「ぐりこ」さんより、主婦へのご褒美の「おまけ」が足りないという、ちょっとお叱りコメント(前記事参照Click!)が寄せられましたので、^^; あとひとつだけ「おまけ」の記事を追加します。これがメンテ作業前の最後ということで、どうぞよろしくお願いします。<(_ _;)> (アイスのジャイアントコーンに「おまけ」なんてないんだけどなぁ)
  
 「君を救う道は、僕との結婚以外にはない」…、この言葉は下落合に住んだ洋画家・中村忠二Click!が、30歳ほども年下の若い女画学生(のち弟子)に舞い上がったときに吐いたらしいセリフだ。また、1955年(昭和30)9月19日には、「芸術の興奮をよりよき恋愛にまで高めるために火の如き接吻をする」と書いたメモを、妻の洋画家・伴敏子Click!に見られている。このとき、中村忠二は57歳だった。
 それに対する伴敏子の反応は、「ドン・キホーテのお共は、もう御免よ」「男はもうこりごり」「あの人は今馬を屠殺場に遣って、豚にまたがって天国に行こうと思っているようよ」……などなど諧謔的なものばかりだった。それをどこかで漏れ聞いたのか、中村忠二は「偉い女など女房に持つもんじゃあないよ」と友人に語っている。そんな悲喜劇が繰り広げられたふたりのアトリエは、伴敏子の年譜によれば1935年(昭和10)に(中村忠二の年譜によれば1938年に)、下落合4丁目2257番地(現・中落合4丁目)に竣工している。アトリエの建設費の多くは伴敏子が負担していたせいか、若い女にトチ狂った中村忠二は出ていかざるをえなくなった。
 ふたりが住んでいた下落合のアトリエを描いた、中村忠二の「下落合風景」を見つけたのでご紹介したい。今年の夏に練馬区立美術館で開催されている、「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」に展示されていたものだ。そう、中村忠二は佐伯祐三Click!と同じ1898年生まれであり、ともに今年が生誕120年Click!にあたる。下落合4丁目2257番地のアトリエは、目白学園の北東側に位置しており、玄関が南を向く和館とも洋館ともとれる微妙なデザインの2階家だった。
 南側の接道から、狭い路地を入ると突き当たりに細い門柱が立ち玄関へとつづく、53坪ほどの旗竿敷地だった。20畳サイズのアトリエを中心に、6畳のリビング、2階の寝室は4畳半というシンプルな間取りで、ふたりは生涯の多くをここですごし作品を制作しながら生活している。南側の接道から北に向き、降雪後の路地とアトリエをとらえた画面が、冒頭の敗戦間もない1946年(昭和21)に制作された中村忠二『雪の我が家』だ。
 「我が家」というタイトルを付けているが、すでに中村忠二と伴敏子は最初の“夫婦別れ”をしている。日本の敗色が濃くなりつつある1943年(昭和18)、伴敏子からの提案でふたりは夫婦関係を解消した。そこで、伴敏子は1階の広いアトリエにベッドを据えて寝室とし、中村忠二は2階の4畳半が居場所となった。だが、翌1944年(昭和19)になると、東中野に住んでいた伯母を引きとり2階を提供したので、中村忠二は居場所がなくなり、1階のアトリエで再び伴敏子と生活をするようになった。
 10年後の1955年(昭和30)8月、中村忠二は水彩連盟の講習会で画家をめざす若い女性と知り合い、急速に親密になっていく。57歳の中村忠二が、前出の歯の浮くようなキザな台詞を臆面もなく吐いたのはこのときだった。そして、9月になると練馬区貫井町1275番地(現・貫井5丁目)に小さな平家を借りて、伴敏子との別居生活に入り、ほどなく彼女とは正式に離婚している。
 そのときの様子を、1977年(昭和52)に冥草舎から出版された伴敏子『黒点―画家・忠二との生活―』から引用してみよう。同書は、登場人物たちの多くに仮名を用いており、「陽子」は伴敏子、「貞子」が中村忠二の入れあげている若い女性のことだ。
  
 「もう無駄よ、誰が何を云ったって。一度あの人の思うようにさせた方がいいのよ。とやかく云っても苦しめるばかりよ。お互い別々になって反省しましょう。私は他に好きな人が出来たわけではないから、あの人がもう一度惚れ直せるような男になったら、私から頼んでも帰って貰うわ」/靴を履く蔵原の後から、陽子は玄関で云った。/忠二は庭の花の根を起こして練馬の庭に植えに行ったり、上京して来ると云う貞子の妹を二人で迎えに行ったり、この二、三日はとても忙しかった。多忙のなかを高田馬場のパール座で貞子と二人で映画を見たり、暗い夜道では烈しい雨の中傘を傾けて熱い接吻を繰り返した。まるで彼の血が一度に若返って青春を取り戻したようであった。
  


 
 余談だが、小さな名画座だった高田馬場パール座はわたしの学生時代まで営業しており、よく2本立ての映画を観に出かけた。いまも、その前をときどき通るけれど角の和菓子屋さんは健在だが、パール座はとうにつぶれてライブハウスになっている。
 中村忠二は、伴敏子と正式に離婚して練馬にアトリエをかまえているにもかかわらず、しばしば下落合の旧「我が家」を訪問している。それは、伴敏子が留守のときをねらって侵入していたようで、いろいろなものを貫井のアトリエへ運んでいたらしい。上野の展覧会で、偶然ふたりが出くわしたときの様子を、同書から再び引用してみよう。
  
 「しばらくね、今日は。お元気ですか。たまにはお気晴らしに、落合へも一杯やりにいらっしゃいよ、お二人で。貞子さんはお元気?」/と陽子は声をかけた。/留守を知りながら落合に行っては、柿を取って来たり、風呂に入ったりした忠二であった。面と向かってこんなふうに云われると、忠二は何となく慌ててどう答えたかも覚えがなく、別れた。/上村哲二の家のS連盟委員会の席上、忠二は陽子からやや離れたはす向かいに座を占めていた。横顔のやつれや人相が何となくみすぼらしかった。この人が私の良人であったのかと、陽子の心をひどくうそ寒い思いにした。
  
 「S連盟」とは、もちろん現在も存続している水彩連盟のことだ。「貞子さん」こと若い女弟子の愛人は、中村忠二が貫井にアトリエを設けた翌年、1956年(昭和31)の夏ごろにはさっさと逃げていってしまったらしい。前年の冬から、そんな予感がしていたものか、中村忠二が日記がわりに書き残していた覚書きには、「これにて完全に大方は清算され、自分は孤立となる」と書かれている。
 翌1957年(昭和32)11月には、自分のもとを去った愛人の弟子に、いまさらながらの「破門状」を発送しているようだ。言い換えれば、1年は待ったことになるだろうか……。同時に水彩連盟も脱退し、各地のギャラリーで個展や二人展(山本蘭村と)を中心に活動している。そして1年がすぎるころ、中村忠二は下落合へ捨て去ったはずの伴敏子のアトリエに、再び現れるようになる。



 このとき、中村忠二は「復帰という仮定の心組みの前で或る不定の期間を、お互いに現在の状態でいてみる。その期間で復帰することが最上のことかどうかが、はっきりして来るであろう。その上双方が復帰を肯定する時に、そのことを決める」などと、若い女弟子に舞い上がり家出して離婚した男の言い草とは思えないようなことを書いて、伴敏子に6ヶ条の要求を突きつけている。残された彼の覚書きを、同書より引用してみよう。
 一、お互いに過去の一切を放棄して触れない
 一、健康と仕事を第一義とし、それを愛情の上に置く
 一、落合、貫井の家は現在のまま仕事場として保有する
 一、相互の財物は復帰と同時に共用とする
 一、戸籍の復帰はどうでもよろしいが将来財物の関係もあるから適当と思われる時に復帰しておくべきである
 一、別々の家に於ける双方の素行については、お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする 要はさらっとした明かるい愛情の上で仕事に専念し、お互いの未来について、一つの安心感を持って行こうということにつきる
 芸術家のあるタイプには、救いようのない底抜けの非常識で愚かな側面があるのは、ひとり中村忠二に限らない。「(戸籍を)復帰しておくべきである」「お互いを信用し、その信用を裏切らないようにする」とは、どの面(つら)下げて元妻に要求しているのだろうか? しかも、大雨で貫井のアトリエが水害に遭い、困った挙句に下落合の元妻のアトリエを頼って、避難してきた際に出した6ヶ条の要求らしい。
 おそらく、伴敏子が憤怒にあふれた怖ろしい顔をしたのだろう、中村忠二は彼女の誕生祝いと称して財布から1万円札を出すと、彼女(陽子=伴敏子)の手に握らせた。ちなみに、給与換算指標に照らし合わせると、当時の1万円は今日の約20万円に相当する。
  
 忠二は陽子の誕生祝と、復帰祝のための宴会費用として、一万円を彼女に手渡して、/「僕は細い鎖の首飾りが好きだから、そういうのを買いなさい」/と云った。/また落合に帰る土産として洗濯機を買ってやると忠二は云った。洗濯機は落ち着いたら、二人で秋葉原あたりに買いに出ようということになった。忠二は月の半ばを落合で暮すようになるので生活費として月々三千円を出すことにすると云った。/この三千円は、以後十七年に亘って再度貫井に引き籠る昭和四十九年まで続いたのであった。
  
 1973年(昭和48)暮れの忘年会で、中村忠二は元妻が激怒する取り返しのつかない失言をしたようで、伴敏子は「貫井に引き籠る」と表現しているが、ついに下落合のアトリエを永久に追放された。1975年(昭和50)2月28日、中村忠二は貫井のアトリエで倒れ、急性心不全のため死去している。77歳だった。


 
 戦後間もない1949年(昭和24)3月、中村忠二・伴敏子アトリエから北北東へ直線距離で280mほどのところ、西落合1丁目31番地に住んでいた料治熊太Click!が、ふたりのアトリエを訪問している。中村忠二は、料治熊太が出版した谷中安規の版画集を見て、のちに代表作のひとつとなる詩画集の刊行を思いついているようだ。
 練馬区立美術館で今夏開催中の、「生誕120年 中村忠二展―オオイナルシュウネン―」は7月29日(日)まで。それでは、またお会いできる日を、楽しみに……。

◆写真上:1946年(昭和21)の降雪日、自宅を南側から描いた中村忠二『雪の我が家』。
◆写真中上は、中村忠二・伴敏子アトリエ跡の現状。は、中村忠二が描いたアトリエ素描。下左は、2018年(平成30)夏に開催された「生誕120年中村忠二展―オオイナルシュウネン―」図録。下右は、1955年(昭和30)の第14回水彩連盟展で撮影された伴敏子(手前)と中村忠二(中央奥)。
◆写真中下は、1930年代に制作された中村忠二『不詳(畑)』で落合西部に拡がっていた畑地風景の可能性がある。は、1947年(昭和22)に制作された中村忠二『道』で同様に落合地域を描いた可能性がある。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合4丁目2257番地の中村忠二・伴敏子アトリエ。
◆写真下は、1951年(昭和26)制作の中村忠二『霜の花』で下落合アトリエの庭先だろうか。は、1984年(昭和59)の空中写真にみる伴敏子アトリエ。伴敏子は1993年(平成5)に死去しているので、この撮影時はアトリエに「水彩連盟」の看板を掲げ画塾を開いていたはずだ。下左は、1960年代半ばごろに撮影された中村忠二と伴敏子。下右は、練馬区貫井にあった中村忠二の小さな平家アトリエ。
おまけ
 セミたちがこの暑さで、一斉に地中から出てきたようです。写真の幼虫は、大きさからミンミンゼミの幼虫のようですね。