大正末から昭和初期にかけ、東京各地に出現した食料品や日用雑貨を扱う「東京市営市場」あるいは「東京府営市場」が、もともとは1918年(大正7)に起きた「米騒動」に起因していることは、あまり知られていない。当時の行政(寺内正毅内閣)は、日に日に高騰する米価に対しなんら有効な政策を打ち出せず、政府が高い米を買い上げて各地で臨時に大安売りするという、付け焼刃Click!のような散発的な施策に明け暮れていた。
 寺内内閣が行っていた刹那的な米の安売り販売は、東京市内ばかりでなく東京府の郡部でも行われ、数多くの住民たちが米を求めて殺到している。廉売所を警備するため、警官隊ばかりでなく消防士までが動員された。だが、詰めかけた住民全員に米がいきわたるはずもなく、また一般の住民たちより先に政府関係者や警察官が、「試食用」と称して大量に米を買い占めているのが発覚し、現場は不穏な空気に包まれたようだ。
 落合村の東隣りにある高田村でも、1918年(大正7)3月3日に政府による米の廉価販売が行われている。臨時の販売所が設置されたのは、高田村砂利場にある「怪談乳房榎」Click!で有名な南蔵院Click!の境内だった。当日の状況を、ほとんどリアルタイムで記録し1919年(大正8)に出版された、『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)所収の「都新聞」記事から引用してみよう。
  
 高田倉庫会社の第二回白米安売は三日高田村砂利場の南蔵院で行はれた、前回の雑踏に鑑みて買手は朝八時頃から続々詰めかけて待つて居るので開始時間を繰上げ正午から売出した、山門には厳重な矢来を設け六名の巡査と消防夫が扉を固め時期を見計つて百人位づゝ場内に入れたが其時場外の競争は非常なもので初めは前回に来て買へなかつた優先券を持つた人々だけを入場させて売つた、柳下村長吉野助役は三名の書記を連れて出張し万事の世話をしたが前回は一人に二斗と限つたが今回は広く一般に霑ふ様に四升以上八升一斗の量り売りもした、首相官邸の使者秋元仙之助といふ人は試食用として四俵又小石川署の巡査や巡査部長八十名は一斗づゝ買つた、斯して午後四時迄に五百俵の在庫米を悉く売り尽してそれでも猶不足を告げたので夕刻更に高田四家町足達商店の商品数十俵を追加した、次は三月十日高田村在住者に限り第三回を行ひ千人乃至千五百人に限り販売するさうである。
  
 高田倉庫株式会社Click!は、目白駅(地上駅)Click!前にあった鉄道倉庫で、当時は1916年(大正5)に設立されたばかりの会社だった。同社の相談役には、元・高田村村長で高田農商銀行頭取だった新倉徳三郎Click!が就任している。このあと、1918年(大正7)7月に富山県に端を発した、米穀店や米を積んだ船舶・列車などを襲撃する「米騒動」は、またたく間に全国各地へと飛び火していくことになる。



 同年8月には、東京各地でも米価の高騰に抗議する群衆やデモ隊と警官隊との衝突が相次ぎ、街中は一気に騒然とした空気に包まれていった。上掲の『高田村誌』でも指摘されているとおり、政府が買い上げ一般市民向けに用意した安売り米を、廉売所の周辺に住む当の政府関係者や公務員、警察官たちが優先的に入手・着服するという不正が発覚するにおよび、ついに無能な政府に対する東京市民と郡部の府民たちの怒りが爆発した……と書くほうが正確だろう。寺内内閣は翌9月、「米騒動」の責任をとって総辞職することになる。わずか2年ともたない、短命な内閣だった。
 政府の無策ぶりを見かねた東京商業会議所では、華族や財閥、富豪などから急きょ寄付を募って、約300万円ほど集まった資金をベースに、東京市内および東京府の郡部で組織だった米の流通ネットワークを新たに構築し、東京市や東京府と連携して常設の廉価販売所(市場)を開設している。やがて、米価が下がり「米騒動」が一段落すると、同会議所の手もとには60万円ほどの資金が残った。この資金をもとに、東京市と東京府は米穀をはじめとする食料品、あるいは日用雑貨品を安く販売する「市場」を、東京各地に設ける構想を立案している。
 60万円のうち、40万円を東京市が20万円を東京府が活用し、東京各地で「市場」の建設に着手していった。「米騒動」の翌年1919年(大正8)には、早くも市と府を合わせて67ヶ所の市場が開設されている。そして、大正期が終わった1928年(昭和3)現在では、東京市内に12ヶ所の大規模な市場が、郡部には34ヶ所の市場が常設されていた。郡部(東京府)における市場開設の様子を、1929年(昭和4)に中央公論社から出版された今和次郎Click!『大東京案内』より引用してみよう。



  
 一方府の方では、二十万円の指定寄附を基礎に、東京府日用品市場組合を組織して、市場を経営した。大正七年十一月には既に仕事を始め、翌年八月には市郡を通じて六十七ヶ所となつたが、内務省からなほその増設を条件として百万円の低利資金を借り、財団法人組織にあらためた。/現在府の市場のある場所は、(中略) 等三十四ヶ所である。/店舗約五百。昭和三年度(昭和三年七月から四年六月まで)の三十四市場の総売上高は、九百三十七万六千余円となつてゐる。
  
 1928年(昭和3)の時点で、落合地域の周辺には高田町1709番地(のち目白町2丁目1709番地)の目白駅前にあたる「目白市場」Click!、戸塚町上戸塚18番地(のち戸塚3丁目18番地)の高田馬場駅前にあたる「戸塚市場」などが開設されている。
 同じころ、銭湯「草津温泉」Click!近くの下落合1886番地には「下落合市場」Click!が、村山知義アトリエClick!西側の旧・月見岡八幡社Click!近く上落合196番地には「上落合市場」がオープンしている。また、目白通りをはさんだ北側、長崎南町2丁目4105番地(のち椎名町6丁目4105番地)には「長崎市場」Click!が開設された。落合地域の市場が、どのような意匠をしていたのか記録がないので不明だが、公営の「目白市場」および「長崎市場」は中世のヨーロッパ建築のような、まるで往年の「名曲喫茶」のような古城を思わせるデザインをしていた。
 落合地域では、「下落合市場」が1926年(大正15)に、「上落合市場」が1928年(昭和3)に開設されているが、町域が広いせいか1929年(昭和4)には尾崎翠Click!宅のすぐ北側にあたる妙正寺川沿いの上落合721番地に「上落合中井市場」(おそらく妙正寺川の直線化工事を控える空き地に設立された臨時市場だろう)が、1930年(昭和5)には光徳寺の北東側にあたる上落合428番地に「親和市場」が設置されている。
 また、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)には記録されていないが、1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」には、目白文化村Click!箱根土地本社ビルClick!向かいにあった交番Click!の裏、下落合1389番地にも「市場」が採取されている。これらの市場が、すべて公営だったとは到底思えないが、少なくとも「上落合市場」と「下落合市場」は東京府日用品市場組合の経営だったと思われる。



 上落合には3市場、下落合には中西部に1市場(+1市場)と、山手線寄りの下落合東部には市場が存在していないが、これは1923年(大正12)設立の目白駅前にある「目白市場」を利用できたのと、昭和に入って高田町金久保沢1113番地の谷間、すなわち目白駅西側の八兵衛稲荷Click!(豊坂稲荷)のある豊坂下に、新たな市場が開設されていたからだろう。この“金久保沢市場”は公営の「目白市場」に近いため、おそらく公設ではなく高田倉庫あたりが経営する私設市場だった可能性が高そうだ。

◆写真上小川薫様Click!が保存されている上原としアルバムClick!に収録の、1935年(昭和10)前後に目白駅近くで撮影された記念写真の1葉。東環乗合自動車Click!に勤めるドライバーの背後に写っている小ジャレた建物が、目白市場の西側側面だと思われる。よく観察すると、屋根の意匠などが長崎市場とそっくりなのがわかる。
◆写真中上は、1936年(昭和11)の空中写真にみる目白市場と冒頭写真の撮影ポイント。は、同年に撮影された別角度の写真。は、目白市場跡の現状。
◆写真中下は、1948年(昭和23)撮影の目白市場焼け跡。は、1929年(昭和4)の「戸塚町全図」にみる戸塚市場。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚市場。
◆写真下は、上原アルバムに収録された長崎市場。人物は、長崎の町内運動場Click!で開かれた壮行会の出征兵士。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる洛西館Click!の隣りの長崎市場。は、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる下落合市場。

戦後にも、「目白市場」の焼け跡には同様に「目白市場」という名のマーケットができるが、戦前の東京府による「目白市場」とは同じ名称ながら別ものだ。