今回は久七坂筋Click!に建っていたかもしれない、とても大正期が終わったばかりの昭和の最初期に造られたとは思えない住宅を、『朝日住宅図案集』Click!(東京朝日新聞社/1929年)の収録作品からご紹介したい。まるで、現代のモデルハウスのような意匠をしており、内部の間取りも今日とほとんど変わらず現代的だ。
 この邸は、下落合810番地に住む、設計者は鈴木周男の近隣に建てられているとみられる。冒頭の外観イラストに描かれたように、玄関が北側に接して設置されており、地番からいって久七坂筋から西へと入る路地の一画に建設されたものだろうか。この路地は、突き当たりがバッケClick!(崖地)で、諏訪谷Click!つづきの谷間(現・聖母坂Click!)へと急激に落ちこんでいる地形だ。1938年(昭和13)に作成された「火保図」で、下落合810番地の敷地を確認すると、この地番の住宅に相当する家に「伊藤」邸がある。1947年(昭和22)の空中写真で確認すると、屋根の形状や住宅のかたちも一致しそうだ。
 久七坂筋の両側は、大正末から宅地造成が進み、昭和に入ると次々にモダンな住宅が建設されている。ちょうど、道の両側で宅地造成が進む様子を、佐伯祐三Click!が「下落合風景」シリーズClick!の1作として、1926年(大正15)9月20日に『散歩道』Click!へと写しとっている。また、下落合810番地の同邸は、ちょうど遠藤新建築創作所が設計した小林邸Click!の、道路をはさんだ斜向い(路地の西側)にあった邸だ。このあたりは空襲にも焼け残り、戦後までずっと近代建築の住宅が建ち並んでいたエリアだが、わたしは学生時代から何度も久七坂筋を歩いているにもかかわらず、伊藤邸の記憶がまったくない。1933年(昭和8)に設計された小林邸と同様、意匠がモダンすぎて戦後に建てられた住宅だと勘ちがいし、印象に残らなかったものかとも考えたが、年代を追って空中写真を確認すると1960年代にはすでに解体されて存在しなかったようだ。
 敷地面積は52.25坪と、現代の一戸建て住宅とさほど変わらない。外観は今日のモデルハウスといっても通用しそうで、基礎はコンクリート打ち、土台は赤松、柱などの木材は米栂と米松、杉が多用されている。室内はすべてが洋間であり畳の日本間が存在せず、床は松やエゾ松の板材が使われている。平面図を見ると、室名の横に部屋の広さを具体的に表す「〇畳」と小さく添えられているのが、当時の図面らしい。
 外壁は、メタルラス張りと漆喰モルタル塗りで、軒先や軒裏、窓枠などはカラーペンキが塗られているが、外壁ともにカラーリングは不明だ。関東大震災Click!を強く意識した、「防災・防犯住宅」として設計された同邸の屋根は、栗色の石綿スレートで葺かれている。では、伊藤邸とみられる住宅の特長を『朝日住宅図案集』から引用してみよう。


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 【耐震的特長】平面を大体に於て矩形となし土台、梁、桁等の配置を簡単にせしこと、柱を可成均等に配置したること/総て大皷壁となしたる故、壁内に大なる断面の貫、筋違等を使用し得ること、外部に腰長押(三寸、一寸五分)を通したこと、屋根を石綿スレート葺とせること/【防火的特長】外壁を漆喰モルタル仕上としたる事、軒裏をトタン張りペンキ塗とせしこと、隣家との距離を成可く大にせしこと、台所、浴室の天井及壁は漆喰塗とし、扉は木骨にトタン張とせしこと、小児室床下に耐火安全庫を設けたる事(中略) 【小児室】を南東角に配置し、別に学齢児童の勉強室を二階に設けたること/【台所】南側に置き洗濯場を隣接せしめ、物置をも含めたること/【客室】は洋風とし、来客には折畳式寝台を使用すること/その他階段を緩にし、猶上下共一坪以上の広間を取る等、無駄を減じ余裕を増し、各室の連絡をよくし、相当の秘密を保ち、家族本位の住宅とせり
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 屋根瓦の重さから、倒壊する家屋が多かった関東大震災の教訓が活かされ、屋根の重量をできるだけ軽くするスレート葺きが採用されている。また、壁面には今日の建築ではあたりまえになった、「貫」や「筋違」が施されている。
 防火の備えで面白いのは、当時は廉価なアルミニウムが存在しないため、火元となりやすい台所や浴室(当時は薪や石炭で風呂を沸かしていた)の扉を、焼けにくいトタン張りにしていることだ。トタン材は、関東大震災ののち急速に普及し屋根や屋根裏、扉などに多用されはじめている。また、子ども部屋の床下に「耐火安全庫」が設置されているが、このスペースも四囲がトタン材で囲まれていたのだろう。
 今日の住宅事情では難しくなっているが、隣家との距離を十分に保って延焼を防ぐ配慮もなされている。市街地とは異なり、郊外では敷地が広めに確保できたため、周囲の家々からできるだけ離して住宅を建てることが可能だった。だから、火災が起きても周辺を巻きこんで延焼することが少なく、被害を極小化することができたのだ。


 また、同邸は「防盗」の面にも力を入れているが、つづけて引用してみよう。
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 【防盗】南側に二間雨戸を設け、便所、浴室、台所の窓にはボルトを鉄板を以て連絡して取付けたること、外開き窓戸締に新工夫を施したること/▼各扉共上下二箇所にて締をなす/下部締り/在来の外開戸用鉄物を用ひ、周囲の枠組を細密になし、硝子を破つても容易に締りを外し得ざる様になすこと/上部締り/各窓框に取付けたる鈎及窓の両側の柱間に水平に取り付けたる真鍮管によつて各扉を堅く連絡し、三箇所以上にて真鍮管を固定せば決して一箇所のみ外すことを得ざる様になすこと
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 以前にご紹介した和田邸とは異なり、同邸ではガラスを割っても侵入できない、金網入りの窓ガラスは採用されていない。その代わり鍵の施錠を工夫したり、窓の下部に真鍮管を取りつけるなど、窓枠に細かな工作がされている。
 ちょうど『朝日住宅図案集』が出版されたころ、すなわち昭和の最初期には妻木松吉こと「説教強盗」Click!が、東京各地を荒らしまわっている真っ最中であり、実際に下落合の邸も何棟かが被害に遭っている。それらの事件の犯行手口から、台所や便所などの小窓も含め、侵入口となりやすい窓にはさまざまな工夫が施された。当時の住宅は、関東大震災の教訓による「耐震・耐火」に加え、強盗や泥棒Click!の侵入を撃退する「防犯」が最優先の課題だったのだろう。



 伊藤邸(現・パラドール下落合のあたり)の北隣りには、同じく下落合810番地の高良武久Click!・高良トミClick!夫妻の自宅があった。妙正寺川に沿った下落合(3丁目)680番地の高良興生院Click!内の自宅とは別に、久七坂筋にも夫妻は自邸を建設していた。高良邸は最近まで、ていねいにリフォームを重ねて使われていたようだが、つい先日解体された。

◆写真上:『朝日住宅図案集』に収録された、伊藤邸とみられる住宅外観イメージ図。
◆写真中上:上は、同邸の平面図(北が下)で畳の和室はすでになく板張りの洋室となっている。下は、台所のパースと防犯を強く意識した窓の仕様。
◆写真中下:上は、まるで現代住宅のようなデザインをした同邸の側面図。下は、耐震・耐火・防犯を強く意識した同邸の断面図。
◆写真下:上は、1938年(昭和13)の火保図にみる同邸だが実際より大きめに描かれているようだ。中は、戦後の1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同邸。下は、伊藤邸の北側に建っていた元・高良邸だが解体済み。(GoogleEarthより)