『伽羅仙台萩(めいぼくせんだいはぎ)』にちなむ目黒鬼子母神Click!へ立ち寄りがてら、江戸期には下目黒村と中目黒村の入会地(字大塚とその周辺域)にかつてあった、大塚山古墳について調べながら現地を歩いているとき、目黒駅周辺の空中写真を年代を追って眺めていた。そして、目黒駅の東側にハッキリと刻印されたフォルムに、期せずして思わず目が釘づけになった。
 多くの方はご存じだと思うが、JR山手線の目黒駅は目黒地域(上・中・下目黒村)にはなく、目黒エリアから追いだされ上大崎村の山の中に建設されている。だから、目黒駅とその周辺は中目黒村でも下目黒村でもなく、歴史的には上大崎村の村域ということになる。目黒駅の東側一帯は、上大崎村に囲まれるように播磨の森伊豆守(1万5千石)の上屋敷が建っていたエリアだ。
 このような大江戸Click!の郊外に、下屋敷(隠居屋敷)ではなく、上屋敷の敷地が与えられている大名は非常にめずらしい。千代田城Click!へ登城するには、大手門まで直線距離でさえ8km(道筋を通ったら10kmほど)もあるので、季節にもよるが未明の2~3時起きだったろう。ほとんど幕府によるイヤガラセとしか思えないが、森家は織田信長の家臣だった森蘭丸がいた家系だ。ちなみに、江戸後期には織田家(織田安芸守)の上屋敷も近くにあり、しかも森家の屋敷よりもかなり小さな敷地を与えられている。
 さて、目黒駅の東側に巨大な鍵穴状のフォルム(前方後円墳の形状)を見つけたのは、1936年(昭和11)の空中写真だった。ちょっとケタ外れの大きさなので、最初は目を疑ったのだが、自然にこのようなかたちが形成されるとは考えられず、明らかに人工の構造物の痕跡である可能性が濃厚だ。このような巨大なサークル痕(直径規模)は、かつて上落合地域でとらえられたサークルClick!に匹敵すると思われるのだが、上落合ケースでは一端(東側)の途切れたサークル痕が残るのみで、すでに全体のフォルムは確認できなかった。(田畑の開墾で前方部が完全に消滅したのだろう) だが、上大崎のかたちは、本来のフォルムがくっきりと昭和初期まで刻印されて残っているケースだ。
 実際に現地を歩いてみると、すでに墳丘はほとんど存在せず、逆にえぐられてV字型の谷状地形になった部分(墳丘東側)さえあった。特に前方部は、その痕跡がほとんどわからず、ただ坂下(丘麓)に向かって低い土地がつづいているだけのように見える。現在では、そこがひな壇状に開発され、なだらかな坂道とともに住宅街が拡がっているだけだ。また、墳丘の西側は森伊豆守の上屋敷があったあたりを中心に高くなっており、さらに、昭和初期に開発されたとみられる青木邸や花房邸の屋敷と、戦前から開発されていたとみられる「花房家分譲地」の高台となっており、後円部と前方部の墳丘がほとんど存在しなくなっていた。



 現場を歩いてみて、少なからず確信が揺らぎかけたのだけれど、この土地に重ねられた事蹟を江戸期までさかのぼってみると、地形を変えてしまうほどの大規模な土木工事が、連続して行われている斜面だったことが見えてきたのだ。まず、江戸前期の1660年代(寛文年間)に、玉川上水Click!から延々と引いてきた「三田上水」が開発されている。三田上水は、墳丘北側の丘上(現・目黒通りあたり)を東西に横切るように掘削されている。やがて、1720年代(享保年間)に三田上水が廃止されると、耕作地の灌漑用水を目的に「三田用水」として転用されるが、のちに墳丘の東側に通う道筋へ沿うように、南向き斜面へ三田用水の分水が掘削され、丘下に拡がる上大崎村の田畑をうるおしている。
 このとき、三田用水分水の運用管理(土砂崩れや土砂の流出防止など)のために、前方部の南東側が大きく削られ斜面の傾斜角(鋭角斜面から鈍角斜面へ)が大きく変えられている可能性がある。さらに、三田用水の分水では水量が足りなかったのか、江戸中期になると墳丘の東北側にあった、久保(ku-ho)Click!の名がつけられている湧水源「鳥久保」からの流水を引き、前方部の南側に大きな溜池が設置されている。このときもまた、前方部の土砂がさらに崩されてV字型の谷状にされ、水流がスムーズに下るよう溜池の掘削とともに、地形が改造されている可能性がきわめて高い。
 同時に、江戸時代(中期か?)に森家の上屋敷が建設されるにともない、敷地を整地化する必要が生じている。森家の屋敷地は、後円部の西側にかかるような位置に設定されているので、もし大きな墳丘が残っていたとしたら、それらの土砂を取り除く必要があっただろう。また、前方後円墳のフォルム全体は、森家の「抱屋敷」敷地内にほぼ含まれているので、なんらかの土木工事が行われ、邪魔な墳丘が全的に崩された可能性もある。
 大規模な土木工事は、明治期になってもつづく。1885年(明治18)になると、日本鉄道が品川・赤羽線(現・山手線)を敷設し、上大崎村の丘を切り通し状にして目黒停車場が設置される。このとき、前方部西側の土砂が大量に削りとられているようだ。理由は、鉄道の敷設工事で深く掘削が必要だったのと、三田用水の掘削・通水ケースと同様に目黒停車場や軌道(線路)への土砂崩れ、あるいは土砂の流出を防止するために、崖地を大きく削り傾斜角をゆるめる必要があったとみられる。こうして、巨大な古墳の前方部は東西から削られ、まるで矢じりのような逆三角形になってしまった、1887年(明治20)に作成された地形図では、この岬状になってしまった地形に森家の上屋敷にちなんだ、「森ヶ崎」という地名が採取されている。

 
 
 
 
 
 ところが、大規模な土木工事はこれで終わりではなかった。目黒駅前に拡がる地形の大改造は、これからが“本番”だったのだ。昭和期に入ると、森家上屋敷のあった位置には森ヶ崎下大崎郵便局や東京市電車庫が建設された。そして、そのさらに南側には大きな青木邸と花房邸が建設されている。この大きな両邸を建てるために、森ヶ崎の土砂つまり前方後円墳の土砂を丸ごと、山手線の線路際の斜面まで移動して、線路側へと下る傾斜を埋めてしまったのだ。岬状に大きく南へ突き出していた森ヶ崎が、あたかも西へそっくりそのまま100m以上も移動してしまったように見える。しかも、南斜面に築造されていた古墳の土砂ばかりでなく、その下部の土砂まで深く掘削し、花房邸の南南東側へ新たな台地を人工的に築き、「花房家分譲地」として昭和初期に売り出したのだ。
 この昭和初期に行われた地形の大改造で、上大崎村にあった巨大な前方後円墳の痕跡は、ほぼ完全に消滅した。現在、目黒駅やその南側の線路際ぎりぎりまで、切り立つようにコンクリートの擁壁が迫っているけれど、大屋敷だった青木邸と花房邸、そして線路際まで迫る花房家分譲地が開発できたのは、コンクリートによる強固な擁壁技術が発達したおかげだろう。換言すれば、目黒駅と線路に沿ってその南につづく東側のコンクリート擁壁の中身は、巨大な前方後円墳の墳丘土砂で形成されている……ということになる。
 この鍵穴フォルムをした地形、すなわち前方後円墳とみられる形状は、前方部が真南の斜面から谷間を向いて築造されている。ほぼ目黒通りに接するほどの位置から墳丘がまっすぐ南へ向かい、江戸期に付近の農民によって掘削された溜池のある「字池谷」の北側までの墳長は、約400mほどはありそうだ。周濠が掘られていたとすれば、山手線の目黒駅や線路(の上の敷地)を飲みこんで、さらに壮大な墳形をしていただろう。ちなみに、名前がないとこれからの記述に困るので、この前方後円墳とみられるケタちがいの大きなフォルムを、仮に「森ヶ崎古墳(仮)」と呼ぶことにする。
 400mクラスの前方後円墳は、東日本ではいまだ未発見(未確認)であり、全国でも大阪府にしか存在が規定されていない。墳長の規模からいうと、森ヶ崎古墳(仮)は大阪府の誉田山古墳(俗に応神陵)Click!に近いだろうか。しかも、前方部が多摩川沿いに展開する多摩川台古墳群の宝莱山古墳Click!や、平川(現・神田川)斜面の成子天神山古墳(仮)Click!などと同様に、三味線のバチ型のような形状に近く、古墳時代でもかなり早期のころではないかと想定できるのだ。明らかに、南武蔵勢力を代表する「大王」クラスの墳墓のひとつだろう。もっとも、南関東では稀有のサイズだが、北関東の上毛野・下毛野地域(現・群馬/栃木両県)では、同サイズの古墳が新たに発見されるかもしれないが……。



 さて、森ヶ崎古墳(仮)の東側には、古墳の墳形に沿って拓かれた江戸期からの道路が、現在もほぼそのままのかたちで残っている。実際に現場を歩いてみて、そのあまりにもケタちがいのサイズに改めて驚いてしまったのだが、驚きはそれだけにとどまらなかった。明治の最初期に作成された、より古い1881年(明治14)作成の陸軍参謀本部の地形図(通称・フランス式彩色地図)を参照していたとき、森ヶ崎古墳(仮)の東約500mのところに、もうひとつの人工物とみられる巨大な構造物の痕跡を見つけてしまったからだ。
                                  <つづく>
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 最後にちょっと長い余談だけれど、昨年(2016年)12月29日の新聞やニュースで、稲荷山古墳の「金錯銘鉄剣」が同古墳の主墳(粘土槨)ではなく、陪墳(礫槨)から発見されている……という(公然とした)報道がようやくなされた。(X線による粘土槨=主墳での玄室確認のため) 稲荷山古墳そのものの地質からではなく、陪墳の礫槨から鉄剣が発見されたという事実は、当初から、偏見がなく科学的な事実を尊重するマジメで真摯な古代史学者や地質学者、考古学者たち、そして地元にある記念館の学芸員までが指摘していたにも関わらず、「皇国史観」の御用学者たちが寄ってたかって、あたかも稲荷山古墳の主墳から発見されたかのようにスリカエ、日本史の教科書にさえあたかも「稲荷山古墳(の主墳)から発見された」かのような表現で記載されるまでになっていた。こうやって、教育やマスメディアの動員により、戦前からつづく「皇国史観」が刷りこまれていくのだろう。

 通常の論理的な思考回路の持ち主なら、陪墳から出土した鉄剣の持ち主が仕えた「主人」とは、当然のことながら稲荷山古墳(主墳)の被葬者(大王)だと想定するのが一義的な研究姿勢であり、場ちがいな近畿地方の「大王」と結びつけるのがそもそも不自然なのだ。まるで、なんでもかんでも「将軍様」の事蹟にする北朝鮮の「将軍様史観」のような稚拙さでありお粗末さだと、歴史学者でなくとも素人のわたしでさえ思う。
 鉄剣の文字も、どうしても「ワカタケル?=雄略天皇??」とは読めないと、多くの漢語学者や国文学者が、文字の発見当初から指摘していたはずだ。しかも、本拠地があったとされる王宮名「斯鬼宮(しきのみや)」については、稲荷山古墳の北東20kmに「磯城宮(しきのみや)」そのものの同音地があり、さらに同古墳周辺の北武蔵勢力エリアに散在する「しき」(志木など)の“音”地名をいっさい無視して、稲荷山古墳から400km近くも離れた近畿のワカタケル?(雄略?)の嫁さんの実家(なぜ妻の実家が“宮”なのだ?)などと、まったくわけのわからない設定をして、マジメで学術的な学者たちから失笑をかっていたにもかかわらず、まったく懲りていない。
 南武蔵勢力や上・下毛野勢力と対峙していた、北武蔵勢力の「大王」かもしれない「獲加多支鹵(ヱカタシロ?)」(この漢字の解釈にさえ呉音・漢音など当初から諸説ある)に仕えた陪墳の被葬者の「主人」は、まちがいなく稲荷山古墳に眠る主墳の被葬者だろう。歴史は都合の悪いことを消して「なかったこと」「見なかったこと」にすることではなく、事実や科学的な成果を丹念に掘り起こして積み重ね、真摯に分析・調査・検討・記録しつづけることだ。人文・自然・社会を問わず諸科学的な成果が出るたびに後退し、限りなく崩壊を繰り返す「皇国史観」とは、いったいなんなのだろうか?


◆写真上:森ヶ崎古墳(仮)の後円部上部を、東西に横断する道路の現状。
◆写真中上:上は、幕末の「御府内場末往還其外沿革図書」にみる享保年間の森伊豆守上屋敷とその周辺。中は、1854年(嘉永7)に作成された尾張屋清七版の切絵図「目黒白金図」。下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる森ヶ崎古墳(仮)のフォルム。
◆写真中下:上は、上掲の空中写真に現状の撮影ポイントを記載したもの。下は、現状の森ヶ崎古墳(仮)跡。⑥が前方部と後円部のくびれの部分で、⑦が三味線のバチ型に反り返る道筋、⑧のトラックが停まっているあたりが前方部の先端あたり。
◆写真下:上は、1881年(明治14)作成の地形図にみる森ヶ崎一帯。中は、1887年(明治20)作成の地形図にみる同所。下は、森ヶ崎の土砂が西へ移動してしまったあとの1940年(昭和15)前後とみられる様で、地形の大改造が行われたのが瞭然としている。