清水多嘉示Click!が渡仏する前の『下落合風景』Click!(1922年)、あるいは1928年(昭和3)5月に帰国して以来、明らかに「下落合風景」と思われる林泉園作品Click!などを検討してきた。ほかにも、おそらく下落合を描いたとみられる作品は少なくないのだが、道筋や地形がハッキリと描きこまれておらず、また特徴的な住宅などがモチーフになっていないため、描画場所をピンポイントで特定できない画面もある。きょうは、それらの画面について検討してみよう。
 まず、冒頭の清水多嘉示『風景(仮)』(作品番号OP580)だ。この画面は、2015年(平成27)に武蔵野美術大学彫刻学科研究室が刊行した『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「滞仏期[1923-1928年]か」と疑問形で収録されている。もし、この画面を佐伯祐三Click!がお好きな方がひと目観たとたん、「アッ、あそこでは?」と思われるだろうか。特に右手に描かれている、大正末から昭和初期に数多く建てられた日本家屋の意匠に注目し、佐伯の「制作メモ」Click!によれば、1926年(大正15)9月20日に描いた『下落合風景』Click!(曾宮さんの前Click!)、すなわち諏訪谷の南側の高台から北北西を向いて描いているのではないか?……と思われるかもしれない。ちなみに、佐伯の同作には微妙に角度を変えた2作と、降雪あとの諏訪谷を描いた2作の計4作が確認できる。
 ましてや、清水多嘉示は『風景(仮)』Click!(OP284/285)で、諏訪谷の北側に通う曾宮一念アトリエClick!前や、蕗谷虹児アトリエClick!近くの道を描いているとみられることから、よけいに諏訪谷のイメージが強く湧くのではないかと思う。だが、冒頭の『風景(仮)』(OP580)は諏訪谷ではない。確かに、手前の地面の向こう側が、地形的にやや落ちこんでいるように見えるが、諏訪谷ほどは凹地が深くない。また、家々の向こう側に佐伯が描いているような、諏訪谷の“対岸”にあたる丘、つまり清水が『風景(仮)』(OP284/285)で描いた道が通う高台が見えない。さらに、この角度からは必ず見えなければならない、銭湯「福の湯」Click!の煙突も見あたらない。
 太陽光の差しこみ方を見ると、右手から射しているように描かれており、家々の切妻の向きからすると、おそらく北側から南南東の方角を、かなり陽が傾いた午後の時間帯に描いているように見える。ひょっとすると、住宅群の先が南に向いた斜面になっているのかもしれないが、画面からはそこまでの地形はうかがい知れない。電柱が1本も描かれていないので、電力線・電燈線Click!を地下の共同溝に埋設した、いずれかの目白文化村Click!かとも考えたが、このように一般的な住宅群が密集して建てられている文化村の街角を、わたしは知らない。また、清水多嘉示は電柱を省略している画面もありそうなので、文化村だとはいちがいに規定できないのだ。
 また、少し西側に入りこんだ路地にある下落合1443番地の木星社(福田久道)Click!の道筋、すなわち佐伯の「下落合風景」シリーズClick!の作品群に沿った表現をすれば、木星社の周囲に見られた『八島さんの前通り』Click!沿いの空き地から、南南東を向いて描いた風景かとも考えたけれど、残念ながら1936年(昭和11)の空中写真をいくら検証しても、このような家々の配置も、また住宅の意匠も存在していない。いまいち、ハッキリとした特徴のある住宅が描かれておらず、昭和初期の下落合に展開していたごく一般的な住宅街では、あちこちで見られた風景だろう。または、戦時中に本格化する改正道路Click!(山手通りClick!)の工事で、丸ごと消えてしまった街角のひとつなのかもしれない。




 次に、同じく『風景(仮)』(OP581)とタイトルされた画面を見てみよう。先の『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』によれば、「不明・帰国後[1928年以降]」とされている作品だ。この画面を観て、わたしが真っ先に思い浮かべたのは、1925年(大正14)に建設された庭先に大きなソテツが繁る第二文化村の松下邸Click!だった。下落合1367番地の松下市太郎邸は、セメントを混ぜたグレーのモルタルスタッコ仕上げの外壁で、“T”字型をした大きな邸宅だ。
 手前に見える門は、松下邸の門ではなく隣家の敷地の門だとして、目白文化村で数多く作られたレンガの門柱に、四角いレンガかセメントの帽子をかぶせいてる。その門柱には、タテに黒っぽく表札が埋めこまれているような描写が見える。レンガの門柱から塀ではなく、低木の生垣がつづいているのも、いかにも文化村らしい風情をしている。
 だが、これが松下邸だとすると、周囲の空間がやや閑散としている雰囲気が馴染まない。清水多嘉示が帰国した1928年(昭和3)現在では、第二文化村に家々がかなりの密度で建ち並んでいただろうし、もう少し周囲の住宅が望見できてもよさそうな気がする。さらに、目白文化村であれば電柱が見えないのは当然としても、手前の道路の端に大谷石で造作された共同溝が敷設されていなければならない。悩ましいのは、文化村内の幹線道路である三間道路沿いには、もれなく共同溝が設置されていたかもしれないが、すべての二間道路沿いにももれなく敷設されていたかどうかが、いまひとつハッキリしない。
 松下邸は、第一文化村から南へと下ってきた二間道路沿いに建っていたので、宇田川家Click!が所有している箱根土地Click!未買収地Click!つづきの位置にある。だから、未買収エリアには電柱があったので、この二間道路沿いには電柱があった……と考えることもできる。ただし、松下邸がこのような角度に見えるためには、南西側か北西側から眺めるのがいちばん近い角度になるが、そこには路地は認められるが、描かれているような広めの道路が通っていない……という、もうひとつの課題もあるのだ。



 つづいて、明らかに画家のアトリエを描いたとみられる、『風景(仮)』(OP612)の画面を観てみよう。この作品も、『清水多嘉示資料/論集Ⅱ』では「不明・帰国後[1928年]以降」とされている。描かれている家の大きな窓が、北面する画家のアトリエの採光窓だとすれば、清水多嘉示は北西の方角から南東を向いて描いていることになる。陽光は右上から射しているように見え、採光窓がうがたれた外壁面の方角や、画家がイーゼルを立てている描画位置の方角とは矛盾しない。
 家を囲むように描かれている、おそらく大谷石を用いた背の低いオープンな石垣は、落合地域ではあちこちで目にする仕様だ。特に石垣の上にほどこされた、画面では白っぽく描かれている“装飾”は、大谷石を削って造る凝ったデザインの仕事で、大正末から昭和初期にかけて爆発的に流行した塀の施工法だろう。装飾部の大谷石が、なぜ白っぽいのかは不明だが、ペンキを塗るなどなんらかのカラーリングが施されているのかもしれない。
 さて、手前の道路は南へ向かってややカーブしているように見え、東へと向かう道路とでT字路を形成しているようだ。だが、わたしはこのような道筋の場所に建つ画家のアトリエを、下落合(現・中落合/中井含む)でも上落合のエリアでも、これまで古写真や資料類を含めて一度も見たことがない。
 最初は、第三府営住宅Click!(下落合1542番地)に住んだ帝展画家の長野新一Click!のアトリエか、下落合800番地の有岡一郎Click!のアトリエかとも考えたが、道筋の方角が合わないのだ。ひょっとすると、これは落合の風景ではなく、帰国後に住んだ高円寺の風景なのかもしれない。ただし、昭和初期の段階で、落合地域に住んでいた画家たちの、すべてのアトリエの形状を認識しているわけではないので、わたしの知らない落合エリアにあったアトリエ建築の可能性も高そうだ。



 今回は、いかにも昭和初期の落合地域で見られたような、清水多嘉示の風景作品について書いてきたが、ほかにもまだ気になる画面が少なからず存在している。ひょっとすると、それらの画面は落合地域ではないかもしれないのだが、昭和初期の落合風景と重ね合わせることで、その可能性を探ってみたい。また、わたしが知らないだけで、1928~1935年(昭和3~10)ぐらいまでの落合風景で、「この風景は、きっとあそこだ!」とお気づきの方がおられたら、ご教示いただければ幸いだ。

◆写真上:1928年(昭和3)の帰国後に制作されたとみられる、昭和初期の下落合のような風情を感じる清水多嘉示『風景(仮)』(OP580)。
◆写真中上は、現在でも下落合に残る大正期から数多く建設された日本家屋。は、1926年(大正15)制作の佐伯祐三『下落合風景』(曾宮さんの前)に描かれた同様の家屋(上)と、制作年不詳の鶴田吾郎『初夏郊外』にみる同じような日本家屋(下)。は、右手の諏訪谷へ落ちる絶壁と左手の青柳ヶ原を掘削して聖母坂(補助45号線)を敷設した際にできた絶壁。1931年(昭和6)に行われた工事で、実際の地面はこれらの擁壁の上にあたる。
◆写真中下は、清水多嘉示『風景(仮)』(OP581)。は、1925年(大正14)に竣工した松下市太郎邸。は、目白文化村に多いレンガで組み上げた門。
◆写真下は、清水多嘉示『風景(仮)』(OP612)。は、目白文化村に多い大谷石の塀に装飾を施した例で、第一文化村と第二文化村にあった邸の施工ケース。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。