守山商会Click!の『守山乳業株式会社四十年史』(1957年/非売品)を読んでいたら、1945年(昭和20)7月16日の夜半にみまわれた平塚大空襲の様子が記録されていた。子どものころ、親父の仕事Click!の都合で10年以上は住んでいた街Click!なので、同空襲のことは地元でも頻繁に耳にしていた。今回は、平塚大空襲の全貌を守山商会の被災とからめてご紹介したい。
 平塚市の空襲が、なぜ「大空襲」と呼ばれているのかを知らない方が多い。実は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!や、同年5月29日の横浜大空襲よりも、焼夷弾の投下数で比較すれば、その規模がはるかに大きかったからだ。湘南海岸に面した街は、戦争も終わりに近づくにつれ、頻繁に爆撃や機銃掃射の被害に遭っているが、平塚市への攻撃はケタ違いだった。東京大空襲で投下された焼夷弾は約38万本で、横浜大空襲は約35万本に対し、平塚大空襲は約45万本もの焼夷弾が投下されている。文字どおり、草木も残さない焦土化殲滅作戦だった。
 これは、同年8月2日の八王子大空襲(約67万本)に次いで全国で2番目の空襲規模であり、中規模な市街地に対する攻撃としては、八王子ともどもごくごく異例のものだった。その理由としては、これまで都市部への爆撃とは異なり爆撃目標が分散していたからとか、海軍の重要な施設があったからだといわれてきた。平塚には、確かに海軍の火薬廠や横須賀海軍工廠分工場、海軍飛行機工場などがあったのだが、それらを破壊するにはあまりに爆撃規模が大きすぎるのだ。では、なぜ平塚と八王子にだけ、類例のない大規模な爆撃が行われているのだろうか?
 わたしが子どものころ、湘南海岸の随所にはコンクリートでできた台状の塊や残骸、廃墟などが残されていた。それらは、地元の人々の話によれば、米軍の「オリンピック作戦」に備えた砲台やトーチカの跡だと説明されてきた。だが、「オリンピック作戦」は沖縄の次に予想された、九州への上陸作戦名だったことが明らかとなり、湘南海岸への上陸は「コロネット作戦」と呼ばれていたことが、米国公文書館の情報公開で明らかになっている。だが、この情報が公開されるまで、関東地方の海岸線への上陸作戦は「オリンピック作戦」とされていたので、おそらく敗戦前からの呼称、つまり軍部が戦時中からそう呼んでいた可能性が残る。
 1945年(昭和20)夏の時点で、軍部は湘南海岸が本土上陸の主戦場になるとは想定していなかった。それは、同時期に作成され国立公文書館に保存されている、海軍資料「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」からも明らかだ。「戦勢ノ推移ニ鑑ミ敵ガ対本土上陸作戦ヲ企図スルデアラウコトハ概ネ確実トナツタ」ではじまる同資料には、沖縄上陸の次は「予想上陸地区タル南九州及四国南西部」としている。だが、先の米国公文書館が公開した軍事資料によれば、南九州に上陸するオリンピック作戦と同時に、首都東京へまっしぐらに侵攻できる湘南海岸の中央部、すなわち平塚海岸への上陸が、コロネット作戦と名づけられて計画されていた。


 コロネット作戦では、平塚海岸へ上陸した米軍は平塚を中心として湘南海岸に大規模な橋頭保を確保し、そのまま馬入川(相模川)沿いを北進して八王子を攻略、東海道(東海道線沿い)と甲州街道(中央線沿い)を進撃しながら、2方向から東京を攻略するというシナリオだった。そのためには、平塚市と八王子市をあらかじめ徹底的に焦土化、殲滅しておく必要があったのだ。米軍は、破壊が不徹底のまま上陸した沖縄戦で、膨大な死傷者が出たことに懲りており、本土上陸では上陸地点と作戦要所の市街地を、草木も残さぬ焦土と化しておくことにしたのだろう。このような作戦計画上の文脈から、7月16日の平塚大空襲と8月2日の八王子大空襲が実施されている。
 平塚大空襲は、7月16日の深夜から翌未明にかけ、138機のB29により行われた。B29の大編隊は平塚の南西側から侵入し、22時30分ごろ花水川の河口付近へ照明弾を投下すると同時に平塚の市街地に対する爆撃がはじまった。その様子を、『守山乳業株式会社四十年史』(1957年)から引用してみよう。
  
 愈々来るものが来た。昭和二十年七月十六日夜半、五百機(ママ)の大編隊は、平塚市を目標に、相模湾を北上中と、ラヂオはガンガン鳴り響いた。平塚市の南西部に曳光弾(ママ)が落下して全市真昼の明るさとなった。初めて聞く異様な音響と共に焼夷爆弾が雨の様に降って来る。焼夷弾の波状攻撃は二時間も続いた、妖焔は地を匐って数時間の内に全市の七割(ママ)を灰燼と化した。民家も軍需工場も焼け落ちて無辜の市民多数も犠牲となった。火葬場も間に合わない。無論棺桶も材料がない、惨憺たる戦禍の惨めさであった。(カッコ内引用者註)
  



 当時、平塚市の全住宅10,419戸のうち約8,000戸が焼失し、また大小の工場や倉庫、商店はほぼ全滅しているので、被害は全市の8割以上にもおよんでいる。約2時間ほどの空襲で、343人の市民が犠牲になった。平塚を爆撃したB29の編隊は、通常の絨毯爆撃ではなく、外側からまるでスクリューを回転させるように内側へと攻撃範囲を狭めていく、渦巻き状の爆撃を繰り返している。
 これは、東京大空襲において本所区や深川区、向島区などで行われた爆撃法とまったく同様だ。あらかじめ市街地の外側を爆撃して火の壁をつくり、その内側で暮らす住民たちの逃げ道をふさいだあと、中央部に大量の焼夷弾や250キロ爆弾を投下して皆殺しにする爆撃手法だ。東京大空襲では、火で囲まれた市街地にB29から大量のガソリンがじかに散布されているが、平塚市の爆撃ではどうだったろうか。
 これほどの攻撃を受けながら、相対的に犠牲者が少ないのは、当時の平塚市はいまだ田畑や緑地、空き地などが多く、建物がそれほど密集してなかったのと、東京大空襲時のような強風が吹いていなかったため、大火流Click!が発生しなかったのも人的被害を少なくした要因だろう。ただし、同市の中心部だった平塚駅北側、国道1号線沿いの新宿と本宿の街並みは、ともに壊滅している。
 守山商会の工場は、どうなっただろうか。同社史から、つづけて引用してみよう。
  
 守山商会も工場並に尊天堂、社長住宅等も全焼の厄に会い、焼け野原の中に大煙突のみが吃然と立っていた。工員今井君は最後まで工場に頑張り、手押ポンプの腕木を握ったまま直撃弾の命中(ママ)を受け即死した。馬入川対岸の守山牧場も全焼して、多数の乳牛が焼死した。社長は余燼あがる市内の状況を調査し、翌朝から焼失した工場の灰掻きを行い、コンデンスミルク、粉乳などの焼け残りを、甘味に飢えた附近の住民に分配した。/工場の焼失により毎日集まる百余石の牛乳は処理を一応森永乳業平塚工場に依託して酪農家達の急場を救う事にした、百余名の全従業員に対しては、工場の焼失と尚戦争は熾烈を極めているので涙を揮って工場の解散を宣告した。(カッコ内引用者註)
  



 コロネット作戦は、米軍100万人を動員しての上陸作戦計画だったが、平塚大空襲と前後して前線の米軍基地には、6万発もの毒ガス弾(サリン弾)が輸送されている。沖縄戦で20,000人を超える死者を出した米軍は、市街地の焦土化とともに生き残った軍隊や住民をひとり残らず殲滅する、空からのサリン攻撃を準備していた。

◆写真上:コロネット作戦計画で、米軍の上陸が予定されていた平塚海岸。
◆写真中上は、1946年(昭和21)に撮影された馬入川(相模川)近くの海岸線。は、敗戦後まもなく相模湾に集結した連合国軍の艦隊で、背景は真鶴半島から箱根・富士山。
◆写真中下は、1945年(昭和20)夏に作成された海軍の「聯合国移動艦隊ノ本土攻撃」(公文書館蔵)。は、風と波でできた平塚海岸の砂丘。は、平塚市の戦災地図。7月16日のほか、焼け残った地区に向け7月30日と8月2日にも爆撃が行われている。
◆写真下は、1946年(昭和21)撮影の平塚大空襲時に最初の照明弾が投下された花水川河口あたりの海岸線。すでに、戦後の住宅建設がはじまっている。は、平塚海岸近くのあちこちに残るクロマツ林。は、同年撮影の平塚駅周辺にみる市街地の惨状。