わたしが子どものころ、親に連れられてバスに乗りユーホー道路(遊歩道路)Click!=国道134号線をそのまま東へたどって鎌倉で降りると、ほとんど人に出会わなかったのを憶えている。もちろん、鶴ヶ岡八幡宮や高徳院の大仏、円覚寺などの観光スポットには、それなりに修学旅行の学生や生徒たちが50~100人とかたまっていたのだが、ちょっと脇道にそれると人の姿を見ることはめったになかった。ほぼ隔週おきに鎌倉へ遊びに出かけたのは、北鎌倉に母親の親戚が住んでいたせいもあっただろう。北鎌倉は、鎌倉に輪をかけたように“無人”のような風情だった。
 たまに家の庭先で焚き火などをしている人に出会うと、今日でいう“街歩き”のようなわたしたちの姿を見て、「あなたがた、こんなところでなにしてるの?」というように、怪訝な表情で見られたものだ。ユーホー道路Click!や若宮大路、鎌倉駅前、大仏へと向かう長谷の通りなどはかろうじてアスファルトが敷かれていたけれど、ほとんどの道路は舗装もされておらず、小町通りは風が吹くと土埃が舞うような風情で、駅前なのに人の姿はあまりなかった。クルマもいたって少なく、たまに走り抜ける修学旅行の観光バスが目立っていた時代だ。
 それでも夏になると、多くの海水浴客がわたしの子どものころから横須賀線や小田急線で押しかけて、由比ヶ浜や材木座海岸、片瀬・江ノ島海岸(ちなみに江ノ島は藤沢市)、鎌倉水族館(のち閉館)などは芋の子を洗うような混雑ぶりだった。七里ヶ浜は、関東大震災Click!とそれにともなう隆起と津波Click!で海底の地形が大きく変わってしまい、一般客の遊泳が禁止されていたのを憶えている。この浜で見かけたのは、流行りはじめた波乗り(サーフィン)のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちか、釣り人Click!だけだった。
 だから夏の鎌倉というと、できるだけ海岸近くは避け、わたしたちは山側のハイキングコースをよく歩いていた。山々へ入りこむ谷(やつ)にはかなり奥まで田畑が拓かれていて、いまのような新興住宅地が谷奥まで開発される前の姿だった。そういうところでは、よくマムシやヤマカガシなど毒ヘビClick!に遭遇し、草が微妙に横ゆれするマムシはそっと避けて通るか、ヤマカガシは予想外のスピードで“追いかけて”くるので走って逃げた。わたしの高校時代ぐらいまで、鎌倉のマムシによる被害はあとを絶たず、市内のとある病院ではカーテンを閉めようとした看護婦が、中にくるまっていたマムシに気づかずに噛まれて亡くなったというニュースが流れたのを憶えている。
 鎌倉(海側)の混雑も夏の間だけで、秋冬春はもとの静かなたたずまい……というか、当時の資料に書かれた表現を借りるなら「さびれてうら寂しい」、誰もいない海や街並みにもどっていた。「有名な寺々もさびれて、朽ちそうなほどボロボロだったんだよ」とか、「春先の風が強い日の午後は、土埃がひどい小町通りには人っ子ひとりいなかったよ」とか、「国道134号線はクルマがあまり走らず、稲村ヶ崎から腰越までの散歩にはもってこいだったんだ」とか友人知人に話しても、「信じられない」という顔をされるのだが、やたら鎌倉に人が押し寄せるようになったのは1970年代の半ばあたりだろうか。確か極楽寺を舞台にした鎌田敏夫のドラマがヒットし、その少し前から「an・an」や「non-no」といった女性誌が、競うように“鎌倉特集”を組みはじめたころだ。




 東京でいうと、ちょうど原宿が繁華街化した時期と、鎌倉の混雑とが妙にシンクロしているような印象がある。原宿も、駅前からすぐに住宅街が拡がり、ときおり犬を散歩させる地元住民に出会うだけで、声高に話すのもはばかられるような静かな乃手Click!の街並みだった。外国人が多く住んでいたせいだろうか、帰国する彼ら相手のアナクロで妙ちくりんな日本土産の店や刀剣店が、ところどころに開店していたのを憶えている。この街が“ファッション化”したのも、1970年(昭和45)すぎであり、若い子たちの姿を多く見かけるようになったのも70年代の半ばなので、やはり「an・an」や「non-no」の“原宿特集”からだろうか。
 さて、わたしが子どものころの鎌倉の街並みについて、あちこちで懐かしそうに語るものだから、「きっと、こんな感じだったんでしょ?」と1冊の写真集をいただいた。1955年(昭和30)に朋文堂から出版されたツーリストガイドブックス1『鎌倉』だ。ご両親の書棚を整理していたら見つかったそうで、ページをめくると子どものころに眺めていた鎌倉の風景写真が大量に掲載されている。わたしが生まれる前に出版された本だが、「そうそう、まさにこの光景だったんだ!」と反応すると、「確かに人が、ほとんどまったくいないねえ」と納得してくれたようだ。
 若宮大路やユーホー道路はクルマの姿もめずらしく、人がポツンポツンと歩いている程度だった。フェンダーミラーのセドリックで、ほんとうに「ぶっ飛ばせた」時代だ。どこの寺々も、修繕費にこと欠くのかボロボロで、建長寺にいたってはいまにも茅葺きの屋根から倒壊しそうな風情だったのだ。鶴ヶ岡八幡宮はハトClick!ばかりが多く、人の姿があまり見えない。浄明寺ヶ谷(やつ)の杉本寺では、子どもたちが現在では立入禁止の風化して朽ちかけた石の階段(きざはし)で遊び、瑞泉寺では庭の樹木が小さく、建立された当初の庭園の姿をよく踏襲し、極楽寺Click!では子どもの木登りに最適なサルスベリClick!が、「ちょっと登ってみれば?」と囁いて誘惑している。w 江ノ島の展望台は古い姿をしていて、東京オリンピックでヨットハーバーが造成された東側の島影も、もとのままなのが懐かしい。ちょっと、同書の「プロローグ」の一部を引用してみよう。
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 鎌倉は、単に旧蹟の地というだけではありません。静かな雰囲気、夏は涼しく冬は暖い温和な気候、海岸と松林に恵まれた新鮮な空気、東京・横浜に近接した便利の良さから保養地、別荘地として人々に愛され、とくに著名な文化人の移り住むものが多く、作家や音楽家、演劇・映画人など、「鎌倉文士」という言葉さえ一般化しているほどです。この点、鎌倉は古い歴史とともに、近代的な文化の雰囲気を常に呼吸している土地といえるでしょう。最後にまた、海水浴場であるということが、鎌倉の大きな魅力です。夏の訪れとともに、江ノ島をひかえたこの海岸は、俗に「海の銀座」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、年中行事のカーニバルを中心に、鎌倉の人出は最高潮に達するのです。/これほど観光地としてのさまざまな要素を、一つの土地に併せもっているところも少いでしょう。
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 現代的な視点からいえば、この文章の中で「鎌倉」の地名を「大磯」Click!に入れ替えれば、多くの点で記述が一致するだろう。「静かな雰囲気」が消えてしまった鎌倉ではなく、夏になると大磯へ出かけるのは、子どものころに体験した鎌倉の雰囲気を、どこかで味わいたいからなのかもしれない。
 観光客の誘致が目的のツーリストガイドブックス1『鎌倉』なので、盛んに歴史的な名所や散歩に適した場所を紹介しているのだが、同書が出版されてから10年以上たった1965年(昭和40)の時点でも、前年の東京オリンピックにより江ノ島のかたちは大きく変わったが、鎌倉はたいして変化のない風情を見せていた。同書の記述では、あちこちで「鎌倉時代当時の風情を味わい、その<よすが>を偲ぶことができる」というような表現が頻出するけれど、確かに中世で時間が止まってしまった感覚を味わうことができる街並みや山里が多かった。
 わが家には、1950~60年代の鎌倉と箱根、大山・丹沢Click!をとらえたアルバムがいちばん多いが、それだけ親がわたしを連れ歩いて遊びに出かけた“証拠”なのだろう。わたしの世代になってから、クローゼットの奥にしまいこまれたアルバム類は整理してないけれど、きっと懐かしい風景写真が横溢しているにちがいない。時間に余裕ができたら、探し出してきてエピソードとともにご紹介してみたい。
 わたしの記憶にあるなしにかかわらず(わたしが物心つく以前の、幼稚園時代から鎌倉へは通いつづけていた)、鎌倉のありとあらゆる地域を巡ったと思うのだが、唯一、連れて行ってくれなかった場所が飯島崎の先(沖)にある、鎌倉幕府Click!が築造した貿易湊(みなと)「和歌江島」だ。全国をめぐる幕府の交易船はもちろん、宋からの貿易船も来航していた可能性の高い湊だが、満潮時にはすぐに水没してしまうし、飯島崎で舟を雇わなければ渡れないので親たちは面倒を避けたのだろう。GoogleEarthで確認すると、干潮時に撮影されたのか、湊の築造跡をいまでもクッキリと確認することができる。




 幼児のころから学生時代ぐらいまで、わたしは鎌倉をよく散歩していたが、以前は800年前の鎌倉時代を想像しながら、その面影や片鱗を求めてあちこちを歩いていたように思う。ところが、最近では鎌倉を歩くと、わたしが子どものころに歩いていた鎌倉の風景、つまり、1960年代の風情を思い出しながら歩いていることに気づく。幼いころに見た光景や風情にことさら哀惜を感じるのは、やはり年をとった証拠だろうか。

◆写真上:室町幕府を開いた、北関東は足利出自の鎌倉幕府御家人・足利尊氏の墓所である北鎌倉の長寿寺。足利尊氏の墓所から白旗社の源頼朝の墓、そして報国寺の足利一族代々の墓を結ぶと直線になる。また、尊氏と頼朝と寿福寺にある政子さんClick!の墓を結ぶと、鶴ヶ岡八幡宮を底辺の一画とした面白い直角三角形ができあがる。もうひとつの安養院にある政子さんの墓を起点にすると、なにが見えてくるだろうか?
◆写真中上:上は、ほとんどクルマも人もまばらな1955年(昭和30)ごろの若宮大路で、1960年(昭和35)すぎも相変わらず同じだった。右上に見えている岬は稲村ヶ崎。十王岩から鎌倉市街地を見下ろすと、若宮大路にはクルマが渋滞しているのが見え(下)、沖の島影は伊豆大島。下は、子どもたちがよく遊んでいた杉本寺の風化した階段(きざはし)で、わたしも上下してよく遊んだ(上)が、現在は立入禁止になっている(下)。
◆写真中下:上は、茅葺きのままの覚園寺を百八やぐらClick!が密集した斜面から眺めたところ。奥の小谷(こやつ)・亀ヶ淵には、いまだ水田が拡がっているのが見える。中は、茅葺きの屋根がボロボロでいまにも倒壊しそうな建長寺の山門(上)。さすがに茅葺き屋根はなくなった現代の建長寺で、沖の遠景は伊豆半島(下)。下は、人っ子ひとりいない名越切通し近くの曼陀羅堂やぐらClick!で、奥に写っているのは10歳ぐらいのわたし。鎌倉時代の無数の死者が眠る五輪塔に囲まれて、とても楽しそうだ。w
◆写真下:上は、山門の龍眼が光るといわれる飯島崎の手前の光明寺。中は、飯島崎の沖にある和歌江島(上)といまも残る鎌倉湊跡(GoogleEarthより)。下は、東側に東京オリンピックのヨットハーバーができ島影が変わるほどの大改造が施される前の江ノ島。