少し前、林泉園の記事Click!へpinkichさんより、中村彝Click!の素描作品が売りに出ていたのをお知らせいただいた。神田神保町にある版画堂のカタログに掲載されていたもので、薄い用紙にペンで描かれたとみられる画面には、『林泉園風景』というタイトルがつけられていた。裏面には、「中村画室倶楽部」の所蔵印が押されている。
 確かに、手慣れた筆致で家々や人物がとらえられており、洋画を勉強してきた人物の手になる作品だと思われる。もともとセピア色インクで描いたのか、それとも黒インクが経年とともに赤茶けた色に変色してしまったものかは不明だが、中村彝の素描作品には確かに鈴木良三Click!が所蔵していた『裸婦』をはじめ、セピアインクまたは変色してしまったのかもしれないインクで描かれた作品を確認することができる。
 下落合の林泉園近くに昔からお住まいの方々なら、すぐにピンと気づかれるはずだが、この素描作品は『林泉園風景』とタイトルされているものの、画面は林泉園Click!の谷間そのものを描いたものではない。湧水源のある谷戸の突き当り、谷間の西側一帯に拡がる丘上の林泉園住宅地を描いたものだ。東邦電力が社宅用に開発した洋風住宅地で、コンパクトなサイコロ状の西洋館と、それを2~3棟くっつけたようなおしゃれなデザインのテラスハウスが、規則正しく建ち並んでいた。
 もともと、東京土地住宅が「近衛新町」Click!と名づけて、1922年(大正11)6月に販売を開始した近衛町Click!つづきの郊外分譲住宅地だったが、同年7月29日に突然販売が中止された。東邦電力の松永安左衛門が、「近衛新町」を丸ごと買い占めてしまい、同社の幹部住宅および社宅建設用地にしてしまったからだ。おそらく、その際に明治末から大正初期にかけ、「落合遊園地」Click!と呼ばれていた谷戸の通称が、東邦電力によって「林泉園」という呼称に変更されているのだろう。1923年(大正12)に東邦電力の庭球部Click!が、すでに「林泉園」という名称をチーム名に取り入れているのが確認できる。
 さて、フランスから帰国した清水多嘉示Click!が、昭和初期に林泉園の谷戸を描いた『風景(仮)』(OP595)Click!にも、丘上に建つ赤い屋根の東邦電力社宅群の一部がとらえられているが、中村彝が描いた西洋館群は、同作のさらにキャンバス左手の枠外に展開していた、建設密度の高い住宅地の一画だ。中村彝は、自身のアトリエがある方角を背に、林泉園住宅地の空き地から南西を向いてスケッチしており、季節にもよるがデッサンの陰影から昼前後、あるいは午後の情景ではないかと思われる。
 描かれた道路は、林泉園住宅地を南北に縦断する道であることがわかる。なぜなら、描かれた屋根の幅の狭い大棟が、道路と平行になっているからで、テラスハウスを除き東邦電力の一戸建ての西洋風社宅は、すべて南北道と大棟が平行になるという“法則”で建設されていたからだ。路上には、ふたりの人物が描かれており、手前の子どもは北へ向け、つまり林泉園の方角へ歩いている。また、奥の主婦とみられる洋装の女性は、目白通りで買い物でもしてきたのか南を向いて歩き、手には買い物袋のようなものを下げているのがわかる。あるいは、どこかへゴミを棄てにいったゴミ箱を持っているのかもしれない。


 この素描が描かれたのは、東邦電力が「近衛新町」を買収した1922年(大正11)の夏以降であり、少なくとも同地域に家々が建ちはじめた1923年(大正12)以降ということになる。また、中村彝は1924年(大正13)の暮れに死去してしまうため、制作されたのは2年弱のうちのいずれかの時期に限定される。だが、中村彝は1924年(大正13)になると病状が悪化し、俥(じんりき)を雇ってようやく展覧会へ出かける以外は、ほとんどアトリエですごす毎日を送っている。外へ散歩に出て、風景をスケッチする体力も気力も、もはや残されていなかったのではないかと思われる。
 そう考えてくると、この作品は1923年(大正12)の半ばから後半にかけて、すなわち東邦電力の社宅群がようやく建ち並びはじめたころに描かれたもの……と想定することができる。また、この時期は関東大震災Click!をはさみ、中村彝が最後の旺盛な創作意欲Click!を見せた時期とも重なっていることに気づく。1923年(大正12)の後半期、彝は晩年の代表作ともいうべき作品を次々に仕上げている。
 中村彝が死去してから2年後、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」をもとに、彼の足どりをたどってみよう。彝はアトリエの勝手口を出ると(正門はほとんど閉めきりで使われなかった)、サクラ並木が繁る林泉園沿いの道を西へ60mほど歩き、テラスハウス仕様の社宅に入る林邸と、東邦電力合宿所にはさまれた小道を左折した。南に向かうと、突き当たりが大きめな社宅の泉邸で、クラックした道をさらに南へ進むと、描画ポイントの空き地が見えてくる。建築資材でも置かれていたか、あるいは土盛りでもしてあったのか、彝は少し高めの位置に腰を下ろし、持参したスケッチブックを開くと、南西の方角を向いてさっそくペンを走らせはじめた。


 泉邸と冨安邸にはさまれた空き地から見えるのは、画面左手の社宅が幹部邸と思われる少し大きめな冨安邸、南へ歩く女性の向こう側、中央右寄りに描かれたコンパクトな社宅が河原邸、その並びとなる右手(西側)の家が常田邸、細い東西の路地をはさみ、河原邸のさらに奥に見えている三角の屋根が田嶌邸……という位置関係になる。なお、社宅なので人事異動などにより、しばしば住民の入れ替えがあったであろうことは付記しておきたい。この描画ポイントは、中村彝アトリエからわずか110mほどの距離であり、病身の重たい身体でゆっくり歩いたとしても、2~3分もあればたどり着ける距離だ。
 素描だけが残る画面で、タブローが存在しないのは残念だが、東邦電力の林泉園住宅は屋根が赤で、外壁がベージュまたはクリームというカラーリングをしており、描かれている窓の鎧戸はグリーンないしはホワイトで塗られていたとみられる。中村彝は、自邸のごく近くにできた西洋館が建ち並ぶ林泉園住宅に興味をおぼえ、めずらしくスケッチをしに外出をしてみたものだろう。
 中村彝が、「林泉園」という新しい名称を知っていたかどうかは別にして、この素描作品に『林泉園風景』と名づけて「中村画室倶楽部所蔵」の印を押したのは、アトリエ周辺の様子をよく知る鈴木良三Click!だと思われる。同作が入れられた額の裏板には、「鈴木良三識」という文字が入れられているようだ。


 
 ひとつ気になるのが、本作裏面に捺印された「中村画室倶楽部所蔵」印と、1927年(昭和2)にアトリエ社から出版された『中村彝画集』の奥付検印「中村画室倶楽部公印」との書体が、まったく異なるという点だ。後者が、中村彝の死後から画室倶楽部で使用されていた当時の公印で、前者が戦後になって鈴木良三が鑑識に使用するため新たに用意した所蔵印だとすれば、「林泉園」というタイトルともども、特に矛盾はないのだが……。

◆写真上:1923年(大正12)後半に描かれたとみられる、中村彝『林泉園風景』。
◆写真中上は、同様にセピアインクか赤茶色に変色した黒インクで描かれた中村彝『裸婦』(鈴木良三蔵/部分)。は、同様にペンで描かれた中村彝『大島スケッチ』。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる林泉園住宅地でが描画ポイント。は、描画ポイントの現状だが空き地がないので接道の路上から撮影。画面と比較すると、幼児がカメラのレンズに向けて目の前に迫るような位置にあたる。
◆写真下は、描画ポイントへ向かう中村彝の足どり。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。は、1927年(昭和2)出版の『中村彝画集』(アトリエ社)奥付に捺された「中村画室倶楽部公印」()と、『林泉園風景』裏に添付された「中村画室倶楽部所蔵」印()。書体がまったく異なっているが、所蔵印のほうが新しそうだ。