少し前の記事で、関東大震災Click!を記念する「贈物」や「土産」として、被害をあまり受けなかった出版社や東京地方以外の出版社から刊行された、グラフ誌や写真集をご紹介Click!した。そこには、当時の新聞社が撮影した現在でもよく知られ、引用されている写真とは別に、これまで見たことのない写真が数多く掲載されている。また、新聞や新聞社発行のグラフ誌などによって報道された同一の被害箇所の写真でも、別角度から撮影されたものが多く、いまでは貴重な資料と思われる画面も少なくない。
 本日から、東京市街地とその周辺域の多くが壊滅した、関東大震災のあまり見たことのない、めずらしい写真類を少しずつご紹介していきたい。まずは、大阪市東区大川町に社屋を構えていた、関西文藝社が1923年(大正12)9月25日(実際は11月1日だと思われる)に発行した、写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』掲載の写真類から見ていこう。
 まずは、同写真集の序文から少し引用してみよう。
  
 大正十二年九月一日の正午――丁度十二時前頃俄然関東地方に大地震起り、一揺れ、又一揺れと間断なく震動し、其の被害の及ぶところ東京、横浜に於ては激震とともに大火災を起し加ふるに海嘯(つなみ)の襲来をうけ家屋の破壊、倒潰、焼失、流失算なく人畜の死傷者数十万を数へ、両市五十年の文化は一朝にして一望唯荒寥たる焼野原と化し、交通々信の機関杜絶し水道断絶して消防の途なく幾百万の罹災者は喰ふに食なく住む家なく光景惨憺酸鼻の極に達し、沼津、熱海地方は市中の大地亀裂して熱湯を噴出し、駿河町の如きは実に全町全滅の惨を見るに至り、伊豆、相模、安房、上総一帯の被害最も甚だしく家屋の倒壊流失、人畜の死傷無数、鉄道は鉄橋の墜落、トンネルの崩壊せし処数多、列車の転覆せしものもあり、電話電信線は切断され、帝都を中心に他地方との通信交通全く杜絶せり、其の他海上にありては船舶の沈没流出数知れず、其惨状言語に絶す、
  
 「五十年の文化」と書かれているけれど、横浜はともかく、室町期の太田道灌による江戸城Click!を中心とした城下町Click!を含む、600年にものぼるこの街の歴史と「文化」はどこに仕舞いこんじまったんだい?……と突っこみたくなるのが、大阪らしい執筆者の表現だ。だが、少なくとも江戸時代からつづく残り香の多くが、関東大震災を境に消滅してしまったのはまちがいない。
 さて、同写真集の巻頭に挿入されているのが、モノクロ画面に人着をほどこした炎上する日比谷の警視庁だ。添え書きによれば、人着をほどこしたのは大阪の安藤製版所というところらしい。この写真自体は何度か見たことはあるが、人着されたものは初見だ。消防車が3台出動しているが、内濠の水を汲みあげる態勢でいるものの、消火はあきらめたものか放水は行われていない。



 つづいて、瓦礫の山と焦土と化した日本橋界隈の写真も、これまで目にしたことのないものだ。どのあたりを写したものかは、おそらく執筆者が大阪人のために特定できていない。ひょっとすると、記者に同行したカメラマンも、大阪の写真館から東京へ出張しているのだろうか。同写真に添えられたキャプションから、その一部を引用してみよう。
  
 京橋を渡ると第一相互と星が対立して外形だけを止め、此辺一帯が焼けたのは二日午前一時頃、道路の木煉瓦は焼けこげてデコボコである、丸善は滅茶滅茶に潰れ、白木屋は影も形もなく、日本橋は破損を免れ、橋畔の森村銀行、村井銀行、国分商店、大倉書店等の大建築も全部烏有に帰し、魚河岸と青物市場は惨憺たるもので河岸には子供を背にした女や男の死骸が数十浮いてゐる、河岸は焼かれ船で一ぱいになつてゐる、三越の焼けたのは一日夜八時 三井物産、三井銀行は全焼して形骸だけを止めてゐる。
  
 「第一相互と星が対立」の「星」は、こちらでも何度か媒体広告をご紹介している星製薬Click!の社屋だ。また、300年以上つづいてきた日本橋魚河岸Click!は、このとき芝浦河岸へと臨時移転している。日本橋区で焼け残ったのは、3階が延焼したもののなんとか消し止めた、ほとんど日本銀行1棟のみだった。このとき、地下にあった準備金(当時は金本位制復帰を準備中)や未発行紙幣、補助貨幣は焼け残り、東京復興に大きな役割を果たすことになる。
 京橋や銀座、築地地域が炎上したのは日本橋よりも早く、一日の午後から西南の風にあおられて東西に拡がり、中央新聞社や電報通信社(電通)、国民新聞社、時事新報社、実業之日本社、カフェパウリスタ、東京朝日新聞社などを全焼して、銀座・有楽町界隈は全滅した。大橋(両国橋)からは火災が拡がらなかったが、永代橋Click!が炎上して対岸への“導火線”のような役割をはたし、深川区も全滅のありさまだった。特に火災に囲まれて逃げ場を失った、月島や越中島、木場、洲崎地域に多くの死者が集中している。





 神田区は、神田三崎町と一ツ橋から出火した火災が延焼し、下谷(現・上野)方面からの火災と挟み撃ちにあい、神田川沿いの一部地域を残してほぼ全滅した。同誌のカメラマンは、多くの報道カメラマンと同様に、壊滅した万世橋駅前の“広瀬中佐と杉野上等兵曹”Click!の銅像をカメラに収めている。同写真のキャプションより、引用してみよう。
  
 万世橋駅は赤煉瓦と鉄骨を残し広瀬中佐の銅像がひとりポツネンと須田町の目標となつてゐる、名物のニコライ教会も内部は焼け外部だけが残つてゐる、最も災害の甚だしかつたのは神保町、小川町で神保町交叉点には地震で死んだ死骸を電車道に並べたまゝ後の火災で焼いてしまつた、神田橋も一つ橋は焼け落ち、商科大学の一部と如水会館、女子職業学校は火災を免かれた。
  
 大震災の約1ヶ月後に東京市がまとめた統計では、各区の死傷者は次のとおりだ。

 この中で、本所区がケタちがいに多いのは、被服廠跡地Click!に逃げこんだ人々38,000人が大火流Click!に巻きこまれて焼死しているからだ。また、東京大空襲Click!時の一家全滅や親戚一族全滅、隣り近所全滅、東京にやってきた人間関係が希薄な若い単身者の罹災ケースなどと同様に、今日にいたるまで行方不明者の実数が把握できず、実際の死者は東京市だけでも10万人に近いのではないかとみられている。





 上野の竹ノ台陳列館でスタートした二科展では、大震災の揺れとともに多くの絵画や彫刻が落下して破損した。(冒頭写真) 二科の東京展は即日中止され、破損・破壊をまぬがれた作品のみを集めた大阪展が、10月に入って開催されている。
                                <つづく>

◆写真上:上野竹ノ台陳列館で、9月1日にはじまったばかりの二科展の惨状。
◆写真中上:下志津の陸軍飛行学校から飛び立った飛行機が、関東大震災が発生した直後の東京市街地を上空から撮影している。大火災の焼煙で街並みがよく見えず不明だが、いちばん下の写真は湯島から御茶ノ水の外濠あたりだろうか。いずれの写真も、大日本雄弁会講談社が発行した『大正大震災大火災』より。
◆写真中下:以下、いずれも関西文藝社から発行された写真集『震災情報/SHINSAIJYOHO』、および歴史写真会のグラフ誌『関東大震大火記念号』より。からへ、炎上する丸ノ内の警視庁(人着)、焦土の日本橋(2枚)、全滅の銀座通り(2枚)。
◆写真下からへ建物倒壊が多かった京橋から銀座、数寄屋橋西の肴河岸・山城河岸から見た日比谷炎上、日比谷交差点付近の惨状(2枚)、壊滅した万世橋駅前。