自由学園Click!の高等等科2年だった、横山八重子が訪ねた蕎麦屋Click!は出前が中心の、今日的な表現ならデリバリーが主体の店だった。「高田町郊外」の、静かな街並みの中にポツンとあるような蕎麦屋だったので、ふたりの女中が運ぶいろいろな注文品を、ふたりの出前持ちが代わるがわる宅配しているような環境だった。やはり近所からの注文は、うどんよりも蕎麦のほうが圧倒的に多かった。
 女学生Click!が店ののれんをくぐると、忙しい仕事の合い間をぬって、主人が彼女の質問へていねいに答えている。蕎麦屋の書き入れどきは、秋の10月と春の花見の3~4月ごろの年に2回ほどあるそうだ。主人は、「陽気のせいでせうかね」と繁忙期の原因を季節の変わり目と考えていたようだが、移転や異動などで多く人々が動きやすい時期とも重なるのだろう。あとは、寒い冬場の売れいきもいいらしく、冬季1ヶ月の売り上げを仮に1,000円とすると、夏季7~8月の売り上げは4割減の約600円前後となり、ときには足がでて赤字になることもあるらしい。
 では、注文をこなしながらの蕎麦屋の主人の話を、1925年(大正14)に自由学園から出版された『我が住む町』Click!(非売品)から引用してみよう。
  
 そば粉は何と言つても、やはり信州のが一番で、メリケン粉も、方々の会社によつて違ふが、とにかくその粉を買ひ込んで来て、各々の店でめいめい独特の分量手加減でまぜてつくるといふことです。大方一升のそば粉に五合のうどん粉をつなぎとして、まぜ、それに水または卵子、又芋つなぎといつて芋を入れ、熟練した職人がつくつてゐるのだと主人は申しました。麻布の更科、どこそこのやぶなどゝいふやうな名代のそばの出来るのも、場末の小さい店にあるまづいそばの出来るのも、そば粉の良否は勿論ですが、またこの作り方によるのだと思はれます。名代のそば屋になれば原料も充分精撰出来ますし、職人もいゝ人が得られる訳ですが、小さい店では良い品やよい職人を使ふと当然価が高くなり、人からおいしいそばだとみとめにれるまで、店を持ちこたえてゆけません。そこがやはりどの商売にもあるむづかしい点なのでせう。
  
 1升の蕎麦粉に5合のメリケン粉ということは、この店では通常の「五割蕎麦」を打っているわけだが、当時はごくふつうの一般的な蕎麦屋ということになる。今日のように、「七割蕎麦」や「十割蕎麦」というように、客の好みに応じた蕎麦粉の比率で、さまざまな蕎麦の種類を打ち分けるような流行りはなかった時代だ。つなぎも、卵や山芋など一般的なものが用いられている。
 ただし、今日の蕎麦屋との大きなちがいは、戦後の店は主人が蕎麦打ち職人も兼ねる店が増えて、派遣型の蕎麦職人の数が減っていることだろう。戦前から戦後すぐのころまでは、蕎麦屋の蕎麦は専門の職人が業界団体から派遣されて仕事をするのが常識だった。つまり、スーパーの総菜をつくる料理人たちが、その店舗の社員ではなく料理プロのパートが多いように、蕎麦屋の主人と蕎麦を打つ職人が分離している例が多かった。

 しかし、戦後になると工場で機械生産された蕎麦の大量配送が恒常化し、またそのような蕎麦との差別化を図るために「手打ち蕎麦」の看板を掲げる店では、主人が蕎麦打ちの修行をして自ら打つケースが多くなり、蕎麦職人の出番は徐々に減っていくことになる。だが、現在でも蕎麦打ち職人は消滅することなく、料理屋・料亭やホテルのレストランなどへ派遣されていると聞く。
 そのあたりの事情も、女学生は詳しく訊いているらしく、蕎麦屋の主人は詳細に説明している。つづけて、『我が住む町』から引用してみよう。
  
 そばやの職人は、やはり親方の様なものがあつて、其所から雇ひます。忙がしい時には人をふやしひまな時には減すやうにします。只職人といつてもそばやうどんを作る人と、てんぷらを揚げたりお汁をつくつたりする板場のかゝりと、それぞれの注文に応じて色々準備をする。まあ配膳の役をする人たちとがあつてめいめい仕事を分担してやつてゐます。大抵普通の職人は、月五十円位はとつてゐますが、殊にそばを作る職人が一ばん熟練が要るのださうです。勿論あの細く切るのは機械なのですけれども。
  
 現代の蕎麦屋は、たいがい家族経営の自営業か法人経営が多く、書かれているような職人たちを集めて仕事をする店は少なくなっただろう。それぞれ料理や汁物を分担するのは、給料制の家族か従業員(社員・パート)たちであって、経営の安定化や効率化からいえばフリーの専門職人を雇う店は多くないにちがいない。だが、新蕎麦がでる時期のデパ地下とか、その季節だけメニューに蕎麦が加わる料亭や料理屋では、数ヶ月の契約で蕎麦職人を雇用するケースがいまだあるのだろう。

 街中の蕎麦屋では、年末の年越しなどで蕎麦の需要が一気に高まる時期などは、看板に「手打ち蕎麦」を掲げる店の場合、1日だけの契約で蕎麦職人を臨時に派遣してもらうところもあるのかもしれない。
 蕎麦の出前では、さすがに掛買いするような野暮な家は、高田町(現在のほぼ目白・雑司が谷・高田・西池袋・南池袋地域)にもほとんどなかったようで、売上金の回収で苦労することはなかったらしい。再び、主人の証言を聞いてみよう。
  
 『何といつても味が良くなければかういふ商売は駄目ですから、鴨なんばん、親子などに入れる色々の種物は、皆河岸から直接買つて、板場で料理して使ひます。それに又器物のことも中々大切なんです。なにしろ直接御客様の御口に入るものですから特別気をつけて一番金をかけて清潔なものにしてゐます。』
  
 主人の話を聞く限り、この高田町に開店していた蕎麦屋は、わたし好みのかなりうまい店だったような気がする。もし、現在でも営業をつづけているのであれば、「あっ、そりゃうちの祖父ちゃんがさ、自由学園の女学生から取材を受けたてえ話だ」とコメント欄に情報をいただければ、さっそく食べにうかがいたい。w 彼女は「高田町郊外」と書いているので、上り屋敷あたりの住宅街に開店していた蕎麦屋だろうか。いまも健在であれば、そろそろ創業100周年を迎えているはずだ。


 高等科2年の横山八重子は、女子がひとりで蕎麦屋に洋装で入ったりしたら、かなり目立つ奇妙な光景だと考えたのか、あえて着物袴の姿で訪問している。現代でいえば、清楚な女子がひとりで焼肉屋や一膳飯屋(大衆食堂)ののれんをくぐるようなもので、勇気のいる「かなりの努力だつたのです」の感覚なのだろう。でも、蕎麦屋の主人から多くの情報が聞けて、「うれしくなつて店を出」ている。さて、次回は高田町でもっとも多い「菓子屋」Click!へのインタビュー取材を紹介したい。
                                <つづく>

◆写真上:1927年(昭和2)に竣工した、遠藤新Click!設計による自由学園講堂。
◆写真中上:江戸中期には、蕎麦に葛西産の天然海苔からつくる浅草海苔を載せると倍の料金になった。品川沖で海苔養殖が軌道にのると、浅草海苔の価格は下落した。
◆写真中下:蕎麦屋に入ると、併せて多彩な丼物Click!(写真は親子丼)も注文したくなる。
◆写真下は、本科2年の国語の授業で島崎藤村Click!の『ふるさと』をテキストに使用している。F.L.ライトClick!の来校と前後して、島崎藤村も講演に訪れている。は、1923年(大正12)4月18日に撮影された高等科の第1回卒業記念写真。