山元恵一は、下落合4丁目2080番地の名渡山愛順アトリエClick!に住んでいるとき、すぐ南側にアトリエをかまえていた金山平三Click!から「ガンジー」のあだ名をもらっている。そのせいか、中井駅前の喫茶店「ワゴン」Click!のママ・萩原稲子Click!からも「ガンジー」と呼ばれていたらしい。
 そう証言しているのは、今年(2017年)3~4月に沖縄県立博物館・美術館で開催された「山元恵一 まなざしのシュルレアリスム」展図録に収録された、仲嶺康輝Click!『学生時代の山元恵一君』の中でだ。その部分を、同図録から引用してみよう。
  
 山元君は「マドロスの歌」が大変すきで下落合のアトリエでもよく歌っていた。中井駅の近く、川のそばに「ワゴン」という小さな音楽喫茶の店があった。ここの経営をしているマダムは詩人萩原朔太郎氏と別れた女で話もなかなかすきな人だったので時にはこの喫茶店に行った。南風原朝光さんの家から近かった。当時熊岡美彦画伯に師事して油絵の勉強をしていた笹岡了一さんも近くにいたので「ワゴン」によく来た。いつの間にか友達になってお互いのアトリエに行き来した。たしかこのマダムは笹岡さんと一緒になったと記憶している。/山元君は学生時代から色が黒くてやせていたので金山平三先生が山元君に、君の顔はガンジーに似ているねといってとうとう自他ともにガンジーで通っていた。喫茶店のマダムも山元君が来ないときはガンジーはどうしたのと言っていた。
  
 まず、笹岡了一が1935年(昭和10)に結婚したのは、秋元松子であって萩原稲子ではない。萩原稲子がいっしょになったのは、彼女と萩原朔太郎との間にできた娘・葉子によれば、神楽坂にいた詩人・三富朽葉Click!の甥である三富某という画学生だった。
 また、下落合3丁目1909番地にあった「ワゴン」Click!のすぐ南側、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!の付近には、画家たちが入りやすい借家(アトリエ付きだったかもしれない)があったものか、大正末には林重義Click!(上落合725番地→716番地)や、林武Click!(上落合725番地)が住みついている。1930年代ともなると、あちこちに集合住宅なども建っていたとみられ、アパートメント静修園Click!のように独立美術協会Click!に出展する画家たちが集まって暮らしていたところもあった。
 さて、名渡山愛順アトリエ(一原五常アトリエ)あるいは林明善アトリエにいた仲嶺康輝たちは、ときどき周辺を散歩がてら写生をして歩いている。ときには、妙正寺川沿いを歩いて北上し、練馬街道(大正期からの長崎バス通りClick!のことで江戸期の練馬街道とは少しズレがある)へ出ると、そのまま武蔵野鉄道沿いに歩いて練馬区に開園した豊島園まで歩いていくこともあった。往復16kmほどの行程になるけれど、当時の歩き慣れていた貧乏学生たちには、たいした距離には感じなかっただろう。

 

 当時の妙正寺川沿いには、1933年(昭和8)に牧野虎雄Click!『麦秋』Click!に描いたような麦畑が一面に拡がり、それに混じって野菜畑が散在するような風情だったろう。野菜畑の中には、日本人の味覚にあうよう昭和初期に盛んに品種改良がつづけられていた、トマト畑も多くあったらしい。バッケが原Click!付近の農家では、ときどきトマトがごっそりと摘みとられているのに気づいていた可能性がある。あたりでは、北原橋西詰めの上高田422番地に建っていた故・虫明柏太アトリエに住む、いかにも貧乏所帯そうな中出三也Click!甲斐仁代Click!が、疑いの目で見られていたかもしれない。w
 だが、トマトを失敬してったのは、付近を散策する下落合からやってきた画学生たちだった。同図録より、再び仲嶺保輝の文章を引用してみよう。
  
 西村菊雄君は僕と同じく帝国美術学校に入ったが父西村助八の死亡やら自分の病気やらで美校を最後まで行かずにやめてしまった。妙正寺川のほとりは農家が点々として麦畑、トマト畑があった。豊島園(練馬区)までは約8キロ位の所で山元・西村・僕と散歩しながら、途中農園のトマトを失敬して食べたりして夏休みの或る日出かけた。もとより三人ともお金は殆ど持っていない。表門まで行ったら入園料が高くて入れないので入園をあきらめて園の周囲をめぐり金網の外から、又木々の間から遊んでいる人達を見た。広大な園の周囲を廻っているうちに園内から流れて外へ注ぐ川の石垣の所まで来た。その川の水面と金網との間は水位が低くなって人間が通れる位の所なので、又その附近誰も通っていない裏路にあったので三人はそこから園内にしのび込んだ。金はないので池のボート遊びや様々の遊園施設を横目で見ながら唯見学だけしていた。
  
 当時のトマト栽培は、もちろんビニールハウスなど存在しないので露地栽培だったろう。上高田も近い妙正寺川の周辺は、大正末から耕地整理がスタートしていたはずだが、1930年代になってもいまだあちこちに畑地が残る風情だった。



 豊島園は、1927年(昭和2)に全面開園した郊外遊園地で、近くに住む人々の人気を集めていた。もちろん画家たちも、モチーフ探しに豊島園へと通っていたようだ。下落合の画家では、豊島園の風景を連作していた松下春雄Click!が知られている。もっとも、松下春雄は淑子夫人Click!子どもたちClick!を連れてピクニック気分で、豊島園を訪れる機会が多かったのかもしれない。3人の画学生は、帝展でもチラホラ見かけはじめた「豊島園風景」に興味を持ち、下落合から歩いていったものだろうか。
 名渡山愛順アトリエを出なければならなくなった3人は、林明善アトリエの仲嶺康輝をはじめバラバラに住むようになるが、どうやら同じ落合地域かその周辺域に住んでいたようだ。同図録の仲嶺康輝『学生時代の山元恵一君』には、「山元君とは美校も住居も別れたが徒歩で10分位の所でお互いは良く行ったり来たりした」と書かれているので、手もとの山元恵一年譜では住所まで確認できないけれど、おそらく下落合か上落合の借家に住みつづけていたのだろう。
 また、同じころ沖縄出身の若い画家たちが集まって「沖縄美術協会」を結成している。同協会には山元恵一、仲嶺康輝、西村菊雄、南風原朝光、兼城賢章、渡嘉敷唯盛らが参加し、1934年(昭和9)6月に神田の東京堂2階でグループ展を開催している。当時の様子を、1986年(昭和61)に発行された「新生美術」5月号収録の、仲嶺康輝『東京市淀橋区下落合時代の思い出』から引用してみよう。
  
 下落合時代には、山元恵一、大城皓也、兼城賢章、西村菊雄らと神田の東京堂二階で、沖縄美術協会として展覧会をやり在京沖縄県人の方々から激励された事もあった。名渡山愛順は光風会展や帝展に出品の度に作品のキャンバスを巻いて沖縄から持参して私のいる林画室に泊った。/夏には、多摩美の水垣正・鹿島守久・細木原茂直・本間淳夫らと一しょに、名渡山愛順がよく裸婦制作をしたモデル嬢もつれて、海の銀座片瀬、江ノ島へ出かけた事もあった。
  
 名渡山愛順が連れ歩いていたお気に入りのモデルも、東京美術学校Click!や帝展の画家たちからはお馴染みの、宮崎モデル紹介所Click!に所属していたのかもしれない。
 


 最後に余談だけれど、仲嶺康輝たち3人は名渡山愛順とは同級生だった島津一郎Click!をときどき訪ねていたようだ。島津源吉邸Click!内にある吉武東里Click!が設計したアトリエClick!は、まちがいなく訪問したことが書かれているが、1938年(昭和13)現在、下落合4丁目2091番地にある松本竣介アトリエClick!の東隣りに記録された、島津一郎の自邸を訪ねてやしないだろうか。島津アトリエは現存することもあり、その建設経緯や詳細は知られているけれど、松本竣介アトリエの東隣りに独立して建てられていた島津一郎邸は、いまだよく知られていない存在なのだ。このあたり、名渡山愛順が詳しいだろうか。

◆写真上:妙正寺川沿いから、目白学園の丘を眺めたところ。同学園の南にある中井御霊社のすぐ下に、林明善アトリエは建っていた。画学生3人は、この丘のバッケ(崖地)を下りると、川沿いに北(画面左手)へ向かって歩いていった。
◆写真中上は、1933年(昭和8)制作の牧野虎雄『麦秋』。は、名渡山愛順()と山元恵一()。は、1951年(昭和26)制作の山元恵一『貴方を愛する時と憎む時』。
◆写真中下は、1973年(昭和48)に制作された山元恵一『若夏』。は、画学生たちが豊島園へ向け下落合から西落合を抜けて歩いた、腹が減ったときトマト食い放題のウキウキ散歩コース。は、いまも妙正寺川沿いにはアトリエ建築が残る。
◆写真下は、南風原朝光()と大城皓也()。は、1940年(昭和16)制作の南風原朝光『野菜と果物』。は、1964年(昭和39)制作の大城皓也『ニシムイを望む』。沖縄の那覇市首里儀保町には、「ニシムイ」と呼ばれる画家たちの美術村があった。