今和次郎Click!は、よく「チツプ」あるいは「テイツプ」という言葉をつかう。昭和初期の当時は、チップという言葉が目新しく、流行語になっていたものだろうか。カフェやミルクホールの女給さんへ、サービスをよくしてもらうためにわたすのはチップでいいのかもしれないが、畳敷きの座敷がある和風の料理屋や料亭の仲居さんへは、やはりチップとはいわずに「こころづけ」と呼ぶほうがしっくりくるだろう。
 今和次郎は、考現学Click!研究のためにあちこちのカフェや料理屋に出入りしていたらしく、東京各地の盛り場で「チップ」の詳しい額を記録している。きっと、「研究費」だけで膨大な出費を余儀なくされただろう。1929年(昭和4)に中央公論社から出版された、今和次郎『新版大東京案内』から引用してみよう。
  
 銀座のカフエーで、一番名士のやつて来るのは、先づこゝの店だらう。それだけに、チツプを一円やつても、(銀座の表通りのカフエーに於ては、チツプの一円は常識である)軽く一礼する位のもので、梯子段のところ迄送つて貰ふやうなことは、一年通つても一円級では先づ絶望である。(中略) ……女給達も一様に藍色の袷衣を慎しやかに身に着けて、皆んなおとなしい上に親切である。そして彼女達が卑しく物欲しさうな顔を見せぬので、遠慮や気兼ねをしないで本当に気持よくビールを飲んで来られるのである。こゝのライスカレーは銀座では比較的評判である。チツプを五十銭置いて心からお礼をいはれるのは、このカフエー位であらう。
  
 女給(ホステス)さん相手ではないが、子どものころ親に連れられて芝居や散歩の帰りなどに、(城)下町Click!の料理屋や料亭へ出かけると、世話をしてくれる仲居さんへ親父は「チップ」ならぬ「こころづけ」を必ず手わたしていた。子どもなので額は知らなかったが、1960~70年代にかけてのころは、息抜きに喫茶店でコーヒーが2~3杯飲めるぐらいの額、すなわち60年代は岩倉具視(500円札)が、70年代は伊藤博文(1,000円札)が活躍したのではないかと思う。すると、料理屋や料亭の座敷を担当する仲居さんは、ほとんど部屋に付きっきりとなり、はりきって世話を焼いてくれることになる。
 でも、この「こころづけ」は、よりよいサービスを受けるための戦前からつづく料理屋や料亭での伝統的な慣習、あるいは客がよりていねいに面倒をみてもらうための仲居さんへの賄賂という意味合いを超えて、親父の理由にはもうひとつ別の側面があった。料理屋や料亭の仲居さんほど、ご近所はもちろん周辺の街の最新情報に詳しい人物はいなかったからだ。商売がら、さまざまな街の情報やウワサ話が仲居さんの耳へと入ってくる。もちろん、顧客の私的な事情や街に住む人々の極端なプライバシーなどは、口がかたい商売なので話してはくれないが、差しさわりのない範囲での街の情報や変化、推移についてはなんでも詳しく教えてくれる。
 どこそこの店は先代が糖尿で入院して、昨年から実質6代目が継いでいるだとか、どこそこの旅館が倒産して跡地が雑居ビルになってしまったとか、大川(隅田川)と神田川の悪臭で船宿がまたひとつ潰れたとか、あそこの洋食屋が流行って銀行から借金をし、今度は自宅を5階建てのビルにするらしいとか、どこそこの店でボヤ騒ぎがあったばかりで、消火のときに水が入り先祖伝来の看板が台なしになったとか、とうとう柳橋の芸者が30人を切り辰巳芸者よりも数が少なくなってしまった……とか、日本橋とその周辺域で流れているずいぶん細かな情報までが、仲居さんの口を通じてもたらされた。


 戦前・戦中の話になると、仲居さんではわからないので店主が前かけを外して懐かしそうに出てきては、しばらく界隈の変貌を感慨無量に話しこんでいった。また、共通の友人知人も判明したりして、親父にとっては面白い時間だったのだろう。そして、たいがい東京オリンピック(1964年)前後からこっち、ずっと「郊外」(東京西部や東部)へ引(し)っ越す人が止まらなくて、店もいつまでつづけられるかわからない……というような話で、最後は落ち着くことになる。ちょうど、わたしの子ども時代は中央区の人口が、住環境の悪化により30万人から半減してしまうような時期で、河川や空気の汚濁に加え、「開発」という名の昔からつづく住宅街の破壊や、むやみやたらな(高速)道路建設など、街の急激な変貌(小林信彦Click!のいう「町殺し」Click!)が止まらなかった時代だ。
 料理屋でわたす親父の「こころづけ」は、つまり近隣の動向や最新情報を手に入れるための、いわば「取材調査費」のような役割りをはたしていたのだろう。このような「こころづけ」の役割りは、昔ながらの店が健在で、近隣にずっと住んでいる勤務歴の長い仲居さんがいてこそ可能であり、乃手の料理屋ではハナから無理な注文だったらしく、まずはほとんど経験のない情景だった。
 親父は紙幣を折りたたんで、畳の上をすべらすようにわたしていたが、仲居さんも心得たもので畳に手をつき深くお辞儀をすると、ややシナをつくるような滑らかな動作でスッとそれを受けとるや、襟合わせへすばやくスマートに挿んでいた。すると、席が鍋料理やすき焼き料理などの場合は、すべて仲居さんが座敷へ付きっきりで世話を焼いてくれ、わたしたち家族は箸と飯茶碗を動かして食べるだけでよかった。
 ちなみに、親父Click!は酒が1滴も飲めなかったので、仲居さんとのおしゃべりが座敷での楽しみだったのだろう。その世話焼きの合い間に、彼女は親父の質問に次々と答え、周辺のさまざまな話題を聞かせてくれるのだ。店主が出てくると、もう3月10日の大空襲Click!の話か先代の関東大震災Click!の話になって、厨房の調理は大丈夫なのかな?……と心配になるぐらい話しこんでいった。このような情景が、なんら不自然さもなく可能だったのは、いまだ江戸期からつづく地域の“コミュニティ”が健在だったからだろう。



 さて、わたしも(城)下町の古い江戸期や明治期からの料理屋へ上がるときは、親父のマネをしてやや恥ずかし気に「こころづけ」をわたすようにしている。わたしの世代では、現金をむき出しでわたすのは品がないと感じるので、小さな祝儀袋のようなものをあらかじめ用意するのだが、貧乏なのでやはり包むのはコーヒーを2~3杯飲める程度の額だ。すると、昔とまったく同じように襟もとへスッとそれを挿み、かいがいしく世話を焼いてくれるのはベテランの仲居さんだ。
 店の歴史や界隈の情報にもよく通じていて、いろいろな話をしてくれる。店の周辺が描かれた、江戸の切絵図(レプリカ)をどこからか持ってきては、「うちはここ」「オレの実家はここ」「あたしはこっち」などとやっていると、アッという間に時間がすぎる。ときに、わたしも仲居さんも生まれていないのに、空襲のときは(親たちが)「どっち」へ逃げたかなどと話し、見てもいない情景を語り合うのだからちょっとおかしい。でも、それが古くから歴史を積み上げてきた街ではあたりまえの、広島や長崎や沖縄では当然の、地元で「語り継ぐ」という行為そのものなのだと理解している。
 でも、1990年代からこっち、そのような「こころづけ」が通用しない店が出てきた。店自体は江戸期あるいは明治期からあるのに、そのような地元の慣習を理解できない仲居さんが登場してきたのだ。裏返せば、街の情報ネットワークをまったく持っておらず、なにを訊かれてもわからず、そもそも地元ではないので答えられない。「こころづけ」は店へと報告し、先代からの客らしいとわかると、当代の店主がやってきて話相手になってくれるのだが、それでなくても人手不足の忙しい厨房を抱えているのだから、そうそう長話や細かな話もできない。仲居さんからも店主からも、近隣の最新情報がほとんど入手できなくなってしまったのだ。
 仲居さん(もはや就活で入社した女性社員だろう)の中には、「こころづけ」を渡してもどうふるまっていいのかわからず、どぎまぎしてしまう人もいる。特に、若い仲居さんは「契約」あるいは「腰かけ」の感覚なのか、ハナから料理屋が建っている街について詳しく知ろうとは思わないのだろう。近くの店々とも、商店会以外での交流がなくなり、また流行りを追うようなチェーン店が増えて、地元の小学校から同窓だったというようなつながりも消え、店主(もはや経営役員)同士がかろうじて顔を見知っているぐらいになってしまったのかもしれない。つまり、街のコミュニティが実質的に「壊れて」しまったのだ。



 仲居さんが近隣の情報に不案内となるにつれ、「こころづけ」の効果はほとんどなくなり、先代からの客だと知ると店主やその息子さん、娘さんが座敷へ挨拶に現れるようになった。でも、店を切り盛りしながらの世間話だから落ち着かず、親父の時代の仲居さんとすごした濃密な時間に比べると、グッと会話の中身が薄くなる。だから、わたしはいまの日本橋界隈の様子を、昔ほどよくは知らない。

◆写真上:神田川のアユとモツゴで、今年は小ぶりですばしっこいのが多い。はたしてアユ料理の店が、神田川に復活する日はくるのだろうか。
◆写真中上は、今和次郎が1929年(昭和4)ごろに記録した『新版大東京案内』所収の銀座1丁目から尾張町(現・銀座4丁目)にかけての飲食店。は、1932年(昭和7)に制作された木村荘八『牛肉店帳場』(部分)。描かれているのは、明治期の両国広小路(現・東日本橋)にあった第八いろは牛肉店の仲居さんたち。
◆写真中下は、1933年(昭和8)ごろ撮影の日本橋。は、同じころ撮影の江戸期は「駿河町」あるいは「金座」と呼ばれた後藤家屋敷のあったあたり。左手は手前が日本銀行で奥が三井銀行、右手は手前が横浜正金銀行で奥が日本橋三越。は、同じころの撮影で右手に明治座が見える金座通り(現・清州橋通り)。
◆写真下は、おそらく1928年(昭和3)撮影の両国花火大会Click!で、下に見える丸いドームのイルミネーションは大橋(両国橋)向こうの本所国技館。は、神田川の出口にあたる柳橋・船宿の夕暮れ。は、日本橋のあちこちに残るビル状になった料理屋。