大正期になると、東京郊外に「文化村」「田園都市」と名づけられた、西洋館を中心とする新興住宅地が開発されはじめている。その嚆矢として、こちらでは1922年(大正11)に販売を開始した目白駅の西側に接する下落合の近衛町Click!目白文化村Click!、そして同時期に目黒駅の西側に位置する洗足田園都市Click!をご紹介している。
 また、一般の住宅地としてではなく社宅(官舎)街として、ほぼ同じ時期に建設が進んだ埼玉県の川口文化村Click!や、少し遅れて武蔵野鉄道沿線の東大泉に建設がスタートした大泉学園Click!、さらにそれらの計画を追いかけて開発された常盤台Click!や国立、田園調布などについてもチラリと触れてきた。今回は、ちょうど大泉学園の開発構想とほぼ同時にスタートしている、大船田園都市(株)による神奈川県の「新鎌倉」計画=大船田園都市構想について書いてみたい。
 わたしは子どものころ、大船駅には何度も下車して近くの山々へのハイキングや、横浜ドリームランドへ遊びに出かけているが、大船駅前でハイカラな「文化村」的な雰囲気を味わったことは、残念ながら一度もない。目立ったのは、松竹の大船撮影所と無秩序に建てられたと思われる商店や住宅街、工場、倉庫などの姿で、近衛町や目白文化村、洗足田園都市などで感じるモダンな街並みは認識できなかった。
 ところが、大船には上記の郊外住宅地が販売されはじめた1922年(大正11)に計画が進み、大正末から建設がスタートした大船駅前の大規模な「文化村」、大船田園都市が拡がる予定だったのだ。大船駅の東口にはじまり、北東側へと広がる住宅地の総坪数は10万坪以上で、当時の「文化村」計画としては最大クラスだった。計画図を見ると、敷地の西側半分は大泉学園を思わせる碁盤の目のような区画で構成され、敷地の東側半分は常盤台や田園調布のように、広場を中心として放射状に道路が四方へのびている。
 当時の様子を、1925年(大正14)発行の「主婦之友」2月号に掲載された、記者が現地を取材している「東京を中心とした二大田園都市の新計画」記事から、少し長いが引用してみよう。ここでいう「二大田園都市」とは大船田園都市(のちに「新鎌倉」と呼ばれるようになる)と、箱根土地Click!が目白文化村につづき練馬で開発していた大泉学園のことだ。
  
 田園都市はだらしなく発展した郊外の住宅地とは異つて、最初から広漠な土地に理想的な設計をして地割をなし、それに文化的の設備を施した都市を造るのでありますから、都会から解放された私共の住宅地としては、誠に理想郷となるのであります。広い公園道路が縦横に貫通して、青々とした街路樹の間を、四季とりどりの花弁で点綴し、運動場があり遊園地があり、学校、幼稚園、娯楽場、マーケットその他生活に必要なあらゆる設備が行届いて、都会が公園か公園が都会かの観があるべきなのであります。整然と区画した住宅地は尺地も余さぬ窮屈な都会の住宅とは違つて、裕に田園の趣味を味ふに充分であります。そこに子供はのびのびとした心で、すなほに育つてゆきます。私共は都会地の繁煩な労働、油断も隙もならぬ往来の危険から免れて、安楽な一夜をゆつくりと眠ることができます。そして日曜の一日をのんびりした自然の清らかな空気に触れて、新しい元気を培ふことができます。かやうにして私共は自己の仕事のために、家族の保護のために、生活の安定をつくるために、都会地よりも、郊外地よりも、更に一歩を進めて田園都市の生活に移るべく余儀なくされつゝあるのであります。
  
 


 記者は、ことのほか「都会生活」(東京生活)を嫌悪し忌避しているようだが、おそらく江戸東京地方の生まれではないのだろう。冒頭に「都会生活を三代も続けると、その家は滅亡する」などと、読者を脅すような強い口調で書いているが(これ、いまや250万人を超える江戸東京の地付きの人間には、ずいぶんと無礼な表現だ。横浜や大阪、福岡、名古屋、仙台、札幌などの都市で、地元民を前に「この街は三代続くと家が滅亡するよ」などといえるのだろうか? それほどイヤなら、場ちがいなところに住まないで尻に帆かけてとっとと帰郷しよう)、核家族化と少子化が深刻な現代ならともかく、わたしの家はこの街で400年ほどつづいているけれど「滅亡」などしていない。
 さて、大船田園都市(新鎌倉)には、東京郊外の「文化村」を凌駕する設備やサービスがそろっていた。上下水道をはじめ、電燈線・電力線Click!を共同溝に埋設して、街中に電柱が存在しないのは目白文化村と同様だが、大船駅東口から「夕日ヶ丘」とよばれる中央の公園広場まで、まっすぐに街路樹が繁る七間道路がつづいている。「夕日ヶ丘」を中心に、北側には双葉公園、東側には東山遊歩場、大人用運動場、子供用運動場、女性(女児)用芝庭+花壇などの施設が展開している。また、駅前の商業地区と呼ばれる出店用のマーケット区画や各種学校、幼稚園、病院、購買組合、クラブハウス(サロン、宴会場、娯楽場、修養場)、馬場(競馬場)などの施設がそろう予定だった。
 また、大船田園都市(新鎌倉)の大きな特徴として、ディベロッパーである大船田園都市(株)が主食をまかなう炊飯工場を経営し、食事の時間に米飯の宅配サービスを予定している。さらに、同社はクリーニング業も運営して和・洋服の洗濯を代行し、住宅を建てる建設・工務業や清掃業も請け負って定期的に、あるいは要望があればいつでも建設や清掃の作業員を派遣するというサービスも計画していた。



 大正末、東海道線から眺めた大船駅東口の様子を、同誌より引用してみよう。ちなみに、文中に登場する洋風住宅は、ほとんどがモデルハウスだった。
  
 東海道を汽車で旅行する人は、誰でも気付くでせうが、大船駅から東へ展開した平野に、広い道路が開かれてそこにちらほらと赤い屋根青い屋根の文化住宅が建つてゐるのを車窓から眺めることができるでせう。更に幾日かの後に再びこの駅を通るときは、全面の白い山が小さくなつて、低い地が埋立てられてあるのに気付きませう。この一画が新鎌倉と命名された十余万坪の田園都市で、大船田園都市株式会社の経営にかかるものであります。東西北の三方は小丘に囲まれ、南から西南にかけて遠く開け、遥に箱根連峰に対し、富士の雄姿を西方の丘上に親しみ得る大自然を抱擁し、気候温暖空気清澄、常に適当な海気を受けて健康には最も適してゐる地であります。
  
 1925年(大正14)2月の時点で、大船駅東口に近い「夕日ヶ丘」から西の碁盤の目のような区画はほとんど売り切れていたというから、実際に家を建てるのが目的の住民ではなく、投機目的の不在地主が土地を買い占めていたのだろう。ちょうど時期的にみても、不在地主の投機対象となり住宅がなかなか建たなかった、1924年(大正13)から販売を開始している目白文化村の第三文化村Click!のような状況だったとみられる。
 実際に住民が建てた洋館と、モデルハウスも含めた住宅がようやく数十棟ほど建ち並んだとき、1928年(昭和3)に大船田園都市(株)の経営が破綻した。前年からはじまった金融恐慌で、同社のバックにいた東京渡辺銀行が破産したからだ。1925年(大正14)に東京土地住宅(株)が破綻したとき、下落合で開発途中だった近衛町は、すぐに箱根土地(株)が手を挙げて開発事業を継承したが、東京から離れた大船田園都市の開発を引き継ぐディベロッパーは現れなかった。
 6年後の1934年(昭和9)、ようやく買い手として現れたのは、宅地開発業者ではなく映画会社の松竹だった。松竹は、未開発だった土地約9万坪を買収し、そのうち6万坪を「田園都市住宅地」として販売し、残りの3万坪に映画撮影所を建設している。



 大船田園都市時代に建設された数十棟の洋館のうち、現存するのは駅に近い旧・小池邸の1棟のみだ。同邸の前には、鎌倉市による「大船田園都市」の記念プレートが設置されているけれど、もはや開発を記憶している人は地元でもほとんどいない。

◆写真上:1925年(大正14)に、大船駅側から東山遊歩場(予定地)の方向を眺めたところ。いくつかの西洋館が見えるが、その多くはモデルハウス。
◆写真中上は、大船田園都市(株)が作成したパンフレット2種。は、1925年(大正14)現在の大船田園都市(新鎌倉)の開発計画図。
◆写真中下は、同社が建設した平家建て24坪のモデルハウス。は、同モデルハウスと敷地160坪全体の庭も含めた平面図。は、現存する旧・小池邸。
◆写真下は、同社が建設した2階建て34坪のモデルハウス。は、同モデルハウスの平面図。は、1946年(昭和21)に撮影された大船駅東口の様子。