本年も「落合道人」ブログをお読みいただき、ありがとうございました。当ページが、2018年最後の記事になります。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。
  
 1970年代のこと、机に向かいながら深夜放送を聴いていると、やたら「旅立ち」の歌が流れてきた。ここの記事でも登場している浅川マキClick!が、「♪夜が明けたら~いちばん早い汽車に乗るから~」と新宿で唄ったのは、わたしがまだ小学生のころだから、60年代末から「旅立ち」のブームがはじまっていたものだろうか。つづけて印象に残っているのは、「♪どこかで~誰かが~きっと待っていてくれる~」とか、「♪ああ明日の今頃は~僕は汽車の中~」とか、「♪こがらしは寒く乗りかえ駅に~行方知らぬ旅がつづく~」とか、いったいみんなして、どこいっちゃうんだよう!……というほどに、若者たちは浮き足だって彷徨い、われ先に列車に乗りこんでいたようだ。
 旅先は、たいがい街(東京?)から見ておよそ“北の方角”が多く、まかりまちがっても「ハイサーイ!」とか「また来てつかぁさーい!」とか「おじゃったもんせ~!」とか、やたら陽気で暖かく、キラキラしている明るい南の海ではなかったような気がする。「旅立ち」の歌も、しまいにはいい加減うんざりイライラしてきて、新宿駅から「♪8時ちょうどの~あずさ2号で~私は私は……」には、いつまでも「私は私は」ぐちってねえで早く旅立っちまえ!……と、背後から車内へ蹴りこみたい衝動にかられたものだ。
 失恋の癒しの旅なのか、自分探しの旅なのか、はたまた新たな出逢いを求める旅なのか……はともかく、旅行ができるのはおカネのある裕福で幸福な若者たちであって、おカネのない若い子は近くの海とか山へ、非日常を求めるのがせいぜいだった。でも、いまとはちがって「山ガール」など存在せず、うっかり山などへ登ると男だらけの世界で味も素っ気もないので、失恋の痛手を癒したり、新たな出逢いを求めたり、気分転換や精神的なリセットをしたいのなら、近くの海へ出かけるのが安くて手っ取り早かった。そう、あらゆる生命は海から誕生したのだ。
 子どものころ、相模湾の海っぺり(葉山・逗子・鎌倉・湘南・真鶴の各海岸線)には、そんなお兄ちゃんやお姉ちゃんたちがたくさんいた。少しでも新たな出逢いを…いや、女の子たちの気を惹こうと、ほとんど乗りもしないのにサーフボードを小脇に抱えたり(重たいだけだろうに)、海岸の松林にバッテリーとPA機器を持ちだしてエレキの練習をしたり(テケテケテケテケの「パイプライン」でしびれず、夕立ちに感電してシビレていた)、本を片手にときどき意味もなく沖を見やりながら思索をしているようなポーズをしたり(ページが進んでないし)、海には入らず海岸に近いJAZZ喫茶で膝頭をゆらしていたり、海の家でサイケなシロップのかき氷を食べながら近くの女子に目配せしたりと、男子たちは新たな出逢いを……いや、好みのターゲットに合わせた定置網を張りめぐらしては、気長にひっかかるのを待ちかまえていたのだ。
 そんな男子は、日本で初めて海水浴場が開設された大磯Click!にも、また鎌倉の浜辺Click!にもいただろう。ふたつの街は、保養地あるいは別荘地としてスタートしているので、やってくるのは海岸線に別荘をもつ、東京や横浜のおカネ持ちの女子たちだった。そんな彼女たちとの新たな出逢い……、いや、彼女たちの気を惹いて、あわよくばひっかけようと懸命に努力するのは、いつの時代も変わらない。大正の中ごろ、崩れかけた大きめな波に板子(フロート)でうまく乗りきるのが、浜辺でカッコいいお兄ちゃんの証しであり代名詞だった。サーフボードもサーフィンもいまだ日本に入ってくる以前、鎌倉は由比ヶ浜と稲村ケ崎の間にあたる、長谷の坂ノ下で生まれた物語だ。



 1983年(昭和58)出版の『鎌倉の海』(かまくら春秋社/非売品)には、当時を知る地付きの古老たちによる座談会が掲載されている。その証言から、少し引用してみよう。
  
  そうです。それからいまのサーフィンとか何とかいうのは、長谷にいた、いまは横浜の外人墓地のそばにいる、益田義信さんという人が米さん(舟大工)という人に、フロートという名前でつくらせて、何回も失敗してね、それがいまのサーフィンのはじまりです。/この人は泳ぎも達者、波のりも達者の人でね。それがハワイから外人が来て、ハワイから九尺ぐらいの厚みのある板をもってきて、その先に紐がつけてあったんです。それを鎌倉にもって来たけれども、鎌倉の波とハワイの波とはちがうんですよ。大きくなってきて崩れても距離が短かいんです。ハワイのは崩れても距離が長いですよ。だからそういう板が使えたんですが、鎌倉では通用しなかった。/それを何とかしようというので、両方に貫を合わせて作ったのが、フロートというんです。それから工夫して真中を空間にして、それが始まりで、改良されたのがサーフィンです。うんと金を使って苦労したのが長谷の絵描の益田義信さんです。
  
 証言しているのは、由比ヶ浜に住む萩峯吉という当時78歳の人だが、益田義信は国画会に所属していためずらしい慶應ボーイの画家だ。
 現在はフロートというと、空気でふくらませる平たい浮きマットか、圧縮した発泡スチロールないしはウレタン製の軽量で手軽なボディボードをイメージするけれど、当時は舟大工が釘を使わず板を組み合わせて細工した、特製のボードだったのがわかる。改良を重ね、軽量化のためか板の真ん中には穴が開いていたようなのだが、当時の写真が残っていないので具体的なかたちは不明だ。ただ、わざわざ舟大工に注文しているところをみると、板には防腐処理がなされ、微妙なカーブ(反り)が入っていたのではないだろうか。



 昭和期に入ると、フロートで波乗りをするお兄ちゃんたち(まだお姉ちゃんたちはやらない)が急増したようで、上落合215番地に住んだ林房雄Click!も、舟大工の「米さん」に無理やり頼みこんでつくってもらっているが、あまりいい顔はされなかったようだ。舟とは異なり、手間ばかりかかって儲からず、つまらない仕事だったからだろう。フロートを抱えたお兄ちゃんたちは、鎌倉で女子たちの注目を集めたにちがいなく、林房雄もそんな姿にあこがれて注文したものだろうか。
 だが、地付きの鎌倉人にいわせれば、ボードを使って波に乗るなど、波乗りを知らない素人に見えてしまうのだ。つづけて、同座談会より引用してみよう。
  
 島村 鎌倉の、純然たる鎌倉生れの者は、波のりに板をつかいませんでしたね。
  その波のりが出来る人が何人いるかというんです。
 長田 それは、私が当時は大将でしたよ。
  どんなことをしても三年か五年かからないと一人前にはなれません。
 長田 鎌倉で大きい波にのれるのが五人、小さいのにのれるのが二十人ぐらいはいたかな。
 島村 年がら年じゅう海につかっているような者でなけりゃできないんですよ。わざわざ鎌倉に泳ぎに来た程度のものにはねー。板なしでのるなんてできなかったですよ。
 長田 大きい波ほどのりやすかったね。
  
 先の萩峯吉に加え、島村嘉市(由比が浜茶亭組合長)や長田正則(83歳)ら生粋の鎌倉人たちの証言だ。若いころは、さぞ女子たちにモテたのかもしれない。
 でも、悲しいかな、渚ではフロートや板子をスタイルとして小脇に抱えてないと、「この人、波乗りができるのだわ、ステキ!」とか、「まあ、流行りの先端をいく、モダンな殿方よ」とか、別荘街の女子たちの気を惹き注目を集めることはできないのだ。「そんなこたぁねえべ~よ、やっぱ波乗りは身ひとつでやんのがプロだべ」(神奈川県の南部方言)といったところで、女子たちから「あっそ。だからなに?」といわれてしまうのだ。



 わたしはサーフボードやボディボード(現代版フロート)の経験はあるが、素手素足での波乗りはまったく知らない。どのような姿勢で波に乗るのかも見当がつかないけれど、大正から昭和にかけての鎌倉男子には、自慢のできるカッコいい遊びだったのだろう。

◆写真上:台風のとき以外は穏やかな波がつづく、暖かい相模湾のサーフィン風景。遠景は、手前の真鶴岬と箱根から足柄へつづく山々で、背景は富士山。
◆写真中上は、1921年(大正10)に撮影されたモダンな別荘が建ち並ぶ材木座海岸の一帯。は、大正末に撮影された材木座海岸で網を干す地付きの漁師の家々。は、1938年(昭和13)に国画会第13回展へ出品された益田義信『外房の夕暮』。
◆写真中下は、大正初期と1921年(大正10)に撮影された由比ヶ浜にそそぐ滑川河口。は、1925年(大正14)に撮られた由比ヶ浜の地曳き網。
◆写真下は、混雑しだした1930年(昭和5)ごろの由比ヶ浜。は、現在の人出とあまり変わらない1932年(昭和7)ごろに撮影された「海の王座」がショルダーの材木座海岸。は、1937年(昭和12)に夏休みの材木座海岸で毎年行われていた早朝のラジオ体操。