道のまんまん中に、デ~ンと大木がそびえている。新宿区の保護樹に指定されていたから、伐採されなかった…ということではない。保護樹に指定されたのは、もっとずっとあとの話。わたしはずいぶん以前から、近所に住む人たちのさまざまな伝承やうわさを聞きつづけてきた。
 もともと、江戸期には酒井下総守求次郎の下屋敷があったところで、明治以降は近江鉄道関係者や甲武鉄道関連の所有地となっていたが、本格的に屋敷が建ったのは1900年(明治33)のことだ。広大な土地を買ったのは学習院院長の近衛篤麿だった。でも、せっかく屋敷が建ったばかりだというのに、篤麿は3年後の1904年になぜか急死している。まだ40歳になったばかり。あとを継いだのは息子の近衛文麿だった。彼は父親の残した借財の山に呆然とし、広大な屋敷と華族という階級の矛盾に呻吟しつつ、社会科学への興味とあいまってマルクス主義へ急速に傾倒していく。以降1941年(昭和16)の10月、開戦直前まで首相だったが政権を投げ出して東條英機にバトンタッチ、1945年にはGHQから戦犯に指名され服毒自殺をとげている。まだ49歳だった。
 大正から昭和初期にかけて、明治には威光を放っていた華族たちが急速に没落しはじめる。代々伝えられてきた書画骨董や刀剣類が、次々と売り立て(オークション)にかけられた。それらの売り立て目録(競売カタログ)を見ると、もう信じられないような美術館級のお宝がびっしりと並んでいる。現在では、そのカタログでさえ古書文献としてかなりの高値をよんでいる。しかし、それらの重代家宝を売りつくすと、もはや土地を手放す以外に方法がなくなった。当時、東京府内の宅地再開発ブームとあいまって、華族の屋敷は次々と切り売りされていった。
 もともとこの木は、広大な近衛公爵邸の庭の中にあったものだ。この一帯を、下落合と呼ばずにいまだ「近衛町」と呼ぶお年寄りがたくさんいる。この町名は昔から広く知られていて、マンションのチラシにも下落合2丁目ではなく、「近衛町」と書かれることがいまだに多い。しかし近衛家も時代の趨勢には勝てず1918年(大正7)、文麿の代で書画骨董や刀剣類の売り立てが2回にわたって行われた。1922年(大正11)には、庭園のかなりの部分が宅地として競売され、新たに住宅地の真中を突っ切る道路が作られる。この新しい道は「綾小路」と名づけられたが、東京に京都の名称は似合わずすぐに忘れられた。しかし、他の木々はすべて切り払われたのに、この木だけがなぜか道のまん中に残され、幹の周囲に注連縄が張られることになる。さまざまな理由が取り沙汰されたが、どれがホントなのかは、わたしはいまもって確認できていない。この木をめぐる口承伝承は、民俗学的にも興味が尽きないテーマだ。
 だが今年に入ってから、またぞろこの木の周辺(半径150mぐらい)から、さまざまな怪異現象の話が飛び込んでくるようになった。しかも、その多くは春以降に集中している。このあたりには知人も多く、そういう怪しい情報Click!はすぐに耳に入ってくる。(わたしが好きなのを、みなさん知っているのです) どれもこれも不可解な現象ばかりだが、この町内の多くの人たちがみんな幻覚や幻聴に悩まされているだけ…とも思えない。この道のまんまん中にポツンと残された木と、なんらかの関係があるのかないのか、わたしには判断できないでいる。