大正期から昭和初期にかけ、警視庁の衛生部では牛乳の衛生管理にことのほか厳しかったらしい。いや、警視庁に限らず全国の警察署では、牧場や牛舎の建設・運営にはじまり、乳牛の飼育環境から搾乳、牛乳の保管・運搬にいたるまで、大きな権限をもっていて執拗な「指導」を行なっていたようだ。
 乳牛を飼育する専門家の側にしてみれば、畜産や乳牛についてほとんど知識のない警察が、各種認可・許可の制度を盾に、半分シロウト考えでいろいろ注文をつけてくるのだから、たまったものではなかったろう。落合地域にも多かったとみられるが、農家で数頭の乳牛Click!を飼育し、毎朝搾った牛乳を契約した東京牧場Click!からまわってくる大八車やトラックに載せて、現金収入を得る兼業農家が各地で見られた時代だ。ところが、ほどなく農家での搾乳が警察により禁止されると、どこかの牧場か認可を受けている専門の搾乳業者へ乳牛を預けざるをえなくなった。
 また、牛乳を搾る人間にもなにかと注文をつけ、しまいには本人の健康診断書まで提出しなければ認可しないという、嫌がらせとしか思えないような指示までだされていた。搾った牛乳は、売るときばかりでなく購入するときも自治体や警察の許可が必要だった。牧場や畜産農家、牛乳加工業者にしてみれば、警察がいかに牛乳を搾らせないよう、あるいは乳製品を造らせないよう“邪魔”をしているとしか思えなかったようだ。警察へ何度も足を運んでいるうち、事業としてコストに見合わないと、転業してしまった酪農家や業者も多かったらしい。
 牛乳の生産事業を、なぜこれほど煩雑化して居丈高に取り締まるのかが、後世になって振り返ってみても不可解な時代だったようだ。当時の様子を、平塚の守山乳業Click!が1979年(昭和54)に出版した『守山乳業株式会社60年史』(非売品)所収の「座談会」から引用してみよう。
  
 あの時分、農家で乳を搾ることは禁止されていて、牛乳を売ることができない。だから、小田原の牧場に預けたんです。搾ったって、売りようがないからね。その時、たまたま、二宮へ中村畜産株式会社が東京から来て、牛乳を買うということになった。ところが、乳を買う場合にも許可がいる。それで役場やほうぼうへ頼んだものだった。たまたま私の知り合いがちょうど県の畜産技師をしていて、その人が見にやって来た。そこで、下をコンクリートか何かにして、窓もつくって、こういう牛舎にしてと言うんだ。また搾る本人が健康診断を受けるようにとも言われた。そして、健康診断を受けて初めて許可になって、認可証をもらったんだよ。(中略) 衛生の方面は警察がやっていたね。許可証は赤の字で印刷されていて、今でも家にとってありますよ。(中略) 牛舎をつくるんだって、あの当時は、便所から六間とか八間離れていなきゃ許可がおりなかった。私だって、藤沢の警察までどれほど通ったかわからないよ。
  
 確かに、牛乳生産では衛生管理が不可欠だが、商品化の過程で殺菌法がいまだ未確立だった明治時代ならともかく、大正後期から昭和初期にかけては、すでに生産技術や衛生管理技術がかなり進んでいたはずだ。それでも警察が衛生管理にこだわったのは、特に夏季に多い牛乳の腐敗事例が多かったからだろう。


 当時、駅のミルクスタンドや販売店に置かれていた牛乳・乳製品には、大手メーカーの壜やパッケージをそっくりまねたニセモノも、数多く混じって出まわっていた。その中には、少し前にご紹介した「牛乳ホウ酸混入事件」Click!のように、夏場の腐敗を遅らせるために有害な薬物を混ぜた、劣悪な製品も市場で売られている。たとえば駅売りの業者は、日本均質牛乳や守山商会から仕入れるコーヒー牛乳よりも、1~2割安く購入できる「クラブ印コーヒー牛乳」や「守山コーヒー牛乳」があれば、利幅が増えるのでそちらのルートから仕入れただろう。
 だが、両社の壜を使っているとはいえ、中身までがホンモノかどうかまではわからなかった。商談では、ホンモノの「クラブ印コーヒー牛乳」や「守山コーヒー牛乳」を試飲させておき、実際に各駅へ納入するのは模造品というような、詐欺やペテンまがいの商売もあったようだ。
 また、電気冷蔵庫Click!が高価で普及していない当時、乳製品企業は夏場の腐敗をいかに防ぐかの研究に全力を傾けていた。牛乳を常温で保管したら、数日で腐ってしまう。そこで、さまざまな腐敗防止の技術が追究されていた。同社史から、つづけて引用しよう。
  
 大正十二年の震災の時には珈琲牛乳をつくり始めていますね。それは、親父(守山謙)が珈琲というものを飲まされて、ミルクを半分ぐらい入れて飲むとうまいということを知ったのですね。そこで、最初にそれをつくってビンに入れたわけですが、殺菌方法を知らないものだからみんな腐ってしまった。(中略) なにしろ二日か三日で腐ってしまう。そこで、あの当時やっていたバックへ入れて殺菌する方法を一生懸命考え出して、やっと十五日か二十日、もしくは一ヶ月ぐらいもつような珈琲牛乳ができたのです。(中略) 珈琲牛乳が腐ってしまっていくらやってもうまくいかないので、静岡のどこかの工場に(守山)謙社長さんが先方に泊まり込んで、教わりに行ったこともあったそうです。(カッコ内引用者註)
  
 この静岡にあった工場が、日本で初めてコーヒー牛乳を開発・販売した、東京の中野に本社のある日本均質牛乳だった。守山商会は、ここで消毒した壜に牛乳を詰め王冠打栓の密閉をすることで、腐敗を大幅に遅らせる技術を習得したらしい。
 さて、以上のような時代背景のもと、警察からさんざん絞られ、時代遅れのような指示や煩雑な手続きを厳しく押しつけられていた酪農家や乳製品業者は、1929年(昭和4)の初夏、東京じゅうに貼りだされた警視庁のポスターを見て、全員が呆気にとられただろう。ポスターのキャッチフレーズは、「牛乳ハ健康ノ素……警視庁」。ほとんど嫌がらせのように、酪農家や乳製品業者を締めあげていた警視庁が、いきなり酪農家や乳製品業者の“広報・宣伝部”になってしまったのだ。



 当然、消費者からは「税金を使ってなにやってんだよ!」と、警視庁に批判が殺到した。当時の様子を、1929年(昭和4)5月26日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 奇怪、警視庁が牛乳屋の提燈持ち/ポスター撤回騒ぎ
 牛乳といへば眼の敵のやうにしてゐた警視庁が川村衛生部長時代の罪亡ぼしとでも考へたものか、それとも何うした風の吹き回しなのか、写真の如きまるで牛乳屋の広告としか思えぬ しかも立派なポスターを管下の警察署や交番や街路のつじつじに張りださせた、喜んだのは牛乳屋でこの前 面皮なきまでとつちめられた苦しい思ひ出はケロリと忘れて「時代時節でお上のお役人さんも我々の提燈を持つてくれるわい」と今では警視庁大明神様々あがめ拝んでゐる、なるほどポスターには牛乳取扱に対しての注意も記してあるが、それは「つけたり」の如く下の方に小さく記し大きな字で「牛乳は健康の素」と真ツ正面から牛乳屋の大提燈を持つてゐるので牛乳屋の喜ぶのも道理である、途方もないこの見当違ひの宣伝ポスターに果然と攻撃のつぶてはあつちこつちから戸塚衛生部長の手許に投書され、中にはわざわざこのポスターを引つぺがして部長に直接面接の上「府費をつかつてまで牛乳屋の提燈をもつ気か……」と談じこんでくる者まで飛びだしてくる始末にさすがの戸塚さんもスツカリ弱りきつて早々このポスターは撤回させるといふ醜態をさらけだすことになつた
  
 警視庁では、すでに当該ポスターを3,000部印刷して、東京府内へくまなく配り終えたあとだった。サブキャッチ扱いで目立たなくなっている、「牛乳は冷い所におきなさい」と「牛乳は配達後なるべく早くお飲みなさい」ではなく、なぜ「牛乳ハ健康ノ素」がメインキャッチになってしまったのか、戸塚衛生部長は「文字の表現が悪かつたので誤解を招く因となつた」としているが、この表現は「誤解を招く」レベルではないだろう。


 もうひとつ、当時は牛乳や菓子にグリコーゲンを混ぜ、「健康増進」をうたい文句にする製品がブームを呼んでいた。守山商会でも早々に「守山グリコ牛乳」を販売しているが、「グリコ〇〇」と名づけられた製品には、まるでロシアアヴァンギャルドの「プロレタリア体育祭」ポスターにでも登場しそうな、元気なお兄さんがゴールするイラストが付きものだった。警視庁のポスターは、そのようなグリコーゲンブームも意識してデザインされているところが、よけいに「大提燈」のように見えてしまったゆえんだろう。

◆写真上:昭和時代に、守山商会が制作した製品ポースター各種。右側の「富士エバミルク」ポスターのスチールモデルは、下落合を舞台にした『お茶漬の味』(監督・小津安二郎/1952年)の奥様役でお馴染みの木暮実千代Click!。左側のモデルは、森光子か?
◆写真中上は、戦前に神奈川県で撮影された典型的な酪農家。は、1928年(昭和3)の夏に吉屋信子Click!が下落合の散歩道で撮影した乳牛ホルスタインClick!
◆写真中下は、茅ヶ崎町中島にあった戦前の守山牧場。は、戦後の守山乳業宣伝車。は、1979年(昭和54)に撮影された平塚市宮の前の守山乳業本社。わたしが子どものころから建っていたはずだが、駅の北と南でエリアがちがうせいか見憶えがない。
◆写真下は、1929年(昭和4)5月26日(日)発行の東京朝日新聞。は、同年夏に警視庁衛生部が制作して東京じゅうにバラまいてしまった「牛乳ハ健康ノ素」ポスター。

過去に書いた記事で、SSL化が済んだhttpsページの選択カテゴリーテーマ「地域」設定が、すべて外れているのに気がついた。こういう細かいけれどとても重要な設定箇所を、So-netさんはちゃんと検証しているのだろうか。