にある日昇館に着いた一行は、怪訝な顔をする老管理人に迎えられた。長髪のむさい男5人の中に、女がひとり混じっているのが当時の常識では信じられない光景だったからだ。のち、平林たい子Click!は別荘の管理人夫妻から、「誰かの女房でもない者が、こんな男の中へ交ってくるわけはない」と、執拗にどれが彼女の亭主なのかを問いつめられることになる。
 「別荘」といわれてやってきた一行は、まるで古びた廃病院のような建物にガッカリした。いちおう「貸別荘」として建てられた家には、長い廊下の両側に20室もの部屋が並び、海岸がすぐそこまで迫っているので、潮風が絶え間なくカタカタと雨戸を鳴らすようなわびしい環境だった。一行は、そこで原稿の執筆に取り組んだり読書に励むはずだったが、のんぴり遊びに興じて誰も仕事をしようとはしなかった。

 
 毎日、トランプや花札ばかりしては歌を唄い、ゲームに飽きると散歩に出かける生活がつづいた。そんな暮らしが数週間もつづけば、「銚子の街も、太平洋の荒波も、波間に浮かぶ白い鴎も、君ヶ浜の砂丘も、犬吠埼の燈台も」みんなどうでもよくなり、退屈きわまりない風景に変じてしまった。6人いた「合宿」のメンバーは、ひとり減りふたり減りして、ついには壺井繁治と福田寿夫のふたりだけになってしまった。カネが底をつき、飯田徳太郎と平林たい子は東京で金策をしてくるといいだして、交通費の名目で福田寿夫から有りガネすべてを巻き上げると逃走し、二度と犬吠埼にはもどってこなかった。
 壺井たちは数日、水だけですごし、ひと口も食べ物が摂れない状態がつづいて指先の感覚が鈍り、だんだんしびれてくるような状態になる。敷き布団に横たわったまま、海の音を聴きながら染みだらけの天井を見上げるだけの、典型的な飢餓状態に陥った。そんな飢餓地獄のような犬吠埼の日昇館へ、突然、なんの前ぶれもなく岩井栄(のち壺井栄Click!)がやってくる。そのときの様子を、同書からつづけて引用してみよう。
  ▼
 そこへ、突然岩井栄がやってきたのだ。彼女はわたしの隣村の役場にいて、黒島伝治と交際していた関係から、わたしとも知り合っていた。といってそれほど深いつき会いではなく、ときたま手紙をやり取りする程度だった。彼女が文学好きのことは黒島から聞いていたので、「ダム・ダム」が創刊された時、読者になってもらったりした。わたしがここへきて間もなくのころ、「一度遊びにきませんか。」と手紙を出したが、その誘いに応じて、彼女がはるばる小豆島から銚子までやってこようとは、考えてもいなかった。それだけに驚きもしたが、文字通り飢えて死の一歩手前にあったわたしたちにとって、彼女の突然の来訪はまるで天国からの使いみたいだった。/彼女はわたしたちが腹を減らしているのをちゃんと知っていたかのように、ここへ着くと折詰の鮨を二人の前に差し出した。わたしたちはロクにお礼もいわず、それを頬張った。それほど二人は腹を空かしていた。
  ▲
 

 壺井栄は、近くの商店から米や魚、野菜などを買いこんでくると、テキパキと料理をつくりだした。男ふたりは、それをむさぼるように食いつづけたらしい。彼女は、小豆島から休暇をとって遊びにきたのではなく、島の村役場を辞めて文学に専念するために東京へやってきていた。つまり、犬吠埼の飢餓別荘へ鮨折りをもって何気なく出かけたことが、文学をめざす壺井栄の第一歩になったわけだ。
 彼女は、ふたりの男を連れて東京にもどると、一時的に義兄の家へ身を寄せている。そして、1925年(大正14)2月に世田谷三宿の山元オブラート工場近くにある2階建ての借家で、壺井繁治とふたりだけの結婚式を挙げた。ほどなく、世田谷町の太子堂近くで北側が騎兵連隊の駐屯地に接し、消灯ラッパが毎日聞こえる棟割り長屋へと転居している。この棟割り長屋には、すぐに玉川の瀬田から野村吉哉と林芙美子Click!が引っ越してきていっしょになり、つづけて道路をはさんだ向かいの床屋の2階には、犬吠埼の「別荘」からなけなしのカネを持ち逃げしてトンヅラした飯田徳太郎と平林たい子が、悪びれる様子もなく夫婦仲となってケロリとした顔で転居してきた。
 文学をめざす、これらの人々の世田谷生活は長つづきせず、ほどなく飯田徳太郎と平林たい子は1926年(大正15)8月に、林芙美子は1930年(昭和5)5月から、壺井繁治・壺井栄夫妻は1932年(昭和7)6月から、期せずして落合地域へ次々に転居してくることになる。壺井繁治・栄夫妻に関していえば、アナーキストたち(黒色青年連盟)による「裏切者」の繁治へ加えられたテロルが、世田谷町若林の家を離れさせるきっかけになったようだ。


 テロの直後、萩原恭次郎に抱えられて自宅へ担ぎこまれた壺井繁治は、全身の痛みで眠れず夜通しうめき声を上げつづけたが、深夜まで身体をさすりつづけてくれたのは壺井栄だった。壺井繁治にしてみれば、妻はほんとうに自身のもとへ降臨した「廬舎那仏」、…いやもとへ、「女神」のように映っていただろう。だが、幸運の「女神」を得た彼が、思想弾圧と戦争の嵐の真っただ中へ叩きこまれるのは、それから間もなくのことだった。

◆写真上:上落合では二度めの転居となった、上落合549番地の壺井繁治・栄旧居跡。
◆写真中上:上は、北側の君ヶ浜から眺めた銚子の犬吠埼燈台。下左は、1966年(昭和41)出版の壺井繁治『激流の魚』(光和堂)。下右は、1915年(大正4)に小豆島で妹たちとともに撮影された16歳の岩井栄(壺井栄:後列左)。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)冬の犬吠埼で「厄病神」だった平林たい子(左)と救いの「女神」だった壺井栄(右)。下は、落合地域の友人知人を訪ねるたびに壺井夫妻が自宅を出て下っていた、鶏鳴坂Click!の1本西側に通う上落合の坂道。
◆写真下:上は、鷺宮2丁目786番地(現・白鷺1丁目)の壺井夫妻が住んでいたあたりの現状。下は、鷺宮の自宅縁側でくつろぐ壺井栄(左)と壺井繁治(右)。