江戸時代には、昌平坂学問所編を筆頭に、さまざまな図絵(挿絵)入りの地誌や切絵図(地図)が作成された。特に江戸から大江戸(おえど)へと、府内が急速に拡大するにつれ官製の地図編纂では間に合わず、専門店(町人)による精密な地図が作られていく。たとえば、ひと口に江戸府内の切絵図といっても、尾張屋・近吾堂・須原屋・平野屋など膨大な版が存在する。
 江戸期の地図は木版なのでそれぞれ彩りも美しく、そのデザインや見やすさ、好みなどによって各絵図店のファンが生まれた。ちょうど、読売(瓦版)や浮世絵と同様だ。余談だが、わたしが子供のころから通う、薬研堀の料亭「鳥安」の主人は江戸切絵図の超マニアで、博物館を開館できるほど所蔵している。わたしの祖々父の代、100年以上前から店開きをして代々収集しているようだから、もちろん全国一の切絵図コレクターだ。ここが発行する「切絵図カレンダー」は、観ているだけで楽しいし美しい。そんな切絵図を眺めながら、今の街並みを重ねて想像する楽しみもあるが、中には思いもかけない“発見”をすることがある。
 今回の下落合にある氷川明神女体社(氷川神社下社)のケースも、そんな“発見”のひとつだった。須原屋版の豊島郡の絵図を見ていたら、氷川社の明らかに不自然な形状に気がついた。拡大してみると、さらにはっきりした形が浮かび上がった。釣鐘状の、幾何学的なかたちが明瞭なのだ。しかし、須原屋が恣意的かつ大雑把に、氷川明神をこんなかたちに描いてしまった…という疑いも残る。念のために、十三間通り(放射7号線)が貫通する前の、新宿区役所が撮影した古い航空写真を取り寄せてみると…。やはりそこには、はっきりと氷川社境内の釣鐘状のかたちが確認できた。しかも、十三間通りの下になってしまったところをよく観察すると、釣鐘状の南辺のかたちに沿って家が建てられていたことも初めてわかった。1859年(安政6)に描かれた須原屋茂兵衛蔵の切絵図は、きわめて正確だったのだ。
 東京の河川沿岸(河岸段丘)で、このフォルムが示すもの…それは「前方後円墳」の可能性がきわめて高い。多摩川沿岸、野川沿岸などには、いまでも崩されずに前方後円墳あるいは帆立貝式古墳、円墳などが多数点在している。早稲田大学周辺の戸塚(十塚)町には、江戸期の開墾で古墳の築山を崩した記録が、庄屋文書に多数残されている。ただ、残念ながら開墾時に出土した玄室や出土物は、現在はほとんど伝わっていない。下落合氷川社のある場所が、1966年に発見された「目白・下落合横穴古墳群」(古墳時代~奈良時代)の前庭的な位置にあたるのも、古墳である可能性を高めるファクターのひとつといえる。このテーマは、何か新しいことがわかりしだい引きつづきレポートしてみたい。(…と、宿題ばかりでイヤになってしまうのですが(^^;)
 ちなみに、下落合の氷川明神が「女体社」だから、興味を持ったのではない。奉られているのが、出雲の櫛稲田姫命<クシナダヒメノミコト>一座(1874年・明治7まで一柱)であり、そのパートナーである素戔嗚尊<スサノウノミコト>一座(こちらも1874年まで一柱)が奉られた、神田川下流の氷川明神男体社(高田)に対比する意味で、昔から地元では女体社と呼ばれきただけだ。
 わたしと氷川明神女体社Click!の関係は、かれこれ25年にもなるだろうか。最初、下落合に住んだとき、その敷地が氷川明神の借地だったことが縁の始まりだ。きれいなお姉さんの櫛稲田姫命(クシナダヒメいのち!ではない)は好きなので、ついつい誘惑に勝てず氏子になってしまったが(爆!)、もともとわたしは神田明神は東日本橋連の氏子でもある。でも、みんな同じ出雲の神々(親と子孫の関係)だから、きっと許してくれるんじゃなかろうかと…。(>_<;☆\