この夏、日本橋「復活」のニュースがとどいたので急遽、記事を書いてみたくなった。
  
 別に親父は、ちあきなおみの歌が好きだったわけではなさそうだけれど、戦後は「♪4つのお願い聞いて~」の運動や活動へ取り組み、積極的にかかわってきた。(わたしも、及ばずながらそうしているが) その「4つの願い」とは、薩長政府の大日本帝国が滅亡した1945年(昭和20)以来、戦前から、いやおそらく明治期も含めた先祖代々一貫してつづく、江戸東京人のフリーメイソン的な友愛組織Click!をベースに、江戸東京ならではの文化や風情を復活させる運動や活動への取り組みだった。
 もっとも、表には目立たないフリーメイソン的な「地下組織」などなくても、いまや江戸期からつづく地付きの江戸東京人の人口は増えつづけ、250万~300万人(東京23区の人口の26~31%)ともいわれているので、地元民が結束して「大江戸ファン」の同調者や協力者をあまねく含めれば、親父の世代とは比べものにならない相当な活動力や事業力、そして機動力を発揮できるだろう。
 それらのテーマには、明治期から延々とつづいてきた課題もあった。ひとつめは、もちろん江戸東京総鎮守である神田明神社Click!へ、下落合の将門相馬家Click!ともゆかりの深い平将門Click!を主神へ復活させる運動だ。この活動は長く戦前からつづいていたが、戦後はさらに激化して神社本庁へヒートアップしたデモ隊が押しかけ、あわや討ち入り・打(ぶ)ちこわし寸前になったというエピソードさえ聞いている。そして、平将門は1984年(昭和59)、およそ100年ぶりに神田明神の主柱Click!へと復活している。(薩長政府が勧請したスクナビコナは、あえて追放Click!しなかったようだ)
 ふたつめが、1732年(享保17)に徳川吉宗Click!が伝染病と飢饉の厄落としとしてはじめた、両国花火大会Click!の復活だった。戦後、1961年(昭和36)から1977年(昭和52)までの16年間、大橋(両国橋)Click!の周辺はビルや商店、住宅などの稠密化による火災の危険や交通渋滞、大川(隅田川)Click!の汚濁による不衛生などを理由に、両国花火大会は中止されていた。この間、日本橋や本所などの地域をはじめ大橋(両国橋)周辺域の人々は、花火復活の運動を絶え間なくずっとつづけていた。だが、消防署の認可がどうしても下りずに、中止から16年もたってしまった。
 しかし、元祖の大橋(両国橋)ではなく、やや上流の駒形橋と言問橋付近で1尺玉以下の打ち上げ花火での開催が認可され、1978年(昭和53)の夏に、1732年(享保17)から1961年(昭和36)までつづいた「両国花火」Click!(戦時中は一時中断)という名称ではなく、「隅田川花火大会」という名前に衣替えして再開されている。ちょうど、わたしが学生時代に復活した大川の花火大会に、親父は「両国花火じゃなくて残念だ」といってはいたが、TVの中継を観ながら目をうるませていた。
 親父が生きていた時代に、かねての「4つの願い」のうち実現できたのは、上記のふたつだけだった。親父が願った3つめのテーマとは、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、日本橋区が空襲とその延焼に巻きこまれたとき、ひとつの大きな避難目標Click!にしていた東京駅舎についてだ。親父の言葉をそのまま借りれば、「東京駅を元どおりにすること」だった。同年5月25日夜半の空襲で、東京駅はレンガの外壁を残してほぼ全焼している。戦後に応急措置として再建された駅舎は、建築・土木が専門Click!だった親父にしてみれば、「ぶざまな姿になっちまって」ということだったのだろう。
 自身が見慣れた東京駅舎とは、ほど遠い姿になってしまった駅舎を復元することが、次の大きな“目標”になっていたにちがいない。だが、東京駅の復元は今世紀に入ってから具体化しており、2007年(平成19)の起工時に親父はすでに他界していなかった。あと15年ほど長生きをすれば、親父がいつも目にしていた、そして東京大空襲のときには逃げのびてホッと見上げた、東京駅の姿を眺めることができたのに……と思うと残念でならない。



 「4つの願い」の最後は、もうおわかりの方も多いと思うが、もちろん江戸東京の中核である日本橋Click!の「復活」だ。日本橋は、もちろん19代目の石橋として現存するのだけれど、ここでいう「復活」とは、地元の反対にまったく耳を貸さず、1964年(昭和39)の東京五輪のドサクサにまぎれて「いけいけどんどん」Click!(小林信彦)で工事を強行した、犯罪的な首都高速道路をなくして日本橋の景観を元にもどす……という意味合いで使われている。親父は、このテーマにもっとも肩入れをしていたけれど、おそらく「4つの願い」の中ではもっともリアリティが希薄なテーマに感じていただろう。
 しかし、ようやく今年(2018年)の7月、2020年に開催予定の東京五輪の直後2021年より、ぶざまな高速道路を取っ払(とっぱら)って「復活」への工事がスタートすることに決定した。日本橋川の上に架かる首都高を、すべて解体して地下化するという工事計画だが、総事業費3,200億円がかかるという。このうち、2,400億円を“主犯”である首都高速道路(株)が負担し、残りを東京都と中央区、地元企業が各400億円ずつ負担するという事業計画だ。ある地域や街のアイデンティティが営々とこもる歴史的文化財や記念物、景観などを地元の声に耳を傾けることなく、なんの考慮や配慮もせずに「開発」(=破壊)すると、あとでどれほど高いツケがまわってくるかの典型的な見本だろう。事業の推進は、国土交通省に設置されていた検討会が主体となっている。
 工期は、いまだ調査段階でスケジュールがフィックスできていないが、2021年にスタートする工事は早くて10年、つまり2031年には地下高速道路が竣工すると見こんでいる。ただし、なんらかの理由で工事が遅延したりすると最長で20年、2041年までかかるとしている。前者の2031年なら、わたしはまだなんとか生きていられるかもしれないが、2041年となるとちょっと怪しい。そのかわり、東京駅舎の「元どおり」がそうだったように、わたしの子どもや孫の世代が確実に目にすることができるだろう。きちんとした本来の美しい日本橋の姿を、幼児期のおぼろげな記憶しかないわたしとしても、ぜひもう一度眺めてみたいものだ。



 さて、親父の世代までは「4つの願い」だったが、わたしの世代ではもうひとつ、大きなテーマが加わっている。これも、かなり昨今はリアルかつ話題にもなってきているので、東京にお住まいの方ならピンとくるだろう。もちろん、城郭としては世界最大の規模を誇る、千代田城の天守復活だ。防災とからめた一部外濠などの復元は、数寄屋橋の復活を視野に入れているとみられる銀座通連合会Click!などにおまかせすることにして、江戸期の早い時期(1657年の明暦大火)に焼けてしまい再建されなかった、千代田城の中核にあたる日本最大の天守をぜひ復元したい。
 千代田城は、江戸幕府が開かれてから建設されたと思われている方が多いが、同城は三方を海に囲まれたエト゜(鼻=岬)の付け根近くに位置する柴崎村西部の千代田(チオタ・チェオタ)地域へ、1457年(康正3)に太田道灌が「江戸城」Click!を築いたのがはじまりであり、現代までつづく最古クラスの城郭でもある。現存する天守台は、実際に天守が築かれていた時代から多少は加工されているが、それを元どおりにして日本最大(高さ約61m)の天守を復元し、日本橋とともに江戸東京のシンボルにしたいのだ。
 現在、内濠内には天守台を含む本丸、二ノ丸、三ノ丸、北ノ丸が公園として開放されているので、できれば天守の復活にからめて本丸の一部復元も視野に入れ、外濠域も含めた城郭全体の規模を、もう一度ちゃんと規定し位置づけしたい。そうすれば、「なにもない荒野にオフィス街を創出したのは三菱」などという、いまや250万人を超えるとみられる江戸東京人の神経を逆なでするような、三菱地所レジデンスのCM(荒野じゃねえし! お城つづきで文字どおり“丸ノ内”の大名小路の屋敷群を壊して燃やし、「荒野」化=陸軍演習地化したのは薩長政府だろうが)のような、この街の歴史を踏まえぬデリカシーのないキャッチフレーズやコピーは、江戸東京の地元で「創出」されなくなるにちがいない。



 外壁が白と黒のツートンカラーだった巨大な千代田城天守Click!は、江戸東京の(城)下町Click!ならではのシンボルとして機能するばかりでなく、おそらく「世界最大の城郭」と「日本最大の天守」は、社会的なリソースとして海外から見れば日本観光の大きな目玉となるにちがいない。わたしが生きているうちの復元はおそらく無理だろうが、できればコンクリート構造の建築ではなく木造による天守復元へチャレンジしていただき、本丸も含めた「日本最大の木造建築」の復活も視野に入れていただければと思う。

◆写真上:10~20年後には、確実に消滅することになる日本橋上の首都高速道路。
◆写真中上は、1984年から平将門が主柱に復帰している神田明神社。は、1950年代に撮影された両国花火大会。は、同大会で打ち上げられていた3尺玉。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に応急修復される東京駅。は、空襲の焼け跡がそのまま残る同駅舎内。は、ようやく65年ぶりに復元された東京駅。
◆写真下は、日本橋川から眺めた日本橋の中央部で2011年(平成23)の大洗浄から石組みの色は明るい。は、ひとつが人の背丈ほどもある築石が積み上げられた千代田城天守台の一部。は、平川濠に架かる北桔橋門ごしに眺めた千代田城天守の復元図。
おまけ
木造による再建(現在はコンクリート構造)が企画されている大垣城(左)と、千代田城(右)の同率比較の復元模型。千代田城の規模がよくわかる。