落合地域から南の戸塚、大久保にかけて昔の地図を眺めていると、いつも気になるところがある。幕末には、石川左近将監(旗本)の下屋敷と一部が幕府の大筒角場(大久保百人組支配)であり、明治期になると淀橋町字十人町で華族だった大村家の屋敷地が大部分を占めている。大正期に入ってしばらくすると、金川(カニ川)Click!の湧水源のひとつだった同邸の庭池が埋め立てられ、今日の道筋とほぼ同様の三間道路が敷設されて、閑静な郊外住宅地としての開発が行われた。
 昭和期に入ると、淀橋町角筈1丁目から淀橋区角筈1丁目へと変遷し、戦後の1948年(昭和23)には街づくりのコンセプトが根底からひっくり返り、周囲に接した西大久保の一部や三光町など町域を合併して、乃手Click!の住宅街とはまったく風情が異なる繁華街として再開発され、新宿の「歌舞伎町」と名づけられたエリアだ。
 この「歌舞伎町」の真ん中あたり、旧・新宿コマ劇場(現・新宿東宝ビル)の建っていた敷地とその周囲にかけ、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!により校舎が全焼するまで、広いキャンパスには東京府立第五高等女学校が建っていた。第五高等女学校は、大村邸が解体されて庭池が埋め立てられ宅地開発が行われた直後、1920年(大正9)4月(校舎完成後の移転は5月)に開校している。以降、戦前までの地図を参照すると、今日の歌舞伎町の真んまん中に第五高等女学校が位置し、華やかな女学生たちが大勢集っていたかと思うと面白い。同校のすぐ西に位置している華園稲荷社(現・花園神社)も、どこかしっくりくる名称のように感じる。
 大村邸がなくなってから、乃手の住宅街が少しずつ建設されていく様子を、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台』から引用してみよう。
  
 そもそもこの土地は元九州大村藩主大村家の別邸で、「大村の山」と呼ばれるうっそうとした森林であった。中央に池があり、明治時代は鴨場として知られていた。池の中央に島があり、弁財天が祭ってあった。新宿区役所から西部新宿駅へ向かう途中、「王城」の隣りに再建された堂宇がそれで、位置も当時と変わらぬようだ。/大正の初め、尾張銀行頭取の峰島家が大村家から土地を買収し、森林を伐採して平地とした。そのため「尾張屋の原」と呼ばれ、バッタ取りや野球など子どもたちのよき遊び場であった。/大正九年、現都立富士高校(中野区)の前身である府立第五高等女学校がコマ劇場辺に創設されたが、住宅がポツポツ建ち始めたのは関東大震災以後である。
  
 以前は名曲喫茶だった「王城」ビルの西隣りに、大村邸の池に建立されていた弁天堂が再建され、現在では歌舞伎町弁財天と呼ばれている。
 大正期には、広い草原の中に第五高女の校舎がポツンとそびえているような眺めであり、住宅もまだほとんど建ってはいなかった。第五高女から東へ300mと少し、華園稲荷社から北裏通り(現・靖国通り=大正通り)をはさんだ向かい(南側)には、芥川龍之介Click!の父親が経営していた耕牧舎や太平舎牧場など、東京牧場Click!の跡地である草原が拡がり、サクラ並木があちこちにつづいているような風情だった。




 昭和初期、第五高女へ通った女性の手記が残っている。1984年(昭和59)に人文社より出版された、『地図で見る新宿区の移り変わり―淀橋・大久保編―』(新宿区教育委員会)所収の、村田静子『角筈女子工芸学校と府立第五高等女学校』から引用しよう。
  
 その社(弁財天の堂)から少し西へいったところに第五高女の正門が南向にあったのだった。門衛さんの小屋のそばには桜の木があって、染井吉野の盛りには、下手な歌を短冊にかいてこれも朝早くつるしてすまし顔をしていた思い出がある。門から右手に、こげ茶色の二階建の、屋根の傾斜のつよい特徴的な建物の講堂----平和館があったのだ。左手の桜の木から西側に雨天体操場をまわって、北側に南向に、二階建で、中心部が三階建の、校舎がそびえる。戦時中(日中戦争中)のこととて、二本の大きなたれ幕が、「堅忍持久」「長期建設」と玄関の両側に上から下げられていた。東側に弓道場をまわって平和館へいく途中は、屋根つきの吹き通しの渡り廊下であった。平和館と、校舎の一部分は、省線電車(山手線)が新大久保駅から新宿駅に近づくころ、左側に大久保病院を見おわると、展開してくる景色なのであった。校舎も平和館も横のはめ板で、校舎は緑白色、窓の外には高いポプラが、何本も植っていた。こげ茶色の平和館と、校舎とポプラと、その調和の美しさを、私も写生したことがあった。昭和十一年四月から十六年三月まで、いわばこの学校の隆盛期をすごした私であったが、その少女時代の思い出は独特の楽しい雰囲気に包まれている。(カッコ内引用者註)
  
 ちなみに、弁財天は社(やしろ)ではなく、不忍池から勧請した仏教系の弁天堂だ。
 さて、1970年代半ば、歌舞伎町商店街振興組合が歌舞伎町を訪れる20代の若者たちに実施した、アンケート調査の結果が残されている。アンケートに答えたのは69%が男であり、月に平均5回ほど同町を訪れては、1回に平均2,000円ほどのカネをつかっている。訪れる目的でいちばん多いのは、飲食店を利用することだった。アンケートが行われたのは、午後1時から午後2時までの間と、下校・退社時間帯の午後5時から午後6時までの間のそれぞれ1時間ずつであり、当時の歌舞伎町の状況を考慮するとかなり早い時間帯だ。



 また、アンケートで歌舞伎町の印象を質問したところ、いちばん多かった回答は「緑が欲しい」で、ビルが建ち並ぶ無機質な雰囲気にうるおいが欲しかったのだろう。次に多かったのが、「街並みが雑然としている」「なんとなく楽しい」で、ゆっくりすごす街ではなく一時的に訪れては、用が済んだらさっさと引き上げる街……というような位置づけの回答が多かったようだ。当時、新宿駅を降りた若者のうち、約50%が歌舞伎町をめざすといわれていた時代だった。
 かくいうわたしも、1970年代後半から80年代にかけ、学生時代には歌舞伎町を頻繁に訪れている。水谷良重(2代目・水谷八重子)が経営していた「木馬」Click!をはじめ、「PONY」や「びざーる(Ⅰ)」Click!などJAZZを聴かせる喫茶店やバーがあちこちにあったからだが、カネのないわたしがいちばん通ったのは、古時計コレクションがたくさん並べられた広い「木馬」だろうか。暗くなると米国人がたくさん訪れる狭い「PONY」はうるさくて敬遠し、「びざ~る(Ⅰ)」は基本的に飲み屋なので“常連”というほどではなかった。ほかにも、新宿のJAZZ喫茶やライブハウスには通ったけれど、歌舞伎町のみに限定すると上記の3店が印象に残っている。
 夜遅くなると、帰り道で「お兄さん、XXXX円ポッキリ」(XXXXは不明瞭で聞きとれない)というような声で袖を引かれたが、のちの時代のように強引で乱暴な客引きはなかったように思う。あまりひどいことをすれば、二度と歌舞伎町へ寄りつかなくなってしまうというような、暗黙のルールがまだどこかで生きていた時代だったのかもしれない。もっとも、こちらが貧乏そうな学生の風体だったので、ハナから執拗に絡まれなかっただけなのかもしれないが……。
 この街が、より貪欲でいかがわしい犯罪臭をまき散らしながら、さもしい雰囲気に拍車がかかったのは、バブル期以降から前世紀末ぐらいまでだったろう。新宿区役所のある膝元が、犯罪の温床的ないかがわしさを漂わせているのはマズイということで、今世紀に入ってからは新宿区と警視庁による徹底的な取り締まりが行われた。街の中心となっていたコマ劇場も、屋上からゴジラがのぞく最新のビルにリニューアルされ、その結果、夜になっても女性のひとり歩きができる街に変貌している。



 もし、空襲で第五高女が焼けなければ、おそらく戦後の再開発と「歌舞伎町」化はありえなかっただろう。ひょっとすると、横浜山手にあるフェリスの丘Click!のように、女学生たちが集うオシャレな街角になっていたかもしれない。現在の歌舞伎町の姿に、そんな空想の街づくりを重ね合わせると、ちょっと面白い。もっとも、週末になるとフェリスと同様に男たちが集まってくるのは、歌舞伎町とあまり変わらないのかもしれないが。w

◆写真上:コマ劇場の跡地にでき、2015年にオープンした新宿東宝ビル(正面)。
◆写真中上は、1925年(大正14)の「淀橋町全図」にみる府立第五高等女学校。大村邸の敷地に規則的な三間道路が敷かれ、庭池は埋め立てられて郊外住宅地として開発されている。は、1928年(昭和3)ごろに撮影された新宿駅(手前)と第五高女(左端)、および第五高女の拡大。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる第五高女。
◆写真中下は、芥川龍之介の父親が経営していた東京牧場のひとつ耕牧舎跡(現・新宿2丁目あたり)の現状。は、大村邸の庭池に勧請されていた弁天堂の現状。(Google Earthより) は、空襲による焼失前にとらえられた1940年代前半の第五高女。
◆写真下は、1935年(昭和10)ごろの第五高女と同校の体育祭。は、高いビルに囲まれたが昔と変わらない風情を残す新宿ゴールデン街。(Google Earthより)