1930年協会に参加していた、洋画家・木下孝則Click!という人物がちょっと風変わりで面白い。東京の四谷にあった明治大学総長・木下友三郎の家に生まれ、学習院を高等科まで卒業すると京都帝大に入学している。だが、京都帝大に在学中、東京帝大に合格して入学している。つまり、京都と東京で一時期、二重学籍だった期間があるのだが、東京帝大へ通いはじめてから6ヶ月後に、ようやく京都帝大を中退している。そして、講義がつまらなかったのか、ほどなく東京帝大も中退して画業に専念しはじめた。
 生活に困らない“お坊ちゃん”育ちのせいか、性格も鷹揚だったようだ。1921年(大正10)に『富永君の肖像』で二科展に初入選すると、1923年(大正12)に樗牛賞を、翌1924年(大正13)には二科賞を受賞している。油絵をはじめたのは、大正中期につき合っていた小島善太郎Click!林倭衛Click!らとの交遊からだというが、その時期の詳しい証言はあまり残されていない。
 木下孝則でイメージされるのが、戦後はほとんどそれしか描かなくなった『婦人像』であり「週刊朝日」の表紙だが、大正期の彼はいろいろな画面に挑戦していたようだ。冒頭の画面は、大正期に描かれた木下孝則『風景』だが、東京郊外の風景をモチーフにしたものか、“お約束”のように小さめな西洋館や電柱が描かれている。ひょっとすると、彼の実家近くの四谷風景なのかもしれない。大正期の四谷は、東京15区Click!の四谷区として市街地に編入されていたが、あちこちに森や草原が残る風情だった。
 では、木下孝則の人物像を林倭衛の証言から聞いてみよう。1927年(昭和2)に中央美術社Click!から発行された「中央美術」8月号より、林倭衛『自然に育つた人』から。
  
 一寸ぶつきらぼうで非常な呑気屋らしいが、人に何か頼まれるとか、さういふ場合容易に厭とは言はない人らしい。それにどういふ話をするにも少しも気が置けなくて、すつかり安心して話されるといふ所がある。こつちがどんな馬鹿な話しをしやうと、何だ此奴下らない話をする――とか何とかさういふ事を殆ど思はぬらしい。新聞など読まなくとも全く平気らしい。そしてさういふ事が実際自然な所を見ると全くあれはのんびり育つた人ですね。そんな風で一寸融通も利きさうには見えないが、又それは中々しつかりした所がある。絵なんか見る眼は実際確です。
  
 ちょっと余談だが、この「中央美術」8月号は1930年協会第2回展Click!(同年6月17日~30日/上野公園日本美術協会)の直後に発行されており、誌面にはその展評が掲載されている。その中に、佐伯祐三Click!「下落合風景」シリーズClick!の写真1点が掲載されているが、これは1926年(大正15)の真夏Click!曾宮一念アトリエClick!前を写生した『セメントの坪(ヘイ)』Click!(おそらく3画面)の1作で、佐伯アトリエの隣家である納三治邸Click!が竣工しそうな、1927年(昭和2)5月ごろに「八島さんの前通り」を描いた『下落合風景』Click!との、同時出品だったのがわかる。
 そして、同誌の写真について朝日晃が『佐伯祐三のパリ』(大日本絵画/1994年)で、同作は「現存はしない」(二尺の物差し)と書いているので、朝日晃自身もこの画面を一度も観たことがないのがわかる。つまり、戦災で失われたか、行方不明のままの可能性が高いのだろう。また、佐伯祐三は同作をよほど気に入っていたのか、1930年協会第2回展の記念絵はがきになっていたことも判明している。
 


 さて、木下孝則が佐伯のことを書いた文章が残っている。1968年(昭和43)に日動画廊から発行された「繪」10月号所収の、木下孝則『佐伯と前田』から引用しよう。
  
 佐伯祐三と知合ったのは前田寛治を介してで、前田がヨーロッパから帰って意気ごんで滞欧作品を発表したかったのに、場所がなくどこも全く相手にしてくれなかった。どこかやってくれるところはないかということで、その頃例の柳原白蓮と伊藤伝右衛門の養子になった僕の友人が当時の報知新聞の重役を紹介してくれ、その世話で、今の八重洲口、東京駅裏の日米ビルへ行った。(中略)何しろ広過ぎてとてももったいない。前田がパリで一緒だった佐伯という男を誘ってみようと、二人で落合の彼のところへ出かけた。/佐伯は奥さんと一緒で、まだ汚い日本間のアトリエで、これも滞欧作の二十号位ばかりがずいぶん沢山重ねてあって、一枚きりの額縁が置いてあって、次から次とパッパッと入れ替えては全部見せてくれ、迫力のある絵に感心した。
  
 柳原白蓮Click!と伊藤伝右衛門の「養子」が登場しているが、学習院つながりの伊藤八郎のことだろう。また、佐伯アトリエを「汚い日本間のアトリエ」と書いているが、同アトリエに畳が敷かれていたことはないと思われるので、木下孝則が通されたのは母家側の1階か2階にある日本間だったのではないか。佐伯夫妻は関東大震災Click!直後に渡仏しているので、本来のアトリエは内部の修復が済んでおらず修理中であり、帰国直後はいずれかの日本間をアトリエ代わりに使っていた可能性がある。
 1926年(大正15)5月15日から24日まで、日米ビルの室内社での1930年協会第1回展が終わると、メンバーの5人は八重洲近くの中華料理店で打ち上げをしている。そのとき、料理屋の衝立に「佐伯が竜、里見がスペイン娘、僕が裸を描いた」寄せ書きをしているが、戦前までそのまま使われていたらしい。もし料理屋が敗戦間近で店を閉め、どこかに転居しているとすれば、衝立は閉店時に処分してしまっただろうか、それとも記念に保存されどこかに眠っているのだろうか。



 つづけて、翌年の第2回展の様子を木下孝則『佐伯と前田』から引用してみよう。
  
 公募で入選した中には井上長三郎とか長谷川利行とか現在名の出ている人達が沢山いたように記憶する。また前田の弟子には先頃亡くなった凸版印刷社長山田三郎氏やその夫人や今泉篤男氏もいたし、僕たちが揃って出入りした彫刻家藤川勇造氏の夫人栄子さんがはじめて絵を描き出した頃だ。/一九三〇年協会の仲間は非常に親密な友情を保って、児島善三郎が羨しがって是非入れてくれといってきたら、絵が面白いから入れようというのもいたが、あんな嫌な奴は駄目だと断わったりした。そして佐伯が再びフランスへ行くことになり、キサマも早く来い、というから僕も三ヵ月おくれて二回目のパリへ着いた。そうしたら佐伯は、「おれはもう百枚描いたぞ」と威張っていた。アトリエを見せてもらったが、その猛烈な馬力に驚いた。
  
 1930年協会に入りたかった児島善三郎Click!は、どうやら木下孝則とまったく反りが合わなかったのか、あっさり断わられている。第2回展時点での新会員は、木下孝則の弟・木下義謙のみで、その直後に林武Click!野口彌太郎Click!が加入している。
 また、1968年(昭和43)の「繪」10月号には、南仏のカンヌ近くの農村で制作する佐伯米子Click!が紹介されている。佐伯米子『自作を語る』から引用してみよう。
  
 ある夏の初めのことであった。パリから遠くない、オーベルの近くの田舎で、草原に坐って、スケッチしていると、いつのまにか、ねむくなって、そのまま寝てしまった。/どの位の間かわからない。/何か気配がして、ふと眼を覚ますと、かぎりしれない多数の羊の群にとりまかれ、私はその真ただ中にいた。(中略)かぎり知れない広い野原に一人ぼっち。/その時遥か遠い叢の道から、佐伯祐三は出来上ったカンヴァスと絵の具箱をもって、歩いてくるのが見えた。シルエットだけが、だんだんと、近づくと、作品の出来上った満足の顔が、にこにことしていた。
  
 南仏の草原で写生をしながら、第1次渡仏時の光景を想い出しているセンチメンタルな文章だが、おそらく佐伯の死から40年後のこのとき、佐伯米子の中では当時の出来事や心情の忘却とともに、夫・佐伯祐三に対するかなりの「美化」が進んでいただろう。
 

 同じ見開きに、佐伯米子が描いた日本の風景画が掲載されている。昭和初期の佐伯祐三がそれを見たら、ニコニコ顔はしたかもしれないが、「あのな~、オンちゃんな~、遠くの山と近くの地面や樹木のな、バルールが狂うてんねん」、「あら、秀丸さん、わたくし天然ではなくてよ!」……などというような会話を想像してしまった。w

◆写真上:大正期の東京郊外(四谷近くか)を、描いたとみられる木下孝則『風景』。
◆写真中上上左は、1927年(昭和2)に撮影された木下孝則。上右は、同年の作品で木下孝則『少女像』。は、1927年(昭和2)6月の第2回展のときに撮影された1930年協会のメンバー。右から左へ里見勝蔵Click!、木下孝則、林武、小島善太郎(前)、野口彌太郎(後)、佐伯祐三(前)、木下義謙(後)、そして前田寛治Click!は、第2回展会場の様子で奥に佐伯『下落合風景』や長谷川利行『陸橋みち』が見える。手前から里見勝蔵、佐伯祐三、木下孝則で立っているのは前田寛治。
◆写真中下は、玄関を入った佐伯邸母家の正面。左手が台所ちかくの日本間で、右手がアトリエのドア、階段を上った先にも2階の日本間があった。は、日本間のある佐伯邸の母家(右手)で左の屋根はアトリエ。は、南側から見た母家の2階。
◆写真下上左は、1927年(昭和2)に発行された「中央美術」8月号(中央美術社)の表紙。上右は、1968年(昭和43)に発行された「繪」10月号(日動画廊)の表紙。は、同「繪」10月号に掲載の南仏で写生する佐伯米子をとらえた写真。