わたしはまったく知らなかったのだが、1950年代の後半に若い女の子の間で「7色パンティ」、あるいは「ウィークリーパンティ」というのが大流行したらしい。高校生から20代の女性まで、競い合うように「7色パンティ」を買い求め、1週間を毎日ちがうカラーの下着をはいて楽しんでいたようだ。
 現代では信じられない感覚だけれど、女子高校生などは親たちから叱られたり、周囲から不良に見られるのを怖れたり、また自分で買いにいくのがとても恥ずかしいため、年上の知り合いや気のおけない親戚に頼んで、代わりに買ってもらうことも多かったらしい。わたしにはまったく理解できない“趣味”だけれど、それほどまでして手に入れたくなるほど、毎日ちがうカラーの下着を身につけられる当時の「7色パンティ」は、彼女たちにとって魅力的だったようだ。
 下落合1丁目527番地に住んだ作家の中野武志Click!は、故郷の信州松本にいる高校を卒業したばかりの親戚の娘から、銀座で売っている「7色パンティ」を購入して送ってくれという手紙をもらった。中村武志の妻、すなわち「おばさまにお願いしますと、叱られると思いますので、このことはぜひおじさまにお願いしたいのです」……というような内容だった。当時の価格で1枚が500円、7色そろったセットになると3,500円もしたらしい。手紙には、郵便為替までが入っていた。
 当時の500円というと、ラーメン1杯が40~50円の時代なので、いまの感覚でいうなら1枚が4,000~5,000円もしたことになる。だから、「7色パンティ」のセットは実に3~4万円前後もする、下着にしてはとても高価な買い物だった。中村武志は、せっかく自分のことを信じて頼ってきた18歳の娘のために、「女房には内証で送ってやろう」とさっそく銀座の女性下着専門店へ買いに出かけた。そのときの様子を、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』から引用してみよう。
  
 国鉄本社を退けると銀座へまわり、体裁は悪かったが、思いきって女性下着専門店の「ギタシ」へ寄って、七色パンティを買い求めた。/帰宅すると、女房の目につかぬように、パンティの箱を机の下に押しこんでおいた。国鉄で荷造りをして送るつもりであったが、迂闊なことに、翌朝は、かんじんの箱を忘れて出勤してしまった。/私は、なんとなく、一日落ちつかなかった。部屋の掃除の際に、パンティの箱が、女房の目にとまらないことを切に希い続けていた。/五時になるのを待ちかねて、私は急いで帰宅した。/「お帰りなさいませ」/と女房がいった。別に変わった様子はなかった。私はほっと安堵の吐息を洩らした。
  
 
 だが、ふすまを開けて書斎に入ると部屋の中にヒモがわたされ、「7色パンティ」が洗濯バサミで吊るされてヒラヒラしていたのだ。7色のそれには、それぞれ花と曜日が刺繍で縫いこまれていたというから、かなり華やかな眺めだったろう。曜日とカラーと刺繍は、およそ次のようだったらしい。

 さっそく、連れ合いから「これはいったいどなたに差しあげるんですの」と詰問されるが、故郷の松本にいる親戚の女の子の名前を白状できない筆者は、「ある人に頼まれて買って来た」としか答えることができない。もちろん、そのまますんなり信用されるはずもなく、「品物が品物ですからね。そう簡単にあなたのいうことは信用できませんわ」といわれてケンカになった。
 しまいには、家にいることが不愉快になった中村武志は、家を出て「最近できた恋人」のところで外泊するぞと、なかば脅しのつもりで宣言するが、あわてて止められるかと思ったのに「どうぞお出かけになって下さい。ご遠慮なく……」といわれ、あとへは引けなくなってしまった。しかも、連れ合いから「お出かけなら、これをお持ちになるんでしょう」と、「7色パンティ」まで持って出るハメになる。彼は花がらの刺繍が表にでるよう、1枚1枚ゆっくりていねいにたたんで箱にもどすが、いくところがないので途方に暮れていた。結局、中村夫人は止めてはくれず、彼は目白通りへと押しだされた。


 同書の「思い出のパンティ事件」から、再び引用してみよう。
  
 大通りへ出てから私は、まだ夕食を食べていないことに気がついた。国電目白駅へ出る途中の、小さな中華料理店に寄って、ゆっくりとラーメンを食べた。それから、目白駅のホームへ出て、ベンチに腰をおろし、一服しながら、さて今夜どこへ泊まるべきか、と思案した。/二本目の煙草を吸っているうちに私は、目白駅と新宿駅の間で、電車の窓から、『一泊百円・白いシーツときれいなお風呂』というネオンサイン(ママ)の看板を始終目にしていることを思いだした。今夜はそこで一泊しようと決心して、折からはいって来た電車に乗ると、窓に顔を押しあてて、ネオン・サインに注意しだした。/電車が新大久保駅に到着すると、ホームの向こう側に、そのネオン・サインが赤々と輝いていた。
  
 下落合1丁目527番地の中村邸近くにある、目白通りに面した「小さな中華料理店」は、彼がいつもいきつけの「丸長」だったのだろう。新大久保の「ハザマ旅館」は、とうにつぶれてしまったのか現在では見あたらない。
 おそらく、昔の“連れこみ旅館”(死語)だったらしい「ハザマ旅館」では、紹介者がないとお泊めできないと一度は断られるが、国鉄職員の乗車証を見せると信用されて部屋へ案内された。わずか2畳の、いかにも“アベック”(死語)用の狭い部屋で、中村武志は「7色パンティ」を抱きながら一夜を明かした。
 『目白三平随筆集』は、読者の笑いを誘うためか排泄物やトイレ、セックスなどあまりにも下ネタが多すぎて、わたしの感覚ではちょっとついていけない。「美人」を多用するのも、この世代の特徴的な文章なのだが、この随筆が「面白い」と感じられる時代だったものだろうか。残念ながら、わたしには古くさい感覚であまり笑えなかった。ちなみに、いまでは「パンティ」といういい方もあまり聞かないが、「パンツ」「ショーツ」のほうが通りがいいだろうか。そういえば、この時代には「スキャンティー」(死語)などという下着名もあったっけ。


 同書には、下落合や目白界隈に住んでいた作家や学者を中心に結成された、「目白会」の様子についても書かれている。中村武志をはじめ、十返肇Click!舟橋聖一Click!、高橋義孝、中曽根康弘、池島信平、原文兵衛、田中角栄Click!……などなどがメンバーで、定期的に下落合1丁目435番地の舟橋邸Click!などで会合を開いていたらしい。おそらく、わたしはここでは取りあげないと思うので、興味のある方は同書を参照されたい。

◆写真上:中村武志の「7色パンティ」とはちがう、現代のカラフルショーツ。
◆写真中上は、タバコ好きだったらしい中村武志のプロフィール。は、1989年(昭和64)に論創社から出版された中村武志『目白三平随筆』。
◆写真中下は、目白駅ホームから眺めた目白橋の橋脚。左手にある階段は、近日中に解体されエレベーターになるらしい。は、1964年(昭和39)の目白駅ホーム。
◆写真下は、1970年代に撮影された夜の目白駅前の様子。は、新大久保駅ホームから西を向いて眺めた大久保通りの現状。