1930年協会Click!が1930年(昭和5)を迎えたとき、協会内部はガタガタの状態だった。佐伯祐三Click!はとうに死去し、前田寛治Click!は不治の病で倒れて入院をつづけ、二科に回帰しようとする里見勝蔵Click!と古賀春江、児島善三郎は実質的に脱会し、古くからのメンバーは小島善太郎Click!林武Click!しかいなくなってしまった。
 それでも、小島善太郎は美術史家の坂崎担から、「三十年協会は微動だもせず」と鼓舞激励されて、同年1月17日~31日に第5回展Click!を開催している。同協会の理論的な支柱だった、外山卯三郎Click!の夫人・外山一二三Click!が描いた2作品が入選したのも5回展だった。この間、さまざまな動静や思惑がからみ合い、すったもんだのイザコザもあったようだが、既存の各種画会や団体=既成画壇を脱け出して、新たに独立したい画家たちが14人集まり、独立美術協会Click!を結成することになった。
 このとき、二科は独立美術協会を“敵対組織”とみなし、独立への参加を妨害するような声明を発表している。以下、二科会の声明書の一部を引用してみよう。
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 世上二科会の分裂等兎角の憶測をなすもあるも右は単に数氏の脱退に過ぎず、二科会は依然として従来のごとく展覧会を継続すること言う迄もなく、独立美術協会は先きの一九三〇年協会と其の性質を異にするを以て、本会にこれを他の対立的諸団体と同視す、従って本会に出品せんとするものは、新団体に出品せざることを要す。
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 このとき、二科会を脱会して独立美術協会に参加したのは11名の画家だった。それに、国画会の高畠達四郎と春陽会の三岸好太郎Click!が加わり、さらにヨーロッパから帰国した福澤一郎が参加して計14名でスタートしている。
 1968年(昭和43)発行の「三彩」8月号には、独立美術協会を起ち上げる当時の様子を、小島善太郎がインタビューに答えて詳しく語っている。小島敦子様Click!からいただいた、『桃李不言―小島善太郎の思い出―』(日経事業出版部)所収の、『対談“独立”の前後』から引用してみよう。「独立」というネームについて、記者の「アンデパンダンの意味ですね?」という問いに対し、小島は次のように答えている。



  
 むろんそうなんですが、なんとなく語呂がわるいので、いろいろな案が出ました末、里見(勝蔵)だか(児島)善三郎だかが言いだして、日本の洋画の“独立”を目指しているのだから“独立”でゆこう! というと、たちまち衆議一決してしまったわけなのです。フランス画壇からの“独立”の意味あいもこめてですが、実は、日本既成画壇からの“独立”も念願としていたわけです。そして生活信条の方も、アカデミズムを排し、立身出世主義を斥けるという独立主義の精神運動に直結していたわけなのです。(中略) われわれは単に、元気な若い画家たちの集まりぐらいに簡単に思っていたのですが、自慢ばなしめいて恐縮ですが、新進気鋭の連中が結束したからには、二科や春陽会の幹部連中にとって、大げさに言えば、掌中の珠をうばわれた感じだったのかもしれませんねえ……(中略) たとえばホープ・三岸好太郎君の脱退なんか春陽会にとっては、痛手だったでしょうね。(カッコ内引用者註)
  
 確かに、これから画会の中核をになうと期待されていた、若手画家たちが突然退会してしまった二科会や春陽会では、呆気にとられて腹も立ったのだろう。木村荘八Click!あたりは、「せっかく目ェかけて、作品を優先してやってるてえのに三岸の野郎、うしろ足で砂しっかける義理の立たねえマネしゃがって」……と腹が立ったのだろう。w
 1930年(昭和5)に独立美術協会がスタートした翌年、小島善太郎Click!は南多摩郡加住村(現・八王子市丹木町)にあった元・庄屋の大きな農家を改造し、アトリエへとリフォームした。そして間もなく、8月の暑い盛りに里見勝蔵Click!三岸好太郎Click!が連れ立って、加住村のアトリエを訪問している。
 中央線の高円寺駅ホームで、国立駅ゆき電車を20分も待って終点で下り、国立駅でも八王子ゆきを約20分も待ってから、30分ほどかけてようやく八王子駅で下車している。駅前からは、クルマで20分ほどでようやく加住村に入った。三岸好太郎はあきれて、「こんな田舎に入らなくても、東京付近で、十分田舎の感じに陶酔出来る百姓屋の売物がありそうなものだが……」と、里見にこぼしている。もちろん、三岸の頭の中には田畑が拡がり、茅葺き農家が残る鷺宮風景Click!が浮かんでいたにちがいない。
 クルマは桑畑に入りこんでしまい、方角もハッキリわからなくなったころ、大きな茅葺き屋根を載せた大農家が見えてきた。そして、門前には小島善太郎が出迎えていた。小島の農家アトリエの様子を、1933年(昭和8)発行の「独立美術」11月号に掲載された、里見勝蔵『小島の生活と芸術』(前掲書収録)から引用してみよう。



  
 大きな長屋門から母屋まで三十歩。左右には大きなキャラ、梅、楓等のすばらしい古木がある。小島が先きに立って案内する姿は、大きな、古い藁屋根の玄関を背景にして、誠に小島にふさわしいものであった。さぞ小島も満足であろうと察しられた。/何分庄屋をしていた家だけあって玄関も、座敷もクラシックでガッシリしている。----畳だけでも五六十畳あるので畳換えだけでも一寸大変なんだ……と小島がこぼしていたのも真実だ。しかし、いい家が出来た。土間をつぶして画室にした。三間に五間もある、実にすばらしい、画室が出来ている。四囲の壁と天井は純白だが、太い欅の見事に光った柱や棟木が見えて、実にシックリした感じである。これなれば小島も満足に幸福に住って、ドシドシ仕事が出来ると思われた。/早くこの家を訪ねた誰れかが、この家の周囲の風景を見て----小島があの桑畑の風景を如何に描きこなすか興味ある問題だ……と桑について心配していたが、心配することもないだろう。
  
 里見勝蔵は、「小島は武蔵野生れなのだ。そして、こんな景色が特に好きなんだ」と書いているが、確かに小島善太郎は新宿駅西口(淀橋町柏木成子北88~101番地界隈=現・西新宿7丁目)の青物卸店で生まれている。また、実家や墓は下落合にあり、淀橋の店が零落してから小島一家は、再び故郷の下落合Click!へもどってきている。
 小島善太郎は加住村について、『加住村の秋』と題するエッセイを朝日新聞に残している。短い文章なので、1949年(昭和24)の同紙から引用してみよう。
  
 加住村に移り住んでもう十六年になる、私はこのあたりの雑木林に点々とまじるクリの実の水々しさに毎年秋の感触を見出す。/焼け着く暑さもあらしと共に過ぎた、きょうこのごろの夕べ、私は秋の味覚をなつかしんでクリの木の下に立ち、そっと青いイガにふれてみた、手のハダを刺す無数のトゲの痛みに神経をふるわせながら、いつごろ口が開くか打診する、もうトゲは強くかみ合っていた。/そのクリの木の根本ではしきりとコオロギが鳴いている、真竹の葉は静まったまま動かず、路ばたに生えたシノ竹にススキがまじって穂を高く見せていた。
  



 里見勝蔵は、「武蔵野のように素朴」で「武蔵野のように健康」な風景を描く小島の画面は、京都・奈良を描こうが日本のどこを描こうが、みんな「武蔵野」になってしまうといっている。里見はいい意味で、それを小島の「武蔵野ナイズ」と呼んでいた。

◆写真上:1933年(昭和8)ごろ南多摩郡加住村の小島アトリエを訪ね、玄関で帰る間際の川口軌外Click!(手前)と見送りに出た小島善太郎に恒子夫人。
◆写真中上は、1930年協会第5回展の記念写真で左端から右端へ小島善太郎、中野和高、伊原宇三郎(手前)、林武、林重義(手前)、宮坂勝、中山魏(手前)、そして川口軌外。上部の写真は、不在の鈴木亜夫(左)と入院中の前田寛治(右)。は、1927年(昭和2)制作の小島善太郎『曇日』。は、 1933年(昭和8)に行われた独立美術協会による道後温泉旅行の記念写真。左端に小島善太郎が見え、将棋をさす林重義(左)と児島善三郎(右)の奥に里見勝蔵、右端に三岸好太郎がいる。
◆写真中下は、小島アトリエを訪ねたころの三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。は、加住村にあった小島善太郎アトリエの長屋門(上)と母家正面(下)。
◆写真下は、母家と小島アトリエの庭。は、アトリエ内部と天井の棟木。