『詩戦行』を通じて、劇作家であり小説家でもある飯田豊二とかかわりができた秋山清Click!は、1930年(昭和5)の秋ごろから演劇の世界へと踏みこんでいる。飯田豊二が、アプトン・シンクレア原作の『ボストン』を築地小劇場で上演していたころだ。このころの秋山清は、東京朝日新聞社のエレベーターボーイを突然クビになり、飯田豊二の紹介で出版社に勤め出していた。
 『ボストン』を上演した解放劇場で、秋山は演劇業務の雑事全般を処理する庶務係のような仕事をしていた。演劇にはまったく興味のなかった彼が、それでも解放劇場に加わったのは少しでも仕事を増やして、生活を安定させるためだったのだろう。1930年(昭和5)の暮れには蓄えも尽き、母親とふたり暮らしの彼はほとんど進退がきわまった。そのとき、仕事をくれたのが飯田豊二だったのだ。
 解放劇場の『ボストン』は、1931年(昭和6)2月に上演されたが、秋山は飯田への義理立てからか、劇場の仕事や雑事を積極的に手伝っている。このとき、彼は渡米する直前だった晩年の竹久夢二Click!と知り合って交流し、のちに著すことになる評論「夢二」シリーズの素地を形成している。秋山清と竹久夢二では、どこか住む世界がまったくちがうように感じるのだが、彼は明治末の大逆事件を出発点とし漂泊する抒情画家のどこかに、アナーキズムの匂いを嗅ぎとったものだろうか。
 築地小劇場での『ボストン』の成功をうけ、解放劇場は革命後ソ連のクロンシュタットで起きた水兵たちの“反乱”をテーマに、次の上演企画を立てはじめた。解放劇場は、牛込区の区役所前にあった元・寄席の建物を借りて活動している。新たな演目の「クロンスタット」は、飯田豊二によって脚本の前半部がすでにできており、本読み稽古がスタートしていた。ところが、かんじんの飯田が次作の稽古と上演準備中に、突然、解放劇場を辞めてしまった。この飯田の辞任について、秋山は「身を引いた」としか書いていないが、おそらく表現路線をめぐる劇団の内部対立ではなかっただろうか。庶務係としての秋山には、どうしようもない経緯だったのだろう。
 支柱を失った解放劇場は動揺したが、次の柱になるのは必然的に劇団の経営、会計、庶務などをこなしていた秋山になりそうだった。演劇に興味はなく、脚本など書いたこともない彼が、周囲から頼りにされるようになっていた。いや、おそらく周囲から盛んにヨイショされたので、秋山自身も徐々にやる気になったのだろう。彼は、飯田豊二が途中で放棄した脚本「クロンスタット」の後半を、A.ベルクマン『クロンスタットの叛逆』などを参照しながら四苦八苦して書きあげ、タイトルを『クロンスタットの敗北』とつけた。


 ロシア革命下におけるクロンシュタットの“反乱”は、政治の独裁や市民への統制、表現規制を強めるボルシェビキに対し、“民主化”などを求めて20,000人近い水兵たちが蜂起した事件だが、劇団内から「敗北」と名づけることに異論が出たようだ。だが、秋山は敗北を認めるリアリズムこそ、現状における重要な課題なのだといって譲らず、劇団員たちは秋山にも辞められては困ると考えたのか、最終的に上演タイトルは『クロンスタットの敗北』と決定した。
 前回上演の『ボストン』でも、特高Click!の検閲係に脚本をさんざん削除され、次々に台詞の変更を要求された経緯を見ているので、秋山清は脚本『クロンスタットの敗北』を早めに牛込神楽坂警察署の特高課へ提出したようだ。彼は、ほとんど削除や変更要求なしに同脚本が検閲を通り、上演許可の通達がすぐに下りると思っていた。ところが、待てど暮らせど上演許可が下りない。予定の舞台は、1931年(昭和6)6月の予定であり、4月になっても特高の検閲係からはなんの連絡もなかった。
 ようやく特高から呼び出しがあり、牛込神楽坂警察署に大急ぎで駆けつけると、秋山にとっては意外なことに「上演禁止」がいいわたされた。彼の前に投げだされた脚本の表紙には、大きな「禁止」の赤いスタンプが押されている。禁止の理由を聞いて、秋山は愕然とした。ソビエト革命政府に反抗し蜂起した、クロンシュタットの兵士たち自体がケシカランといわれたのだ。以下、1986年(昭和61)に筑摩書房から出版された、秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』より引用してみよう。
 

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 そして係りはいく分にやにやした調子で私に質問してきた。
 「上演できると思ったのか」
 「日本政府の嫌いな革命ロシアの政府に反抗するのだから、文句はあるまいと思ったんだ」というと、彼はゆっくりと首を振りながらいった。
 「そうではないんだ。赤い政府であろうと、そうでない政府であろうと、国家や政府に反抗することは許せるものではない。だからこの脚本は、科白などを消したり、書きかえたくらいで、どうなるというものではないんだ」
 私は脳天を木槌で真向から叩きつけられたような気分がして、居たたまれぬほどに恥ずかしかった。まことに検閲の言う通りだ。国家となればAもBも同じものだ。国民民衆を支配することにおいては、その権力は一つのものだ。ロシアもアメリカも中国も日本も、イギリスも、それぞれに国体は異なって見えても、国家対民衆の関係は変るものではないということを、この時私ははっきりと腑に落ちた。
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 戦前・戦中の特高警察というと、社会主義や共産主義、サンディカリズム、無政府主義、あるいは北一輝Click!や陸軍皇道派Click!の原理主義的社会主義、そして太平洋戦争が近づくころには民主主義や自由主義、国家神道(戦後用語)以外の教義、皇国史観Click!以外の史学などの思想や表現、学問、宗教を取り締まったのだと記述されることが多い。
 確かに、多くの特高はそのような意識(対峙的な思想・信条)を持って職務を遂行していたのだろう。だが、牛込神楽坂警察署の特高検閲係のように、提示された思想自体が問題なのではなく、国家や政府に反抗・叛逆するという行為自体や表現が、すべて問題なのだとする人間もいたということだ。
 「そんなこと、官僚や警察官ならあたりまえじゃないか」と思う方がいるとすれば、その「あたりまえ」意識こそが課題なのだと思う。このような人間は、幕末の明治維新下で江戸幕府内にいても、革命ロシア政権の治安機関にいても、フランス革命の王党派内にいても、またナチス政権下の警察機構に勤務していても、まったく同様の仕事を平然と遂行し、機械的で没主体的(=無思想的)な“弾圧ロボット”と化すだろうからだ。


 日本では、当の特高警察を抱えた内務省警視庁が、1945年(昭和20)の敗戦直前に大日本帝国を支える警察から、占領軍(G2-CICClick!)へ仕える米軍の「警察」へと脱皮するために、臆面もなく180度の“転進”をしている。以下、同年に発行された『警視庁事務年鑑』から引用してみよう。
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 急迫せる事態に対処するため、政府においては、警察力の拡充強化を決定、わが警視庁も、首都の特殊性から、本庁に警備本部を設置し、防空課、情報課及び特高各課を廃止し、組織の整備を行なうとともに、連合軍の都内進駐に伴い新たに渉外課を設け、各署に通訳及び通弁巡査を配置する等、戦時態勢から平時態勢への機構改革を断行、万全の態勢を整えた。
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 これが、つい昨日まで「鬼畜米英」「アメリカ人をぶち殺せ!」Click!と叫んでいた組織(人間)が書く文章だろうか? まるで敗戦など他人事で、ただ時代に合わせて「平時態勢」(!)の組織改革をしただけ……とでもいいたげな表現だ。そこでは、特高警察などまるで「なかったこと」「不要だった部局」であるかのように廃止され、いつの間にか米軍への“営業部”までこしらえ上げている。特高警察によって虐殺された、1,000名を超える人々への責任は、いったいどこへいってしまったのだろうか?
 事実、秋山清が書く「革命ロシアの政府」はその後、スターリニズム下でこのような「思考しない」官僚テクノクラート・治安機関の人間を大量かつ組織的に排出したことで、約70年間にわたり苦しめられることになった。そして、いまも同様の苦しみに喘いでいる国々がある。ある思想を備えた人間同士なら、事実にもとづく議論や検討を通じて合意点を探ったり説得することは可能だが、相手が非人間的な、没主体的な弾圧・管理“マシン”であれば、そのような行為は絶望的でまったく無意味だからだ。

◆写真上:下落合4丁目1379番地の、第一文化村Click!内にあった秋山清邸跡。
◆写真中上:上は、1930年(昭和5)に撮影された牛込区箪笥町15~17番地にあった牛込区役所。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込区役所界隈。
◆写真中下:上左は、1986年(昭和61)出版の秋山清『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』(筑摩書房)。上右は、本記事と同じころ20代の秋山清。下は、1921年(大正10)に撮影された反政府集会を開くクロンシュタットの水兵たち。
◆写真下:上は、牛込橋(牛込見附跡)西詰めの神楽河岸にあった牛込神楽坂警察署。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる牛込神楽坂警察署界隈。