わたしはどちらかといえば、気に入った地域には長く住みつづけるほうだろうか。下落合を初めて訪れたのは1974年(昭和49)の春だから、かれこれ落合地域とは43年のかかわりになる。学生のとき南長崎に借りていたアパート時代を含めると、落合地域とはかれこれ38年のつきあいだ。故郷の旧・日本橋区内に住みたくても、買い物や交通などは便利だし、食べたい料理や欲しいモノはすぐ手に入るだろうが、1964年(昭和39)の東京オリンピック以来、高速道路がうるさくて緑や公園が少なく、小林信彦Click!のいう“町殺し”Click!のせいか殺伐としていて、防災面でも不安だらけなのでイヤだ。
 下落合4丁目2108番地(のち2107番地/現・中井2丁目)に住んだ小説家の船山馨Click!は、わたしとは逆の感覚を持っていたらしい。下落合へやってくるまでは、同じところへ3年とつづけて住んでいたことがなかった。住むところを変えると、自分の人生や気持ちまでがリセットされたように思え、新鮮な感覚で生活のリスタートが切れたようだ。この感覚、大江戸Click!の街に生まれて88歳で死去するまで、93回も引っ越しを繰り返した中島鉄蔵(葛飾北斎Click!)にも通じるものだろうか。
 1965年(昭和40)6月9日発行の「落合新聞」Click!に寄稿した、船山馨のエッセイ『移りかわり』から引用してみよう。
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 目白学園の近くに住むようになってから、はやいもので、もう二十年になる。/もっとも、このあたりの住人には土地ッ子が多いから、二十年くらいでは長いうちに入らないが、私としては、ひとつところにこんなに腰を落ちつけてしまったのは、生れて初めてである。それまでの私は転々と居を変えて、一ケ所に三年と住んだ記憶がない。借家住いのせいもあったろうが、一種の放浪癖もあった。/住む家や土地が変ると、当分のあいだにもせよ、生活感情にいくらか水々しさ(ママ)が甦る。身のまわりにできかけた殻が破れて、新鮮な光と空気が身うちをひたすような移転の実感は、なかなか捨てがたいものである。(中略) むかし変化を求めて動きまわっていた私が、いまは下落合の片隅に定着し、時間がその私のまわりに、あるかなきかの移り変りを運んできては、流れ去ってゆくようになった。
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 その後、彼は1981年(昭和56)に死去するまで36年間も下落合に住みつづけている。
 船山馨は、目白学園も近い下落合の西部に住んでいたが、毎日の散歩は自宅を出ると「上の道」Click!(坂上通り)を左に折れて西へと歩いている。船山邸のすぐ南側、同じく下落合4丁目2108番地に1935年(昭和10)まで住んでいた吉屋信子Click!は、飼いイヌを連れて上の道に出ると東へ右折し、目白文化村Click!方面を散歩Click!することが多かったが、船山馨は逆に西側の上高田方面へと抜ける散歩が好きだったようだ。



 四ノ坂と五ノ坂にはさまれた、南へと入る路地から上の道を左折して100mほど歩くと、道の左手には数多くのバラが咲く「植物園」があっただろう。4月から5月にかけ、船山馨も足をとめて多種多様なバラの花に見入ったかもしれない。ここでバラを栽培し、「植物園」のプレートを掲げていたのは、下落合4丁目2123番地に住んでいた船山と同業の中井英夫Click!だ。この船山のエッセイが書かれたころ、中井英夫は下落合も舞台に登場する『虚無への供物』Click!を書き終えたばかりのころだった。引きつづき、「移りかわり」から引用してみよう。
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 私の散歩コースで言うと、目白学園の正門前は、もとは空き地であった。そこに縄文期の遺跡が発掘されて、しばらくすると、そこに古代の住居が復原された。私は散歩の往き還りにそこに佇み、古代の人々のいとなみや、その人生について空想するのが愉しみであったが、保存の施設が不備なため、間もなく子供や心ない人たちの悪戯で荒されはじめいつとはなしに跡形もなくなってしまった。いまはなんの変哲もない住宅の群れがその上を覆ってしまっている。今でも通るたびごとに惜しいことだと思わずにはいられない。
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 目白学園の現在とは異なる旧・正門の前、つまり現在はキャンパス南側の接道沿いの空き地に復元された縄文期の竪穴式住居レプリカは、当然わたしは見たことがないけれど、のちにキャンパス内へ復元された同住居は何度か訪れたことがある。ただし、21世紀の今日的な史観(視点)からすると、おそらく復元された縄文期の竪穴式住居は、かなり“原始的”でお粗末すぎる姿だろう。
 竪穴式住居のような建屋が、突然近くの空き地か原っぱにできたら、もちろん近所の子どもたちが放っておくわけがない。さっそく「秘密基地」にされ、屋根の上にのぼって周囲を睥睨する見張り所にされたり、さまざまなモノが運びこまれて雨が降っても遊べる「集会場」にされたことだろう。船山は「跡形もなくなってしまった」と書いているが、おそらく目白学園のキャンパス内に移築されて保存され、やがて傷みがひどくなると2代目の竪穴式住居が造られたとみられる。わたしが同学園キャンパスで見たのは、初期のものとは形状がちがうので2代目の復元住居だろう。



 春になると、船山馨は目白学園キャンパスのあちこちに咲く、サクラ並木を眺めるのが好きだったようだ。昔ほどではないにせよ、いまでもキャンパスの外周域にはサクラが多い。船山は、いまだ茅葺きだった中井御霊社Click!を左手に見て、キャンパス南側の接道を西へ歩くとバッケ坂Click!を下っている。そして、妙正寺川に架かる御霊橋からバッケが原Click!へわたると、そこに設置されていた消防庁のグラウンドで草野球を見物している。
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 目白学園の正門の桜は、春ごとに私の愉しみのひとつである。幾株もないのだが、毎年アーチ型に空を覆って、見事な花をつける。高台だから、坂の下に遥かな街並が煙って見え、それが枝もたわるばかりの花の姿と調和して、心が静かにひらけてゆく思いがする。近年はつぎつぎに校舎が増築されて、そのせいかだいぶ幹が切り落されたようだが、まだ風致が損なわれるほどではない。正門を拡げるような場合にも、あの桜樹だけは、いまのままに遺しておいてほしいものだと思う。/樹下をくぐって、学園の塀に沿って坂を降りると、消防庁の野球のグランドだが、ここがばっけケ原という原っぱだったころは、夕方などよく犬を運動に連れていった。その犬は雑種であったが、十三年いて死んだ。いまは、時どき草野球を見物する。
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 船山馨が歩いた時代は消防庁のグラウンドだったが、現在は中野区の上高田運動場となっている。そこでしばらく草野球の試合を見学したあと、再びバッケ坂を上って上の道を通り自宅へと帰るのが、日々の散歩の習慣だったのだろう。


 船山馨が道すがら眺めたかもしれない中井英夫のバラ園だが、龍膽寺雄Click!がのめりこんだのはサボテンだった。銀座や新宿で求めたサボテンを、彼はせっせと自宅に運んではかわいがっている。その栽培の面白さを教えたのは、目白中学校Click!で経理係をしていた篠崎雄斎だった。当時の目白中学校Click!は、下落合437番地から上練馬村2305番地(現・高松1丁目)に移転Click!していた時代だ。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:下落合の丘上から、上高田のバッケが原へと下る急傾斜のバッケ坂。
◆写真中上:上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会)にみる船山馨邸と中井英夫邸。中は、目白学園のサクラ並木。下は、旧・正門前にあった住居跡から目白キャンバス内へ移築されたとみられる復元された竪穴式住居。
◆写真中下:上は、発掘調査中の落合遺跡と目白学園の位置関係で中井御霊社がある上が南。中・下は、船山馨が自宅を出てからバッケが原へと向かう散歩コース。
◆写真下:上は、いまだ茅葺きだった中井御霊社の拝殿。下は、船山馨のエッセイ『移りかわり』が掲載された「落合新聞」1965年(昭和40)6月9日号。