新年、あけましておめでとうございます。本年も「落合道人」サイトを、どうぞよろしくお願いいたします。さて、お正月は、おめでたい新宿区に眠る「お宝」物語から。
  
 少し前に、江戸東京に残る「長者」伝説のひとつとして、牛込の筑土八幡町から牛込白銀町にかけて伝わる「だらだら長者」Click!についてご紹介した。だらだら長者こと生井屋久太郎は、なにがきっかけで町奉行所の与力・鈴木藤吉郎と組んで、御蔵米の買い占めに手を出したのかは不明だが、それで儲けた莫大な財産を屋敷とその周辺域に埋蔵したという伝承は、「宝さがし」のエピソードとともに昭和期まで伝わっている。気になるので、その後のエピソードを含めてご紹介したい。
 江戸期が終わるまでに発見されたカネは、奉行所の家宅捜査で手文庫から見つかった200両+埋蔵金を隠した場所とみられる絵図と、久太郎の屋敷から道をはさんだ屋敷へと通じる地下トンネルから発見された1,200両を合わせても、わずか1,400両にすぎない。事件当初から、御蔵米の買い占めで得た暴利は3万~5万両では足りないといわれており、残りをどこに隠したのかが周辺住民ばかりでなく、多くの江戸市民の話題をさらった。そのゆくえを唯一知るかもしれない、与力・鈴木藤吉郎の妾で久太郎の娘といわれている於今(おいま)は、事件が発覚すると同時に姿をくらましている。
 明治期に入ると、お今がらみの人物が「宝さがし」のために、会津から筑土八幡社界隈へとやってくる。江戸を離れたお今は、諸国を転々としたのち会津へと逃れ、明治に入ると田島半兵衛という男と親しくなって所帯をもった。田島半兵衛は、会津にいた当時から周辺の「宝さがし」をしており、室町末期、伊達正宗に敗れた蘆名義広が常陸の江戸ヶ崎へ逃れる際、猪苗代湖の湖底に沈めたといわれる財宝探しにかかわっていた。地下への埋蔵金ばかりでなく、全国には湖底あるいは池底へ隠した財宝伝説が散在しており、猪苗代湖のケースもそのひとつだ。東京では、太田道灌に敗れた豊島氏が滅亡する際、石神井の三宝池へ金銀財宝を沈めたという伝説が、もっとも知られているだろうか。
 会津で田島半兵衛と暮らしていたお今は、小さな飲み屋「古奈家」を経営していたが、特に店が繁盛しなくても困窮することがなく、彼にはそれが少し不思議だったようだ。田島には、江戸にいたころは“与力の妻”だったというふれこみで接しており、彼はそれなりの蓄えがあるのではないかと想像していた。猪苗代湖で「宝さがし」をする田島は、お今がふと漏らした「水の中のものまで探さないでも、おかにだってまだ沢山あるさ」という言葉を記憶している。お今は、1884年(明治17)12月に病死している。
 お今は、臨終の床でだらだら長者に関する一部始終と、御守り袋に入れて肌身離さずにもっていた絵図を取りだし、田島半兵衛にあとを託して死んだ。このとき、お今がもっていた埋蔵場所の絵図は、だらだら長者屋敷の手文庫から見つかった絵図と、同一のものか異なるものかがハッキリしない。もし、お今が保管していた絵図がホンモノだとすれば、手文庫に残された絵図はフェイクの可能性がある。お今は、だらだら長者こと久太郎の娘だという説が正しければ、手文庫からホンモノの絵図を抜きとり、代わりにニセの絵図を入れておくこともたやすくできたにちがいない。



 お今が死んだとき、田島がだらだら長者の埋蔵金話を信じたのは、いまだ2,000円もの大金が家の中に残されていたからだろう。明治初期の2,000円といえば、現在の貨幣価値に換算すると1,500万~2,000万円ぐらいにはなるだろうか。そのときの様子を、1962年(昭和37)に雄山閣から出版された角田喜久雄『東京埋蔵金考』から引用してみよう。
  
 そのお今の話によると、だらだら長者の埋めた宝の量は、三万両や五万両の少額ではなかった。お今がどんな無茶な金遣いをしても、生涯かかって費いきれないほどの額で、長者は千両まとまるごとに、埋蔵していたというのである。埋蔵場所は二ヵ所に分れていて、一ヵ所は屋敷内。もう一ヵ所は秘密の地下道を抜け出た町家の庭の、から井戸の途中に横穴があって、その中にかくされている。そして、その屋敷内の方の埋蔵は、必ず長者自身の手で行われたので、お今も位置は知らないが、から井戸の方の埋蔵は、いつも「権」という男があたっていた。権の名前は権兵衛とか権太郎とかいうのだろうが、お今も知らない。/権と長者の関係は、全く他人のごとく見せていたが、実際は親密そのもので、一度秘密の通路から長者の寝室へ忍んで来たのをお今も見たことがある。その態度から見て、おそらく兄弟ではあるまいかと思える。長者のお今に対する態度は、二人っきりの時には別人かと思える親しさで、今考えてみると、自分の父ではなかったかと思う。
  



 これほど微に入り細に入り、筑土八幡社裏にあった久太郎=だらだら長者屋敷の様子がわかっていながら、田島半兵衛は東京にきて間もなく、「宝さがし」ができなくなった。銭湯帰りの女性を襲った、婦女暴行容疑で警察から手配され、東京にいられなくなったからだ。以上の話は、だらだら長者の「宝さがし」仲間からの取材による経緯ということになっている。したがって、どこまでが事実でどこからが付会や尾ヒレなのかハッキリしないが、田島がわざわざ会津からやってきたこと、そこにお今という女性がいたことだけは、どうやら事実らしい。
 さて、その後も、だらだら長者の絵図なるものを手に、筑土八幡社界隈を訪ね歩く人々が新聞ダネになっているが、その絵図が久太郎屋敷の手文庫から出たものか、田島半兵衛がお今からいまわの際に譲り受けたものか、はたまたまったく別の絵図なのかは不明のままだ。絵図を手に、現在の筑土八幡町や白銀町を訪れたいくつかの「宝さがし」チームは、しばらく付近を捜索したあと、あきらめては引き上げていったらしい。
 なぜなら、筑土八幡社の周囲は、明治も後期になると再開発が進み、だらだら長者の屋敷がどこにあったかさえ、地元の人間にも不確かになっていたからだ。傾斜地やバッケ(崖地)Click!は、ひな壇状に宅地造成が行われ、万昌院の広い境内もなくなり新しい道路が敷設された。昭和に入ってからも、「宝さがし」はつづいていたようだが、ついに埋蔵金発見の報道が流れることはなかった。
 

 唯一、戦時中に付近の住民が防空壕を掘っていたところ、生井屋久太郎の家紋「橘紋」が入った鉄瓶を掘り当ててニュースになったことがあった。その住民の家が建っていた場所こそが、だらだら長者の屋敷跡だと騒ぎになったが、戦争末期の混乱時だったために「宝さがし」が行われないまま、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!で付近一帯は焼け野原になっている。現在なら、金属探知機を使って地中を探ることもできるだろうが、住宅が密集していて実質的にはまったく不可能だろう。

◆写真上:数年前の道路建設で、消えてしまった津久戸明神社の門前町の一画。
◆写真中上は、長谷川雪旦の挿画で『江戸名所図会』に描かれた津久戸明神社と筑土八幡社の界隈。は、明治時代の撮影と思われる津久戸明神社(左)と筑土八幡社(右)。は、筑土八幡社の階段(きざはし)から眺めた急斜面下の現状。
◆写真中下は、中山備後守上屋敷跡にある白銀公園。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる津久戸明神社と筑土八幡社の焼け跡。は、社裏につづくバッケの擁壁。
◆写真下上左は、1980年(昭和55)に出版された中公文庫版の角田喜久雄『東京埋蔵金考』。上右は、万昌院の境内跡に建設されたモダンな近代住宅だが解体されて現存しない。は、豊島氏の滅亡時に財宝が沈められた伝説が残る石神井公園の三宝池。