1923年(大正12)9月1日に発生した関東大震災Click!では、大火災に追われて東京市街地から逃げてきた避難民で、周辺の郊外地域はドーナツ状にあふれ返った。こちらでも、目白通りを西へ西へと向かう避難民たちの様子を、目白駅周辺で結成された自警団Click!のエピソードとともにご紹介している。飯田橋や江戸川橋など街道の分岐点から、目白通りは罹災した人々の避難ルートの筋道になっていたのだろう。
 そのような混乱の中、翌9月2日になって深川の洲崎(現・江東区東陽町1丁目)にあった遊郭から逃げてきた女たちが4人、雑司ヶ谷の交番に駆けこんで助けを求めた。女たちは、大川(隅田川)を崩壊しなかった新大橋ないしは大橋(両国橋)あたりからわたったあと、神田川に沿って流れをさかのぼりながら、目白通りへと抜けてきたのだろう。しばらくすると、あとから男たち数人が追いかけてきて、女たちを連れもどそうと交番の巡査たちとの間で押し問答になった。男たちは、大震災が起きた際、洲崎橋のたもとにあった大門(のち洲崎パラダイス門)をくぐって逃げだした娼妓を捕まえようと、追跡してきた遊郭の連中だった。
 当時の様子を、1923年(大正12)10月1日に出版された『大正大震災大火災』Click!(大日本雄弁会講談社)収録の記事、「巡査の機転」から引用してみよう。ただし、出版元が出版元だけに、講談や講釈師のような臭い記述から、どこまでが事実でどこからが「見てきたような……」なのかは、読み手の判断におまかせしたい。
  
 二日の明け方である。髪をおどろに打乱したしどけない女が、四人ばたばた高田雑司ヶ谷の交番へ駈け込むなり/『お助け下さい。』/と金切声をあげた、すると間もなく五人ばかりの男が汗みどろで追つき/『こんな所に逃げ込みやがつた。さあ出ろ。』と言つた、女連は洲崎の女郎で、追つかけて来たのは楼主に若い者と知れた。/交番の巡査連は大いに義侠心を出して、『女共は廃業したいというてゐるから今日限り廃業させる』というたが仲々聞かない。これは最後とばかり、『貴様達、こんな非常な場合に彼是申立てると承知しないぞ、本署へ来い、保護拘留をしてやるから』と一喝したので、楼主連すつかり閉口垂れて、/『ハイ、何うぞその拘留だけはお許しを』で、證文を返して自由廃業に承諾した。/救はれた女郎連は嬉し泪に巡査を拝んだ。
  
 ふつうなら、追いかけてきた楼主が、わざわざ懐中に「證文」を所持しているのがおかしい……となるところだが、関東大震災で遊郭が被災したとき急いで懐に入れ、自分たちもそのまま避難するつもりで飛びだしてきたのかもしれない。また、交番に何人もの巡査が詰めていたのは、大震災による非常時だったからだとみられる。
 余談だが、これと似たような話は、以前こちらでも記事にしたことがあった。吉原の遊郭を逃げだした娼妓たちが、自由廃業をめざし雑司ヶ谷の上屋敷362番地に住んでいた宮崎龍介Click!白蓮Click!夫妻の家へ駈けこんだ事件だ。このときも、追手が宮崎邸の周囲をいつまでもウロついて、特に労働総同盟による娼妓の「自由廃業」と廃娼運動を推進していた宮崎龍介は、執拗につけねらわれている。九条武子Click!「あけがらす」Click!とともに、ご紹介したエピソードだ。



 さて、この「高田雑司ヶ谷の交番」とは、どこにあった交番だろう? 1923年(大正12)現在の地図を確認すると、高田町の雑司ヶ谷とその周辺域には、3つの交番を確認できる。ひとつは、雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口に、目白通りをはさんで向かいあっていた高田四ッ家(四ッ谷Click!=現・高田2丁目)の交番、ふたつめは当時は目白通りに面していた学習院馬場Click!の並び、現代でいうと目白駅前の川村学園Click!あたりにあった交番。そしてもうひとつが、戸田邸Click!の西門近くに設置されていた雑司谷旭出(現・目白3丁目)の請願派出所だ。ただし、戸田家の請願派出所は基本的に老齢の巡査がひとりいるだけなので、複数の巡査が詰めていた交番はここではなさそうだ。
 おそらく、「高田雑司ヶ谷の交番」とは、雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口の真ん前、目白通りをはさんで宿坂を上りきった角地にあった交番だろう。娼妓たち4人は、ここで背後の追手に気づき、追いつかれると思ってとっさに、目の前にあった交番へ駈けこんだのではないだろうか。
 洲崎の遊郭から、高田町は雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口にある交番まで、破壊されなかった両国橋を経由するとおよそ13~14kmの距離だが、洲崎に火災が迫る混乱のさなか、娼妓たちは楼主や手下(てか)たちの目を盗んで大門を抜けだし、ひと晩かかって雑司ヶ谷にたどり着いたのだろう。だが、彼女たちの衣装や髪型、化粧がいかにも遊女の風情なので、追手は逃げたらしい方向をたどりながら聞きこみをつづけ、ついに目白通りで捕捉して追いついたとみられる。
 その後、4人の娼妓たちがどうなったかは不明だが、交番の巡査がそれほど親切だったのなら、宮崎龍介がそうしたように彼女たちを保護しつつ、近くの職業訓練所などへ斡旋しているのかもしれない。あるいは、高田町は震災直後から避難者たちの救護所を設けているので、当分はそこですごしつつ、就業先を探した可能性もありそうだ。1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会)では、関東大震災の記述は非常にそっけない。以下、同書より引用してみよう。
  
 (前略) 突如、九月一日、関東地方に大震火災の事変あり、幸に此の町は其の災禍を免かれたが、東京市中は殆んど全滅の姿となり、避難し来るもの夥しく、町は全力を傾倒して、之が救済に努めた。爾来、この町に移住者激増し、従つて家屋の建築も増加して、田畑耕地は住宅と化し、寸隙の空地も余す所なく、新市街地を現出するに至つた。
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 当時、高田町の町長Click!だったのは吉野鎌太郎だが、震災時には間の悪いことに町役場の金庫はからっぽで、現金がほとんどなかった。銀行がすべて業務を停止しているため、吉野町長は自宅の現金をかき集めたあと、町内をまわりながら住民たちに借金をしてまわった。そして知り合いの工場からトラックを借りると、住民たちから集まった現金を手に埼玉県へと向かい、避難者用の米や麦、野菜などの食料品や、日用雑貨などを買い集めて救護所にとどけている。
 『大正大震災大火災』には、ほかにも関東大震災にまつわる多数の事件やエピソードが収録されている。中でも、相模湾や東京湾口を襲った津波(海嘯)の体験記録は貴重だ。同書より、「不思議舟」と題されたエピソードから引用しよう。
  
 鎌倉大町の菓子屋の小僧は、地震の時長谷停車場の附近にゐたが、来たなと思ふ瞬間海嘯が襲つて来るといふ騒ぎに、あわてゝ傍にあつた舟に飛び乗つた。と見る、津浪はさつと退いて沖合遥かに持つて行かれた。小僧は生きた空なく、夢中で舟のまにまに漂つてゐると、又も見上げるやうな大海嘯がやつて来る、もう死ぬのだと観念の眼を瞑つてゐると、舟はその大浪に乗せられて、ドーンともとの停車場附近へ持つて行かれた、ところも殆ど一間も違つてゐなかつたとは不思議の至りである。/だが沖に浚はれて行つた時の小僧の気持は如何だつたらう。
  
 このとき、さらに大きな津波の第2波は、海岸線から500mほど内陸(鎌倉駅の手前)まで押し寄せたとみられ、由比ヶ浜や長谷、材木座の住宅地は壊滅した。ちなみに、現代の鎌倉市が想定Click!した相模トラフを震源とする10m超の津波では、海岸線までの到達時間は約8分、南海トラフが震源だともう少し時間がありそうだが、津波の高さは14m超で、その舌先は鎌倉駅を通りすぎて小町通りの先まで到達するとしている。


 『大正大震災大火災』には、ほかにも大震災にまつわる多彩なエピソードが紹介されているが、中には今日から見れば明らかなウソや誤認、妄想による誇大な「講談」の類も含まれている。大混乱の街々で、人々は自分が助かったのは“奇蹟”だと興奮しながら、記者の取材に応えてつい口をすべらせているのだろう。いちいち“ウラとり”ができない震災直後の状況では、取材原稿をそのまま記事として掲載するしかなかった側面も見てとれる。

◆写真上:設置されていた交番側から眺めた、雑司ヶ谷鬼子母神の参道入口あたり。
◆写真中上は、1923年(大正12)作成の1/10,000地形図にみる交番の位置。は、震災による火災で壊滅した洲崎遊郭。は、一面の焼け野原になった洲崎一帯。
◆写真中下は、洲崎遊郭の大門があった洲崎橋の現状。は、洲崎遊郭の遊女供養塔。は、大正期の面影が残る坂上に交番があった高田の宿坂界隈。
◆写真下は、遊女たちが目白通りへたどり着く前に目にしたと思われる江戸川(1966年より神田川)沿いの地割れ。は、鎌倉の由比ヶ浜や材木座海岸を襲った津波被害。