石橋湛山という人は、戦後に首相になった人物というよりも、戦前に東洋経済新報社において、一貫して日本の軍国主義と帝国主義に反対しつづけた人物・・・としての印象が強い。それは、1956年(昭和31)に第55代首相となったが、病気のため内閣があまりに短命に終わっているせいだからなのかもしれない。それほど、彼の戦前における言論は、大新聞がそろって翼賛化していく中では異色の存在だった。
 著作を読むと、やがては独立することが必然の国々を植民地化することの無意味さを説き、次の世界大戦を予想しつつ軍部の専横を糾弾し、このままいけば日本はいずれ独立を達成するであろう周辺諸国から深い恨みをかうばかりだ・・・として、植民地をすべて棄てろと述べている。(『大日本主義の幻想』) しまいには、侵略される怖れがないなら警察だけで、軍隊などいらないとまで言い切った。当然、憲兵隊や警察からは目をつけられ、常時尾行されていたようだ。
 まさか戦後に、警察のポリスボックスが、目白文化村の自宅前に常時設置されることになろうとは、当時の石橋湛山は夢想だにしなかったに違いない。石橋湛山が、なぜ第二文化村に住んだのかはわからないが、静かで散策をするにはいい環境なのと、青春時代をすごした早稲田や高田馬場が近かったせいもあるのかもしれない。
 石橋邸は空襲にもかろうじて焼け残り、いまでも当時のすばらしい建築のたたずまいを見せている。つづきは・・・

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■写真:第二文化村の初期建築の風情をよくとどめている石橋湛山邸。