織田一磨Click!は、1903年(明治36)に永田町にあった兄の住まいから独立して、本郷区の森川町に住むようになってから、市街地(東京15区Click!)の外周域をこまめに散策しては、風景を写生しはじめている。当時は、東京市電のネットワークなどまだない時代で、ほとんどが徒歩による写生散歩だった。本郷から歩きだし、中野や大久保、新宿まで足をのばすこともめずらしくなかったようだ。
 本郷の森川町から、たとえば雑司ヶ谷まで直線距離で約4km、道路を歩けば片道5~6kmは軽く超えただろう。織田が描いた明治末の作品に、中野駅周辺の風景作品(水彩)があるが、森川町から中野駅までは直線距離で約8km、道を歩けば往復20kmは超えていたのではないかとみられる。当時の様子を、1944年(昭和19)に洸林堂書房から出版された織田一磨『武蔵野の記録』から引用してみよう。
  
 その内に兄と別れて独立し永田町から神田、神田から本郷森川町に移つたので、今度は千駄木、駒込、巣鴨、王子飛鳥山、根岸から千住、小石川の伝通院辺や護国寺、雑司ヶ谷鬼子母神、関口、早稲田、遠くは中野、大久保、戸山の原、新宿といふ方面が写生地として登場して来た。(中略) 当時の雑司ヶ谷辺は、まだ雑木林と、大根畑で、女子大学はすでに在つたが、亀原の台地や墓地なんぞは全く田園風景だつた。音羽通りに田舎家が並んでゐて、護国寺本堂の緑色の屋根は、畑や田圃の向かふに小山の如く構へてゐた。/本郷森川町から、毎朝鬼子母神の森へ冬の赫い朝日が映るのを写生に通つたのを、今でも忘れない。乗物は無いから、駒下駄でコツコツと歩いた。森川町から伝通院へ出て、それから第六天町、江戸川橋、大下氏の前を通つて、女子大学の裏手の路をぬけて、鬼子母神の森へと、三四日通つて写生した。
  
 文中にある「亀原の台地」とは、現在の東京大学目白台キャンパスのある目白台3丁目の丘陵のことだ。以前にも、このあたりにあったきれいな瓢箪型の突起Click!(250~300m)について記事にしているが、なにか亀の甲羅のように見える半球体の突起が、かつて丘上の地面から盛りあがっていたものだろうか。
 織田一磨は、中野や戸山ヶ原Click!まで歩いてくるぐらいだから、もちろん落合地域にもやってきている。織田は、東京の郊外風景をスケッチして記録するのと同時に、昆虫や植物などを採集し標本化することを趣味にしていた。中野駅から北東へ歩き、上落合へ入る直前の丘上にカタクリの群生があるのを知っていた織田は、宝泉寺Click!の東側つづきにある丘へと分け入った。すると、落合火葬場の手前(西側)に「乞食の部落」Click!があるのに驚き、カタクリをあきらめ急いで丘から逃げだしている。



 この「乞食の部落」については、中野区と新宿区双方の民俗資料に証言や記録が多く残されているが、周辺の農民たちよりもよほど生活水準が高く、郵便局には多額の預金口座をもっていた「乞食」たちだった。以前、こちらでもご紹介しているが、くだんの「乞食村」は詩人・秋山清Click!がヤギ牧場を経営していた丘の斜面つづきにあたる。そのときの様子を、同書より引用してみよう。
  
 中野から落合に行く途中に、小高い丘があつて、カタクリが群落してゐた。落合の焼場の附近だつたと思ふ。そのカタクリを採集に行つたらば、丘の上は乞食の部落で、沢山群をつくつて乞食が出て来たので、驚いて逃げだしたこともある。今でも乞食の部落は健在だらうかしらん。/落合から哲学堂の附近も採集には絶好な地だつた。近頃全く行かないから、土地の変遷は知らない。哲学堂へ行く時は中野からでなく、目白駅から行くのが順序だつた。途中も採集地だつたし、写生地としても高台風景で面白かつた。/明治四十二三年の頃は、雑司ヶ谷に居たので、度々この哲学堂辺へ行つた。池袋も近いので午後からでも採集に行つたが、池袋から大塚へ出る近くまでやはり畑地で、相当な採集地だつた。池袋の監獄署は赤煉瓦で雪の日は美くしかつた。
  
 おそらく、カタクリ採集に出かけた際、これから新宿や銀座などの繁華街へ、「出勤」する人々の群れと遭遇してしまったのだろう。w
 織田一磨がこの文章を書いたのは1943年(昭和18)で、翌年に『武蔵野の記録』は出版されているが、「乞食の部落は健在だらうかしらん」と心配したとおり、日米戦争がはじまると配給制が厳しくなって、彼らは食糧や金銭を手に入れるのが困難となり、また警察からも追い立てられて部落は敗戦を待たずほどなく“解散”している。
 織田一麿は、さまざまな野草を採集しているが、ウラシマソウやマムシグサは不気味に思ったのか採集していない。いわく、「ウラシマサウといふのも面白い花だが、この花は妖怪変化のやうな気味の悪い花で、恐ろしいとか毒々しいといふ気持で、面白いけれども、花挿に挿す花ではない。このウラシマサウに限らず、天南星科の植物は概して妖気がある。ムサシアブミでもマムシグサでもカラスビシヤクでもすべてが、蛇のやうな怪しい花を咲かせる」と書いている。
 織田一磨とは反対に、ウラシマソウの妖しい魅力にとりつかれたわたしは、小中学生時代にハイキングやキャンプへ出かけると、必ず樹林に分け入っては探し歩いていた。湘南の山々や鎌倉、三浦半島にかけては、多くのウラシマソウが見られる絶好の山歩きコースだった。ただし、ウラシマソウは登山コース沿いには、すなわち人目につくような明るい場所などには生えておらず、必ず登山道を外れた薄暗い樹林の陽光が射さない日陰、下草に混じって紫色の妖艶な花を咲かせている。それを見つけると、得意になって親たちを呼んだものだが、よく似たヒゲのないマムシグサばかりが見つかると、「なんか、きょうはついてないぞ」と、ウラシマソウ占いのような山の遊びをしていた。




 確かに、薄暗い雑木林の中や山の斜面で、ピーンと長いヒゲをのぼした紫色の、まるで食虫植物のようなかたちをしたウラシマソウは、あまり気味のよいものではないし、ときにはマムシが近くでとぐろを巻いていたりするので、あまり印象がよくないのかもしれないが、ふつうの野草には見られない独特な妖しさを周囲にふりまきながら、ひっそりと起立して咲いているのが、当時のわたしにはなぜか愛おしかったのだ。夏の夜に、月光が射すと暗闇で大きな花をヒラヒラと咲かす、オオマツヨイグサの妖しさに惹かれたのと同じような感覚なのかもしれない。さすがに、都内ではめったに見ることができないウラシマソウだが、神奈川県の山々にはいまでもあちこちで健在だ。
 さて、織田一磨が1938年(昭和13)に描いたスケッチに『武蔵野』がある。曇り空の雲が切れ、何ヶ所からか陽射しが地上の畑地や草原、森などを照らしている情景だ。『武蔵野の記録』Click!より、同作のキャプションを引用してみよう。
  
 武蔵国分寺附近の丘陵地、枯れた尾花が前景に残つてゐて、畑地が背景となつてゐる。この地は現在は住宅が建てられてゐるが、当時は武蔵野らしい感情が流れてゐた。/雲間から射す落日の陽光は、文学的の香りを漾はせて、滅び逝く武蔵野を想はせるものがある。田園交響楽とも近似した風景でもある。/国分寺辺から国立の方には、斯うした景観は随所にみられたのだが、近頃はどうなつたか、其後の消息は知らない。
  
 同書には、そのほかにも小金井の野川沿いを描いた石版画や、府中馬場大門のケヤキ並木、井の頭公園の池など、武蔵野を記録した挿画が多数掲載されている。いちいち紹介できないのが残念だが、織田一麿は作品としての絵ではなく、住宅が押し寄せて市街地化が進み、近いうちに消えてしまうであろう武蔵野の記録としての画面を残すと宣言している。そういう意味では、戸山ヶ原Click!の「記憶画」を残した濱田煕Click!と同じようなコンセプトで、武蔵野風景を連作していることになる。




 織田一磨は、「我々は遊んでゐられない。時間があれば努めて記録を作る可しで、芸術は困難だが記録ならばだれにでも出来る」とあえて書いているが、はたして彼が予想したよりも早く、武蔵野は住宅街で埋めつくされたのだろうか。それとも、彼が予想したよりもずっと後世まで、武蔵野の面影は色濃く残りつづけていたのだろうか。
                                  <了>

◆写真上:国分寺恋ヶ窪の日立研究所内にある、姿見の池の水面に映る雑木林。現在は観光用に別の「姿見の池」が造成されているが、こちらがホンモノの湧水池。
◆写真中上は、1938年(昭和13)に描かれた織田一麿『武蔵野』。は、小金井の国分寺崖線の崖下を通るハケの道。目白崖線の下を通る、バッケの道(雑司ヶ谷道Click!)と近似した北に崖を背負う古道だ。は、下落合に残る武蔵野の雑木林。
◆写真中下は、制作年代が不詳の野川を描いた織田一磨『小金井風景』(石版画)。は、国分寺恋ヶ窪の姿見の池を湧水源に小金井の国分寺崖線下を流れる野川。は、親父の山歩き用のハンディな植物図鑑より本田正次『原色春・夏の野外植物』(三省堂/1934~1935年)掲載のカタクリ(上)とウラシマソウ(下)。
◆写真下からへ、1938年(昭和13)制作の織田一磨『井ノ頭の池』、国分寺から府中にかけて数多い湧水池のひとつ、1943年(昭和18)に描かれた織田一磨『府中馬場大門欅並木』、サナトリウム(結核療養所)があった東村山の八国山にある湧水池。