小島善太郎Click!は、作品に「Z.Kojima」とサインしているが、児島善三郎もまた「Z.Kojima」と署名していた。だから、よほど画家の表現やマチエール、好みのモチーフなどを理解していないと、小島善太郎か児島善三郎の作品かがわからず、少なからず混乱が起きることになる。まちがいは作品のみにとどまらず、海外とやり取りする郵便や面と向かいあう会合などでも発生し、笑い話を数多く残しているようだ。
 そもそも、小島善太郎と児島善三郎がまったく異なる画会同士であれば、それほどの混乱は起きなかったのだろうが、ふたりとも同じような時期にパリへ留学し、小島善太郎が帰国するとき渡仏する児島善三郎とインド洋上ですれちがっている。この入れちがいに、フランスの日本大使館も混乱していたようだ。しかも、児島善三郎は1929年(昭和4)から1930年協会Click!に参加しており、つづいて結成された独立美術協会Click!にも小島善太郎といっしょに参加しているため、その後も混乱はつづいた。
 そのあたりの様子を、小島アトリエClick!を訪ねた際に次女・小島敦子様からいただいた、小島善太郎『桃李不言』(日経事業出版社1992年)から引用してみよう。所収の『小島善三郎の人と作品』は、1962年(昭和37)の「三彩」7月号に掲載されたものだ。
  
 コジマゼンザブロウとコジマゼンタロウ。この二人は歳の上では僕より一つ下で、画壇生活では旧二科会、円鳥会、一九三〇年協会そして独立美術協会と一緒であり、悪い噂が出れば、あれは善太郎であり、善三郎だといって笑ったり、フランスにはマネーとモネーがまぎらわしいように、善三郎と善太郎も色々の意味に間違えられた。相手と話をしていると僕が善三郎であると思っていることに気付いたり、手紙もよく宛名を間違えられて、ひどいのはパリ―に居る善三郎に宛た手紙が大使館から東京へ帰った僕のところへ回送されてきたり、僕はインド洋でマルセーイユに向う善三郎の船と日本へ帰る僕の船とすれ違った訳で、君との初対面は二科展(僕の初入選は大正七年で二科の五回展かと思う)六・七回展頃からと思う、互に名のりをあげたのだが、その時の話では胸が悪くて二、三年画も描けなかったとのことで、あの素朴で大きな君の体が今だに眼に映る。
  
 作品を頻繁にまちがえられるため、小島善太郎は「Z.Kojima」のまま、児島善三郎は「Z.Z.Kojima」とサインを入れたエピソードは有名だ。
 さて、児島善三郎とすれちがって帰国した翌年、1926年(大正15)5月15日から24日まで京橋にある日米信託ピルの室内社で、小島善太郎らが結成した1930年協会の第1回展が開催されている。このとき、創立メンバーだった5人の画家たちは、それぞれ木下孝則Click!が16点、小島善太郎Click!が57点、里見勝蔵Click!が45点、前田寛治Click!が40点のおもに滞欧作を出品しているが、佐伯祐三Click!は船便で送った300点近くの滞欧作が間に合わず、わずか11点の画面を出品したにすぎなかった。
 このとき、佐伯祐三が展覧会場に架けた作品11点(油彩7点・水彩4点)のタイトルは判明しているが、のちに画面の差別化から題名が変更されている作品や、同じ画面が複数存在するものもあって、厳密に規定することができるのは『アッシジ・サンタ・クラーク(アッシジの聖堂)』(水彩)と、『リュ・ベルサンヂェトリツクス』(油彩)の2点のみだ。そのほか、タイトルをそのまま挙げると『巴里風景』×4点、『ヴェネツィア風景』×3点、『門』、『マルシャン・ド・クラーラ(クルール)』の計11作品ということになる。



 展覧会の告知は新聞にも掲載されたが、入場料をとったためか客がほとんど集まらず、出品した絵も売れなかった。腹が減ると、画家たちは近くにある大きな高級中華料理店に入ったのだが、ここで衝立に寄せ描きをする有名なエピソードが生まれている。佐伯祐三が、店内にあった龍の置物を写して描いたのは、朝日晃の書籍などで知っていたが、ほかの4人の画家たちはなにを描いたのか、これまで詳しくはわからなかった。ところが、その詳細を小島善太郎が記録していたのだ。
 前掲書に収録された、1975年(昭和50)開催の「木下孝則回顧展」図録より、小島善太郎『木下孝則君のこと』から引用してみよう。
  
 サービスに美人が三人四人と出てくる。もう我々には常連の待遇であった。料亭では信託ビル内で展覧会をやっている程度のことは解っていたらしいが、勿論どういう画家か知る筈もない。前田寛治が大きな衝立を担いで来た。主人が硯を持参するとすり出した。皆が前田の背後に立った。何が描かれるのかと皆の眼が集中している画面に、たっぷり墨を含ませるとその筆で黒々と縦線を引き出した。それを見て僕はその衝立が白地の鳥の子紙の面であることが判った。だから前田の引いた線がくっきり浮んで、何が画かれるか見張った訳である。/前田はそれに右手を上げて椅子に腰かけた支那美人を、等身に近い大きさに描き上げたのであった。その時木下が同じ大きさの衝立を曳いて来て横にすえると、せつ子さんと彼が勝手につけた名前の美人をつかまえて、彼女の裸像を描くと云い出した。聞いた彼女は声を挙げて逃げだした。木下は二階まで追いかけ亭中が賑わってとうとう彼女を横にした和服の寝姿を、同じ墨で木下風な達筆で大きく描いた。
  
 当時、銀座に近い京橋の高級中華料理店には、どうやら“キレイどころ”がいたらしい。おそらく、スリットが深く入ったチャイナドレスか和服を着ていたのだろう。



 前田寛治Click!は女性にもて、さすがその扱いにも慣れているせいか、すでに「サービスに美人が三人四人」の中心にいたらしいことがわかる。店の主人とも話をつけて、彼はこのイタズラを思いついたのだろう。また、木下孝則は後年とまったく同様に、特別の美人だけに興味をしめし、「せつ子さん」のみを追いかけてモデルにしている。
 このあと、不器用な佐伯祐三や小島善太郎たちに順番がまわってくるのだが、里見勝蔵Click!は「サービスに美人が三人四人」を意識したのか、おしゃれなフランスのヴァルモンドア地域の風景を描いて得意になっている。さて、困ったのは佐伯祐三と小島善太郎なのだが……。つづいて、小島の記憶から引用してみよう。
  
 すると、今までだまって見ていた佐伯が手近にあった小さい衝立を見付けると立ったなりで硯の中に指を入れて横を睨んでいる。竜の置物であった。その墨をつけた指が小衝立にむかったと同時に忽ち戦いが起って、彼の画に見る激しい生き生きした竜がぐんぐんと出来て行くのであった。/里見も、見てもいられぬ風で、同じ小衝立にヴァルモンドアの風景ホテル・アーチストの雪景を描いていた。そこで僕だったがこういうことには全く無能で、おどおどと小さく鶴のスケッチをしただけであった。そしてわずかの入場料は支那料理代にも不足で、売れた作品は誰も無かった様に記憶する。これが当時の画壇に大きな反響を呼んだ一九三〇年協会の幕あけであった。
  
 佐伯祐三と小島善太郎は、「サービスに美人が三人四人」をまったく無視して、それぞれ勝手な絵を描きはじめ、それまで「わぁ~、前田センセさすがね!」とか「キャーッ、およしになって木下センセ!」とか、「里見センセ、とってもすてき!」とか黄色い声をあげて、せっかく盛り上がっていた女子たちをシーンとさせていたのではないだろうか。w 5人の性格や特徴、雰囲気などが、非常によく表れたエピソードだと思う。



 1930年協会の創立メンバーが寄せ描きした衝立は、おそらく1945年(昭和20)の空襲で焼けてしまったのだろうが、もし現存していたら、5人がこの店で中華料理を一生タダで食べつづけたとしても、まだおつりがくるほどの価値になっていたにちがいない。

◆写真上:1926年(大正15)5月15日~24日に日米信託ビルで開催の、1930年協会の第1回展に出品された佐伯祐三『リュ・ベルサンヂェトリツクス』(1925年)。
◆写真中上は、1930年協会第1回展の展覧会作品目録。は、1929年(昭和4)の1930年協会第4回展に出品された小島善太郎『曇りの日の丘』。は、1930年(昭和5)に駒沢のアトリエで撮影された小島善太郎。
◆写真中下:ほとんどの滞欧作が間に合わず、1930年協会第1回展に出品されたとみられる水彩の佐伯祐三『ベネツィア風景』3部作(いずれも1926年)。
◆写真下は、1930年協会第1回展に出品された佐伯祐三『アッシジ・サンタ・クラーク(アッシジの聖堂)』。は、第1回展の『門』とみられる佐伯祐三『広告のある門』だが、同一モチーフの『広告と門』もあるので断定できない。は、1926年(大正15)5月の第1回展記念撮影で左から里見勝蔵、前田寛治、木下孝則、小島善太郎、佐伯祐三。