以前、下落合の近衛町Click!を開発した東京土地住宅が、つづけて林泉園の周辺を近衛新町Click!として販売しはじめたところ、東邦電力の松永安左衛門がすべての分譲地を買い占めてしまい、そこに松永の自邸をはじめ会社の幹部宅や、家族のいる社員向けに社宅を建設している経緯を書いた。東邦電力は、1922年(大正11)の夏に用地を取得しているので、社宅は大正末から昭和初期にかけて少しずつ建てられていったとみられる。林泉園Click!の西側と南側に展開した東邦電力の社宅Click!は、すべてが西洋館仕様のオシャレでモダンな雰囲気が横溢していた。
 大正の後期になると、東京の郊外にまるで目白文化村Click!洗足田園都市Click!をまねた、文化住宅風の社宅やアパートメントを建てる企業が出はじめている。あるいは、社員が出勤する利便性を考え、企業の本社や工場のある敷地周辺の土地を買収し、まとめて社宅を建設するケースも見られた。これは企業ばかりではなく、官公庁の舎宅建設でもその傾向が顕著になりつつあった。
 京浜東北線・川口駅西口の川口町に、農商務省の燃料研究所が建設されたのは1921年(大正10)のことだ。その直後から、燃料研究所を取り巻く敷地に、研究所職員のための舎宅が建設されはじめている。燃料研究所では、舎宅を洋館にするか和館にするかで、職員たち全員にアンケート調査を実施している。その結果、和館の要望が多数を占めて、燃料研究所の舎宅群は和風建築が主体となった。ただし、舎宅の共有施設であるクラブハウスや共同浴場などは、すべて洋風のデザインが採用され建設されている。
 地元では、燃料研究所の舎宅街のことを、その設備のよさから「川口文化村」と呼んでいたようだ。すべてが和風建築なのに、「文化村」と呼ぶのは奇異な感じがするのだが、そう呼ばれてしかるべき先進の設備や仕組みを取り入れていた。燃料研究所が掲げた舎宅建設のコンセプトは、「よく働く者はよく遊ばなければならぬ、偉大なる仕事を要求するためには偉大なる遊楽を与へなければならぬ、而もそれが単に当事者にばかりでなく家族全体を包容しなければならぬ」というものだった。これにもとづいて建設されたのが、森林に囲まれた自然公園が付属する「川口文化村」だった。
 「川口文化村」の訪問記が、同年に発行された「主婦之友」3月号に残されている。
  
 小さな文化村
 汽車が埼玉県川口町駅に進入すると、すぐ構外にある白い建物が車窓に映ります。これが農商務省の燃料研究所で昨年竣成したものであります。この白亜館の前後に一風変つた住宅が冬木立の間に散在し、或は建築されつゝあるのが目につきます。荒涼たる平野の一部に富士の白峰を背景として、温か味に富んだ赤瓦の屋根が大小入り雑つて、それが何れも一定の方向に斜角をなして規則正しく列んでゐます。まだ二十戸ぐらゐしかできてゐませんが、四十戸ぐらゐは立ち並ぶ予定であります。この住宅に囲まれて中央に共同浴場(略)や倶楽部の建物が目を惹きます。このあたり一帯が共同庭園となるので、それから入口にかけて、八間幅の道路が一直線に貫いて、両側に並木を、中央に街燈を配置して巴里のシャンゼリゼー街を偲ばせるやうな美観を添えたいといふ計画でありますが、只今はその埋立工事中であります。/道路ができ庭園ができた暁には、これらの住宅全部が楽園に包まれることになります。
  



 現在の川口駅西口からは、想像もできない情景なのだが、実際に写真も残っているので計画どおりに建設されたのだろう。1936年(昭和11)の時点でさえ空中写真を眺めてみると、駅前の緑ゆたかな「川口文化村」を確認することができる。
 住宅のタイプは、甲号・乙号・丙号・丁号と規模が異なる4種類が設計されている。甲号住宅は所長や役員たちとその家族が入居し、乙号住宅は上級管理職、丙号住宅は下級管理職か一般研究員、丁号住宅は一般研究員か判任官雇員、職工など、その様式によって各戸が住み分けられていた。建築費は、乙号住宅で4,850円、丁号住宅で2,650円だったという。
 「川口文化村」と呼ばれた理由は、生活スタイルが既存の住宅街とは大きく異なっていたからだ。まず、住宅の中心に共同炊爨所(給食センター)を設置し、希望する家庭に戸別配達するシステムを採用している。「主婦之友」が取材した時点では、まだ昼食のみの支給だったが、朝食や夕食を配達する仕組みづくりを準備している。これにより、希望する家庭では主婦の労働がかなり低減されることになった。燃料研究所の食堂では、共同炊爨所で調理した料理が出され、大正デモクラシーの世相を反映してか、所長から職工までが同じ部屋のテーブルで食事をしている。

 

 天候に関係なく、洗濯物をすばやく乾かせるよう、燃料研究所の汽罐室の余熱を利用した乾燥室の設置も計画されている。また、丁号住宅には浴室がないので共同浴場へ通うことになるが、甲・乙・丙号住宅には浴室が付属しているものの、気分転換に広い共同浴場を利用することもできた。
 電気に水道、ガスなどの生活インフラが完備され、特にガスは燃料研究所の工場で生産したものが各戸に支給されるので、一般のガス会社のものより格安で利用できた。なお、目の前には緑が繁る庭園があるので、特に広い庭は設置されなかったようだ。
 同誌から、舎宅の風情についての記事をつづけて引用してみよう。
  
 日当りと風通しのよい家
 住宅は何れも東南向きとなつてゐます。そのために道路に沿うて、ある斜角をなして列んでゐることになります。これがために何の家も皆日光を十分に受けて、何の室一つとして日の当らないところはないのであります。少くとも一日一回は万遍なく日光が見舞つてゆきます。それで室中が明るくて風通しがよく、冬は温かで夏は涼しくできてゐます。それに床が高くて大人でも立つて肘がかゝる位であります。(中略) 床下の羽目板は板と板との間を隙して空気の流通をよくし、湿気を防いであります。/縁側には硝子戸をはめ、窓も出入口も皆硝子戸になつてゐます。すべて日本風の建築でありますが、これは所員の希望に基づいたもので、最初は和洋何れにすべきかゞ大分問題であつたさうですが、やはり習慣上日本住宅の希望が多かつたために、かうした形式をとるやうになつたさうであります。
  



 「川口文化村」では、さまざまな娯楽施設の建設も予定されているが、「市中の低級な娯楽」を駆逐するとかで、「洗練された高雅な娯楽施設」の設置を計画している。「主婦之友」の記者が取材したときは、いまだ計画中で明らかにされていないが、その後、どのような施設が設置されたものだろうか。テニスコートや運動場はあったと思うのだが、大正末から昭和初期に大ブームとなるビリヤード場や映画館も、川口駅前という立地からほどなく建設されたのではないだろうか。

◆写真上:舎宅街の中央に設置された、木立の中の洋風共同浴場。
◆写真中上は、竣工当時の農商務省燃料研究所。は、林に囲まれた「川口文化村」の舎宅街。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる「川口文化村」。
◆写真中下は、1922年(大正11)に発行された「主婦之友」3月号の記事。中左は、職員全員が昼食をとる燃料研究所の食堂。中右は、湿気を防ぐために縁の下が1mを超える設計の舎宅。は、燃研幹部用の乙号住宅設計平面図。
◆写真下は、一般職員用の丁号住宅。は、丁号住宅の設計平面図。は、1947年(昭和22)に撮影された「川口文化村」で空襲の被害をあまり受けていない。